7人が本棚に入れています
本棚に追加
Episode.1 雨降りと雨上がり
Guest ― 関谷と野崎 (Lie or Truth?)
「青葉くん」
「な〜に〜?」
「来月……八月の舞台が終わったら、暫くの間、青葉くんの仕事量が減ります。というか、仕事に制限が掛かります」
「え?それは何の冗談?それともドッキリ?」
七月に入って早くも一週間が経った。今年二本目のドラマの収録も、今日で無事にクランクアップした。
共演者の人達や、裏で支えてくれた全てのスタッフさん達や、監督に挨拶回りを終えた。それが済むと、荷物を取りに楽屋に向かう途中で、マネージャーの野崎さんが唐突に変な事を言い出した。
「冗談でもドッキリでもありません。いえ、そう思われても仕方ないんですが……」
否定しつつも、野崎さんの言葉が段々フェードアウトしていく。
俺は着いた楽屋のドアを開けて中に入ると、大して多くはない荷物を纏めた。そして、野崎さんの言葉を考えながら話しを始めた。
「普通はそう思うよ。だって俺めちゃくちゃ元気だし、灯里さんのお陰で超健康!なのに仕事量が減るって……え?!まさか俺……仕事干されたの?!」
「違います、現状は逆です。スケジュールは常にパンパン。最低でも二〜三年先までスケジュールは入っていました。にも関わらず、次から次へとオファーは入って来る状態です」
野崎さんは、一気に捲し立てるように言ったけど、途中の「入っていました」と言うのが気になった。それ以前に、疑問の方が大きいけど。
「じゃあ何で?それにそれって、纏まった休みとか……そういう意味じゃないんでしょ?」
「全く"仕事をしない"という訳ではないので、休みと休みの間に、仕事があるといった感じですね。仕事と休みの対比が逆になる感じです」
仕事があって体調も良いのに、制限が掛かる理由が解らない。そもそもの問題として、仕事に制限が掛かる理由が何だかよく解らない。
普通に考えて、会社……事務所側は"売れてる時に売っておく"がセオリーな筈。俺自身は"貰える仕事は何でもやる"が主義。
経営とかそういうのは全く解らない。だけど、野崎さんの言ってる事が本当なら、仕事があるなら会社も儲かるだろうし、俺も仕事が出来て嬉しいってなる。
「それってもう決まった事なの?」
「決定事項です。今後のスケジュールも調整済みです」
仕事を減らす為のスケジュール調整も終わっている。つまり……事務所側は前々からそう考えていて、それを実行に移したって事になる。
「前から決まってたの?」
「いつから決まっていたのかは解りませんが、私が報告を受けたのは先月の中旬頃です」
「えっ、じゃあずっと黙ってたの?全然、気付かなかった」
「黙っていたとか、隠していたって訳じゃないですよ。言い訳にしか聴こえないでしょうけど、忙しくて話しをするタイミングがなかったんです」
嘘を言ってる感じではなかった。普段もそんな素振りはなかった。でもその言葉通り、忙しくてタイミングがなかったという、要素は確かにいっぱいあった。
大体にして今回のこの現場は、スケジュール通りに進まない事が多かった。その合間にも他の仕事は入っていて、そっちとの調整をするのも、傍で見ていて大変そうだった。
「そうだね。こういう話しをする時間はなかった。俺がオフでも、野崎さんは別の仕事が入ってる日もあったんだろうから。だから時間っていうか、タイミングがなかったのは事実だね」
「ですね。青葉くんの事ですから、移動中や休憩中に話しをしても、仕事に影響は出ないのは解っていました。なのに、そのタイミングを見付けられなかったというか、見誤ったというか……」
