序章 思い出の海

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 枕元でスマホのアラームが鳴っていた。音はそれほどのボリュームでなくても、バイブの振動が枕から伝わって颯斗の眠りを妨げる。 「八時、か……」  ひとり暮らしの大学生の生活、それも夏休みとあっては自堕落になりがちなもの。自身に課したリミットの数字が表示されているのを見て、溜息を吐く。幼い頃の記憶から引き戻されたのが、少し惜しいような気がしていた。  とはいえ、もう少し長く眠っていたところで夢の続きを見ることはできなかっただろう。あの時、祖父の島で、見知らぬ少年たちと海に飛び込んで──あの水の世界で何を見たのか、颯斗の記憶はどうにも曖昧なのだ。  彼が覚えているのは、海で遊んだことで祖父と知らない大人にひどく怒られたということだけ。何のことはない、あの少年たちにしても大人の目を盗んで子供だけで海に飛び込むのは冒険だったのだ。ひ弱そうな都会っ子に対して強気なところを見せてやろうという、敵愾心のようなものもあったのかもしれない。  寝起きの(だる)い身体を引きずって、颯斗はキッチンへと向かった。学生には間取りは1Kで十分、ほんの数歩で冷蔵庫の扉に手が届く。冷やしてあった一リットルのミネラルウォーターのキャップを捻り、直接口をつけて飲む。 「はあ……」  喉を鳴らして水を取り込み、ペットボトルから口を離した時には、中身は半分近くまで減っていた。冷たい水が、寝汗で乾いた身体に染み通るような感覚がある──が、物足りない。 「何なんだろうな、夏バテなのかな……?」  呟いてからもう一度ペットボトルを口に運ぶと、今度は中身は空になる。一リットルをほんの数十秒で摂取したことになる。……なのに、口の中に潮の味を感じるのはなぜだろう。肌がざらつくのは汗ではなくて、海水に濡れているような気がするのは? 鼻の奥のつんとした痛みと潮の香は、本当に夢の名残というだけだろうか。  子供の頃に遊んだ海、その記憶の夢が、今も追いかけてきているような気がしてならない。ここは東京のアパートの一室で、颯斗はもう成人しているというのに。  ペットボトルのラベルを剥いて、収集日に備えてゴミ袋に入れておく。ゴミ袋に溜まったペットボトルの形状は様々だ。寝起きの水分補給用に、最近の颯斗は毎朝違う銘柄のミネラルウォーターを試している。  硬度も産地も様々な銘柄の数々──そのどれもが、彼の乾きを抑える役に立ってはくれなかったけれど。この一、二か月くらいだろうか。あの夏の夢を見るようになってからの無駄なあがきの痕跡だ。  何かおかしい、とは思っている。長いこと忘れていた、夏の海の記憶を頻繁に夢に見るのも。潮の味や香りがまとわりつくようなのも。この前など、目覚めている時だったのに一瞬水に包まれている錯覚に陥ったことがあった。  あの海で、颯斗は何を見たのだろう。岩の間に潜んでいた「何か」が理由なのだろうか。  でも、あの島にはもう何年も行っていない。下手をすると、あの夏行ったきりではないかと思う。祖父の葬儀は、受験だったか部活だったかで欠席している。そう、だから祖父を訪ねるという体裁であの海に行くことももうできないのだ。  もちろん、個人的な旅行として行くのも不可能ではないが、鹿児島沖数十キロの離島を訪ねるのは気軽なことではない。気になるからというだけで簡単に足を運ぶことができるような場所ではなかった。  だから──颯斗はこのまま生きていくしかないのだ。海への憧れだか恐れだか分からない感情と、奇妙な乾きを抱えたままで。そろそろ本格的に就職活動も考えなければならない頃だ。そうやって、平凡に生きていくしかないのだろう。
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