序章 思い出の海

1/3
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ

序章 思い出の海

 青い海に、白く大きい飛沫が上がる。ひとつだけではなく、ふたつ、三つと続けて。子供たちが、勢いよく助走をつけて崖から飛び込んだのだ。 「どげんした、()じいかあ!?」 「はよ来え」  先に飛び込んだ子供たちの笑顔の中、白い歯が眩しい。  彼らが大きく水を掻いて立ち泳ぎする様子からは、十分な深さがある──頭を打ったり足を折ったりする恐れはないと、頭では分かる。でも、颯斗(はやと)の足は竦んで動きそうになかった。  この海を遊び場にしている少年たちと違って、彼は祖父を訪ねて「この島」に来ただけの余所者だ。海なんて、十年ちょっとの生涯で何度行っただろう。行ったとしても整備された砂浜で、大人の監督の下で他所の子供と手足が触れ合う距離で泳ぐような、プールに毛の生えた程度の経験でしかない。  そうだ、足がつかない深さの海なんて、颯斗は泳いだことがない。ましてや、崖から飛び込むなんて。  眼下で魚のように泳ぐ少年たちの笑顔に、はっきりと嘲りと侮りが滲んでいるのが悔しかった。都会育ちの颯斗よりも、彼らの方が外での遊びに慣れて体力もあるのは明らかだった。日に焼けた肌や、しなやかな手足が嫌というほどそれを教えている。長袖で日差しから肌を守ろうとしている颯斗の格好を、彼らは最初奇異の目で見てきたものだ。 「この、弱虫(やっせんぼ)ぉ」  波間から投げられる言葉の意味も、颯斗には分からない。彼と少年たちはあまりにも違っていて、だから同じことができないからといって恥じることなどないはずだった。  でも、たとえ完全に理解できないとしても、明らかな罵倒を浴びせられて黙っていることなどできはしない。自尊心につけられた傷の痛み、それに対する憤りは、高さと水への恐怖を上回った。 「クソ……っ!」  少年たちに倣って、既に服も靴も脱いでいる。裸足の足が岩を踏み、全身を浮遊感が襲う。下着一枚で宙に浮く不安はほんの一瞬、視界がぐるりと回り、海面が近づき── 「──……っ」  水は意外と硬いのだ、ということを思い出したのは、全身に衝撃を感じてから、だった。イルカやトビウオのように、身体を真っ直ぐにして海に入らなければならなかった。プールでの飛び込みでさえ、フォームは厳しく指導されるものなのに。  痛みに悶えるうちに、けれど颯斗の身体は海に呑まれる。口から洩れた泡が水面に上っていくのが、潮が染みて薄目になった視界でぼんやりと見えた。海水は鼻にも入って、鼻腔の奥につんとした痛みを感じさせる。舌先には、強い塩味。少し生臭く、塩素の臭いに慣れた颯斗を狼狽えさせる。  思ったより深い。早く、上がらないと──  海中にどっぷりと浸かり、手足を動かしても海底にも水面にも触れないのに気付いて颯斗は軽いパニックに襲われた。四方を水に囲まれている。捕らえられている。溺れてしまう。  慌てると、また肺が酸素を吐き出してしまった。息苦しさに駆られて必死にもがき、足を蹴る──と、彼が進んだのは、泡が上るのとは逆の方向だった。上下感覚を失って、海底を目指してしまったのだ。でたらめに動く自らの腕の間から見える水底の世界は、恐ろしいほど広く深かった。  幾筋も差し込む太陽の光も、冷静に潜水した時なら美しくも頼もしくも感じたかもしれないけれど、恐慌に陥った颯斗にとっては、絡まる海藻や岩の深い隙間、その闇の濃さをはっきりと浮かび上がらせるものでしかなかった。  怖い。この世界は怖い。人の世界じゃない。  手招きするように揺れる海藻から目を背け、颯斗は水面を目指した。慌てさえしなければ、人の身体は浮くようにできているはずだ。水面へ、人の世界へ引き戻す浮力を感じて安堵した時──多分、彼は油断したのだろう。ちらりと水底に目を向けてしまったのだ。そこには──
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!