ふと(もしかしたら俺が、そのタイミングを失くさせていたのかも)と思った。移動中や休憩中……何かにつけて俺が、灯里さんの話しを始めたり、撮影の事を考えてばかりだったから、なかなか話せなかったのかも知れない。
そう考えると(野崎さんだけの所為じゃないよな)と思った。まぁ……誰の所為でもないし、決定事項ならもう何を言っても覆せないだろう。それでも文句は言いたくなった。
「ねぇ、この訳の解らない話しを始めたのは誰?」
「蒼蒔さんと立花先生です」
「えっ?えぇ〜っ?!」
野崎さんの返事を聴いて驚いた。なんせ二人は、俺が仕事好きな事を昔から知っていた。俺の"貰える仕事は何でもやる"という、主義も知っている。なのにどうして急にそんな事を言い出したのか解らない。
でも、二人には二人の考えがあるのだろう。それはきっと俺の為でもあって、決して意地悪で言い出した訳じゃない事も解る。
「私も最初は納得が出来ませんでした。でも話しを聴いてるうちに、青葉くんの成長の為だろうという事は、何となく理解しました」
「まぁ、二人の言う事に間違えはないって解ってるし、信じてるけどね。でも何か……ん?野崎さんは理由聴いたの?」
野崎さんの話しぶりだと、俺の仕事制限について、二人から話しを聴いている様だった。もし知っているなら、それを聴きたかった。
「理由と言うのか、今後の青葉くんの活動に関する、方針の様な説明を二人から聴きました」
「何で俺の居ない所で、俺の事を話すの?あ~、いや……これは別に普通か」
タレントの居ない所で事務所側が判断して、タレントの活動方針を決める事はよくある。俺も最初の頃はそうだった。
でも高校に入ったくらいに社長が変わって、それからは方針みたいなものはなくなった。蒼蒔さんが副社長になってから、それが顕著になった気がする。方針でも何でもなくて、ただ"青葉のやりたいように"って感じになった。
そこでふと、去年の冬頃から企画書の束を見せられて『どれが演りたい?』と、蒼蒔さんに言われ始めた事を思い出した。俺は迷う事なく『どれも演る』と答えると、蒼蒔さんは『それは解ってるよ』と苦笑いしていた。
『質問を変えよう。この中から青葉が今一番、演りたいと思う仕事に、順番を付けてみて』
『どれも一番だと思って演ってるけど?』
『それも解ってる。でもそうじゃない。強いて言うなら"今の青葉が演じるなら"って意味かな。頑張って考えてみて』
そう言って、仕事内容が書かれた企画書などを渡された。その時も意味が解らなくて、頭を抱えるくらい困った。
それでも、渡された企画書に目を通して、何となく勘で順番を付けていった。それを提出して暫くすると、順番通りに仕事が決まった。スケジュールとの兼ね合いもあって、順番通りにならなかった仕事もあったけど。
そして年末。再び企画書の束と、アンケートの様な物を渡された。そのアンケートには『撮って貰いたい監督』『撮って貰いたいカメラマン』『今後演ってみたい役』『どんな仕事がしたいか』等が書かれていた。
俺は企画書の中から四つピックアップして、アンケートと一緒に年明けに提出した。それを受け取った蒼蒔さんが、それに目を通すと、ちょっと驚いた顔をしていた。そして、微笑みながら『検討しておくね』と言った。
アンケートの答えは殆どが願望に近かったし、どんな仕事がしたいかに至っては、願望というよりはワガママに近かった。それをアンケートの紙には書ききれず、コピー用紙に箇条書きして提出した。
(あの時は何をやらせる気なんだろうと思ったけど……もしかしてこの件と何か関係してる?)
「……おばくん、青葉くん」
「へ?あ、ごめん何?」
色々と考えたり思い出していて、声を掛けられている事に気付かなった。
「良ければ、私が二人と話した内容を、帰りの車の中で話しましょうか?と訊いたんです」
「二人と直接話せないの?」
「不可能ではありませんが、なかなか時間が合わせられないかと……」
予測不可能な行動をする立花先生と、今は在宅勤務をしているという蒼蒔さん。常にスケジュール調整が求められる俺の三人では、野崎さんの言う通り、時間を合わせるのが難しいかも知れない。
その間にも時間は過ぎて、納得するだけの理由も聴けないまま、活動制限が掛かってしまうだろう。
まぁ、理由を聴いた所でそれはもう決定事項だから、異議を唱えても覆る事はないんだけど。それでも理由は知りたかった。それなら先に野崎さんから、話しだけでも聴いておいた方がいいと思った。
「う〜ん……だったら、関谷先生も一緒がいい」
「えっ?!どうしてこの流れで、元宮先生ではなく関谷先生なんですか?」
「関谷先生なら、事務所側の意図も解るかなって思った。灯里さんも解るとは思うけどね」
「なるほど、事務所側の意図ですか。話しの中で、その疑問も解決しそうですけどね。でも確かに関谷先生なら、病院の経営にも多少は関わっている様ですし、青葉くんの疑問に答えられるかも知れませんね」
そう言うと野崎さんはすぐに、関谷先生との約束を取り付けてくれた。関谷先生の仕事が終わった後に、食事をしながら話しをする事になった。
「そうだ。灯里さんに、晩ご飯要らないって連絡しなきゃ」
「青葉くんと会って食事する事を、元宮先生には内緒にして貰う様に伝えますか?」
「それは……う~ん……何か隠し事してるみたいでヤダな。でもな~、どうしよう……」
本当は灯里さんにはまだ言いたくなかった。愚痴るみたいでカッコ悪いっていう気持ちと、変に心配させたり、変な気遣いをして欲しくなかった。だからって、灯里さんに隠し事や嘘は通用しないし、第一そんな事はしたくはなかった。
「それなら、元宮先生も一緒はどうですか?元宮先生なりの意見も聴けるんじゃないですか?」
「そうだな……どうせ話すんだし、何をしたってバレるんだから、最初から灯里さんにも聴いてて貰おうかな」
俺は野崎さんの提案を受け入れた。そして灯里さんに、晩ご飯を四人で食べよう、という内容のLINEを送った。でも関谷先生も灯里さんも、午後の診察に入ってしまったらしく、返事は暫く来なかった。
「この後どうしますか?本当なら終わり次第、帰宅予定だったので、約束の時間まで空きが出来ます。一旦帰りますか?送り迎えはしますよ」
「それはなんか……あっ、事務所のスタジオで、舞台の自主練でもしようかな」
「スタジオが空いてるか確認しますね」
野崎さんがスタジオの確認をしてくれて、空きがあるというので、事務所に戻る事になった。移動の車の中で野崎さんが、来月から始まる舞台の話しを始めた。
「初日と千穐楽に、怜くんと蓮くんが来てくれますよ」
「ホント?!あ、チケット……」
「怜くんが取ったらしいです」
「でも確か、完売だって言ってなかった?」
嬉しい事に舞台のチケットは完売したと聴いた。まぁ、舞台に限らず、ドラマの視聴率も、映画の来場者数も、舞台のチケットの売れ行きも、事務所側だけじゃなく、役者自身も気になるものだろう。
俺はあまり、そういう事は気にしないけど、舞台だけは違った。
なんせ舞台はやり直しが利かない。大袈裟に言うなら、ミスは許されない。もしミスっても、アドリブで対処が出来れば問題はないけど、俺の中でそれは減点対象だ。
それに舞台は、その日その場限り。お客さんの反応がすぐに返ってくるから、いつも以上に真剣に……本気を出さないとならない。その緊張感も、演り甲斐も、舞台は別格だった。だからなのか、舞台のチケットの売れ行きだけは気になる。
「そうなんですよ。怜くんにはいつも、関係者席を用意しますと言っているんですが、自分で取るからと言って断られるんです」
「よく解らないけど、怜くんなりの拘りがあるんだろうね。それなら余計、良い舞台にしないとな」
「ですね」
今の時代、チケットを取るにも苦労するのだという。その大きな原因に、転売屋が横行しているからだという話しを聴いた。転売屋が介入すればする程、当選確率も倍になる。だから、チケットを取るのも簡単ではない。
そう考えると、怜くんはかなりの強運の持ち主なのではないかと思った。それを野崎さんに話したら、鼻息荒く話しを始めた。
「今までが今まででしたから、これくらいの幸運は受けて当然です。寧ろもっと、幸せを享受しても良いくらいです」
「俺に向いてた過保護が、怜くんに全振りされてない?」
「そんな事ないですよ」
「またまた~。だって怜くんが、自転車で病院まで通ってるって話しを聴いて、危ないから止めさせるって言ったんでしょ?」
俺が揶揄う様に言うと、顔を赤くしながら「いや、それは……」と言った。
「俺の時より酷くなってない?お父さんみたい。いや、関谷先生の方がお父さんっぽいから、野崎さんはお母さんかな」
「もう、揶揄わないで下さい」
そんな他愛もない話しをしながら何気なく外を見たら、さっきまで止んでいた雨が降り始めた。今年の梅雨も、一日中雨が降っている日というのは少なくて、降ったり止んだりといった日が多かった。
天気の悪い日は気分も下がり気味になるのだと、灯里さんが教えてくれた。気圧の変化によって、頭痛がしたり体調そのものが悪くなる、気象痛だか何だかというモノもある、という事も教えてくれた。
(そういえば緋采(ヒイロ)も良く、天気の悪い日は『頭痛い〜』って言ってたな……)
「ひーちゃんは元気?」
「え、緋采さんですか?元気ですけど……連絡取ってないんですか?」
「LINEくらいはしようと思ってるんだけど、動画見てるよとは言えないし、灯里さんの話しも出来ないじゃん。そう考えると、内容が思い付かないんだよね」
妹の緋采はVTuberだけど、何故かそれを俺に隠したがっているみたいだったから、敢えて知らないフリをしている。だから、何となく仕事の話もしにくい。
俺は俺で、灯里さんの事はまだ話せずにいるから、出来る会話が見付からずにいる。
「考え過ぎじゃないですか?もっと日常的な事でいいと思うんですけどね」
「そうかなのかな~」
そう言ったっきり次の言葉が出てこなくて、思わず黙ってしまった。野崎さんも気を遣ってくれているのか、黙ったまま運転をしていた。
俺は(いつかちゃんと、緋采にも家族にも……灯里さんの事を話したい)と思った。灯里さんの言う様に、認めて貰うのは難しいかも知れないけど、せめて"いま凄く幸せだから"と、話せる日が来るといいと思った。
雨の水滴が、窓の外の世界との視界を遮る。まるで"お前等みたいな同性愛者は表の世界に来るな"と、そう言われている様だった。
(あ、なるほど。気分が下がるってこういう事か。確かに……うん、これは良くない……)
「ネガティブ思考は敵!」
「え、な、何ですか唐突に。どうかしたんですか?」
「ごめん、つい口に出ちゃった」
「ビックリするから止めて下さい。うっかりブレーキ踏んで事故を起こす所でしたよ」
どうやら、めちゃくちゃ驚かしてしまった様だ。俺はもう一度「ごめんなさい」と謝った。
「いいんですけどけね。でも、いくら慣れてるとはいえ、急に大きな声を出されるとビックリしますよ」
「そんなに大きな声だったかな〜」
「発声は基礎中の基礎ですからいいんですけど、それはスタジオでやって下さい。あ、そろそろ着きますよ」
「は~い」
野崎さんの言った通り、暫くすると事務所のビルが見えて来た。いつもと同じ様に地下の駐車場に車が停まって、俺は荷物を持って先に降りると、野崎さんが降りて来るのを待った。
「意外と時間掛かったね」
「渋滞に捕まらなかっただけ、まだマシですよ」
そんな話をしながら、スタジオのあるフロアに行く。時間帯の所為か、行き交う人は少なかった。俺が「どの部屋?」と訊くと、野崎さんが「Dです」と言った。
少し歩いて言われたスタジオに入ると、荷物を置いてスマホだけ手に持った。
パイプ椅子に上着を掛けてスマホを置くと、軽いストレッチを始める。そして軽く目を閉じると、台本の内容を頭の中でイメージし始めた。
自分のシーンが流れると、セリフが自然に口をついて出て来る。それに合わせる様に身体も自然と動く。
ドラマの撮影があったから、俺だけ他の皆との合わせが、あまり出来ていなかった。でもそれを"失敗してもいい"理由にはしたくない。可能な範囲で、練習中の動画を撮って来て貰ったり、話を聴いたりした。
(この辺は後で皆と合わせながら調整して……あれ?)
開始してから早くも、一時間は過ぎていただろうか。気付いたら野崎さんが居なくなっていた。リュックからタオルを取り出して、汗を拭きながら(さっきまで録画してたと思うんだけどな……呼び出しかな?)と思っていた。
すると、まるで見ていたかの様なタイミングでドアが開いて、野崎さんがビニール袋を持って入って来た。
「休憩にしますか?」
「うん、ちょうど一段落した所だよ」
「それは良かった。飲み物買って来ましたよ」
「やった~」
そう言って、野崎さんから受け取った袋から、水を一本取り出すと、キャップを開けて一気に半分くらいまで飲んだ。
「そんなに一気に飲むと、お腹壊しますよ」
「だって暑いんだもん。梅雨だけど夏だね」
「梅雨も夏のうちですよ」
可笑しそうに野崎さんが言う。この仕事をやっていると、こういう所でちょっとしたズレを感じる。
「先月、七種さんに撮って貰ったCMの商品って、夏物だったよね?」
「そうですよ。CMは今月から流れてます。商品も同じ日に店頭に並んだ様ですが、早くも完売が出ていて、入荷待ちだそうです」
最近では商品も、季節を先取りするかの様に、早い段階から店頭に並んだりCMが流れたりする。
「CMの評判は物凄く良いです。次のオファーも来ていると聴きましたよ」
「そうなの?!七種さん、やっぱ凄い!俺もあのCMは絶対、いけると思ってた!めちゃくちゃカッコイイもん!」
「何、他人事みたいに言ってるんですか。撮ったのは確かに七種さんですけど、出演してるのは青葉くんと、謎のモデルさんでしょう」
「そうだけど、あれは七種さんじゃなきゃ撮れないよ」
蒼蒔さんに提出したアンケートに、撮って貰いたい監督もカメラマンも、七種さんと書いた。ピックアップした企画書のどれにも、七種さんに撮って欲しいと、付箋に書いて貼り付けた。
どれも通らないと思っていた。だから蒼蒔さんから『伊吹が撮るよ』と聴いた時は、本当に嬉しかった。絵コンテならぬ、絵動画を見せて貰った時から、身体がウズウズして仕方なかった。
でもそれだけじゃなかった。残りのCM二本と舞台のメインカメラ。そして、ダメ元で提出した"自分のやりたい事"を書いた企画……映画の監督も、七種さんが引き受けてくれる事になった。
(あの七種さんが、どうしてやる気になってくれたのかは……多分、結人くんのお陰かな〜)と、思った所で再び疑問。
「ねぇ……七種さんが引き受けてくれた、CMとかの仕事もなくなるの?映画も?」
「それは心配要りません。また後で話しますが、舞台が終わった後は、その四つの仕事がメインになります」
「なら良かった。いや、良くない。仕事ってそれだけ?」
「いえ、他にもありますよ。あっ、そうでした。関谷先生から連絡がありました。余裕を持って19時に、ホテルのロビーで待ち合わせする事になりました」
それを聴いて、慌てて自分のスマホを見る。だけど、待ち受けには何の表示も出ていなかった。時計は17時半をとっくに過ぎていた。
(えぇ、灯里さんも診察は終わっている筈なのに……)と思っていたら、これまたタイミング良くバイブの振動が手に響いた。
『すいません、返事が遅くなりました。今スマホを見て、関谷に確認しました。また出る時にLINEします』
いかにも灯里さんらしい内容だった。だけど文面からは、何か急いでる様にも見て取れた。
「忙しいのかな?」
「ちょっとした、打ち合わせがあるそうです」
それを聴いて納得した。打ち合わせの前に、関谷先生から話を聴いて、慌てて連絡してくれたのだろう。それこそ、後でも良かったのにと思った。
「早く会いたい~」
「後少しの我慢じゃないですか」
「そうだけど~。あれ?待ち合わせって何処なの?」
「この近くのホテルです」
近くのホテルなら歩いてすぐの所と駅ナカにあるけど、俺が居るから駅ナカではないだろう。だとすると、時間までまだ一時間はある。
「俺も後少し練習しよ〜」
「いくら明日が休みだと言っても、程々にして下さいね。疲れている時こそ、怪我をしやすいと言いますから」
「解ってま〜す」
それからまた練習に夢中になってしまった。野崎さんに声を掛けられて、我に返って壁の時計を見ると18時半だった。
「着替えますか?」
「うん、上だけでも着替えるよ。リュックに入ってるから出しといて欲しい。俺は顔洗ってくる~」
そう言い残してスタジオを出ると、顔を洗いにトイレに向かった。本当ならシャワーだけでも浴びたかったけど、ギリギリまで練習してしまったから諦めた。
(確かボディシートが入ってた気がする……あれ?ただの制汗スプレーだったかな?)
そんなどうでもいい事を考えながら、顔を洗ってスタジオに戻ると、野崎さんが「これも使いますか?」と言って、ボディシートも一緒に渡してくれた。それを受け取りながら、俺は「これ入ってた?」と訊いた。
「入ってましたよ。自分で入れたんじゃないんですか?」
「覚えてないんだよね〜」
「青葉くんの事ですから、今日の撮影の事でも考えながら、支度してたんじゃないんですか?」
「う~ん……そうかも知れない」
俺がそう言うと、野崎さんは呆れながらも「そういう所は相変わらずですね」と言って笑った。
人間そう簡単には変わらないし、変われない。変わろうと思って、すぐに変われる人間は殆どいないと、灯里さんが言っていた。
変わった様に見えても、それはそう"見えている"だけ。実際は何も変わってなかったりする。俺の"それ"も、きっと同じ事だ。
「よし、サッパリした。あ、灯里さんからLINE来てた」
「関谷先生からも来てました。後20分くらいで着くんじゃないですかね。私達も行きましょうか」
「そうしよう!」
二人でスタジオを後にして、ホテルに向かって歩きながら「ところで、今日のレストランって何料理?」と、問い掛ける。
「今日は和食です」
「野菜少ないといいんだけどな」
「野菜は今が旬の物が多いらしいですから、出るんじゃないですか」
笑いを堪えながら野崎さんが言うから、ちょっとムッとして「前よりは食べられる様になったんだよ」と反論した。
事務所を出ると雨は止んでいて、水溜まりだけが道路のあちこちにあった。このまま降らなければいいと思ったけど、帰る頃にはまた降り出しそうな気もした。
待ち合わせの場所に着くと、既に関谷先生と灯里さんは来ていた。余裕を持っての待ち合わせ時間だから、打ち合わせが早く終われば、その分早く病院は出れただろうし、車の流れが良ければ、当然ながら早く着く。
「お待たせしました」
「お疲れ様~」
「お疲れ様、俺達も少し前に着いたばっかりですよ」
「お疲れ様です」
それぞれが挨拶をして、野崎さんを先頭にレストランに向かった。エレベーターの中で、灯里さんに「ずっと練習してたんですか?」と訊かれた。
「うん、皆より遅れてるからね」
「無理しないで下さい。本條さんならすぐに追い付きます」
「だといいんだけどね~」
エレベーターが停まって扉が開くと、着物姿の従業員さんらしき人が出迎えてくれた。呆気にとられている灯里さんの手を握って、案内された個室へと押し込む様に入る。
関谷先生と灯里さんを並んで座らせて、野崎さんと俺はその向かい側に座った。その瞬間、灯里さんが口を開いた。
「本條さん、これは──」
「待って、先に俺の話を聴いて。えっと、今日は相談っていうか……二人の意見が訊きたくて、俺が野崎さんに頼んでセッティングして貰いました。いやでもまさか、こんな凄いお店だとは思わなかったけど……」
俺は"無駄遣いをして"と怒られると思って、慌てて否定するつもりが、馬鹿正直に要らない事まで話してしまった。
「それについては私から……」
「あ、何となく解りました。本條さんが居るから、個室のあるお店なんですよね。それと……このお店は、社長さんが選んだのではないですか?」
「正解です」
「灯里さんは名探偵だね」と俺が言うと、野崎さんが「青葉くんへのご褒美と、二人へのお詫びだそうです」と、そう前置きをして話を始めた。
今日がドラマのクランクアップだった事。今回の撮影現場は散々で、撮影が長引いたり押したりして、スケジュールの関係で俺の休みが潰れた日が何回かあった事。
「現場ではいつも通りの青葉くんでしたけど、休憩中や移動の車の中では愚痴が多かったです」
「え"っ、そんなカッコ悪い報告しないでよ」
「本條さん、それが普通ですよ。誰だって愚痴や弱音の一つや二つ言います。因みにコイツは、口にこそ出してなかったたけど、眉間に皺が寄りまくって……って、痛い痛い……」
恐らく見えない所で、攻撃を食らっているのだろう。灯里さんの笑顔は、目が笑っていなかった。
「それでも、頑張って最後までやり遂げたのは本條さんで、それが仕事だからでしょう」
「そう、それが俺の仕事。帰りが遅くなったり、休みが潰れて愚痴ったりもしたけど、それも含めて俺が選んだ好きな仕事。だから、ギリギリのラインまで頑張るのは当たり前」
「と本人が言っているので、ご褒美は要らないと思います。それに、お詫びだと言われても困ります。何か被害を被った訳ではありません。俺は"そういう事もある"と、覚悟の上でお付き合いさせて貰ってるんですから」
灯里さんの言っている事は、きっと間違えではないんだとは思う。それでも、時にはその好意に甘えるのも、きっと必要なんじゃないかと思う。特に灯里さんは。
「灯里。お前は何でそう、人の好意を素直に受け取れないんだ。社長さんやお前が言う様に、本條さんが頑張ったっていうなら、会社側は本條さんの働きで儲かった訳だ。そのご褒美ってのは、臨時ボーナスみたいなもんだから、受け取る権利はあるよ。そして本條さんを支えたお前にも、感謝の気持ちって事なんだろう。素直に受け取れ」
関谷先生がお説教……というよりは、言い聞かせるように話をすると、灯里さんは「俺は別に……」と、叱られた子供みたいにシュンとしてしまった。
「解った!灯里さんの分も俺が貰えばいいんだ。それで、俺が関谷先生と灯里さんに、今日の相談料を払うって感じにすれば……ん?あれ?何人分払えばいいんだ?」
「ふはっ……解りました。本條さんが混乱するので、今日は素直に受け取ります。ですが社長さんには、本條さんの事も俺の事も、あまり甘やかさないで下さい、と伝えて下さい」
「解りました、伝えてはおきます」
野崎さんが含みのある言い方をする。つまり……伝えるけど甘やかさない保証はないって事なんだろうなと、つい深読みしてしまう。でも多分、俺がこれからも頑張って仕事をする限り……とそこで思い出した。
「ねぇ、関谷先生はさっき、俺の働きで会社は儲かったって言ったでしょ?あ、その前に乾杯しようか?」
「俺は皆を送って行かないといけないから……」
「はい、お茶です。元宮先生と青葉くんは、コースに付いて来たスパークリングワインで良いですか?」
「懐石料理だから、日本酒なのかと思った」
「食事の前に、重いお酒は出ませんよ」
各自がグラスを持った所で、俺が「乾杯!」と言うと、皆も「乾杯」と言った。そのままスパークリングワインを一口飲むと、香りも口当たりも良くて飲みやすかった。
「これ美味しい〜」
「美味しいですね。国産物かな?」
「あ、飲みやすいですね。ワインが苦手な私でも、抵抗なく飲めます」
「あ〜ぁ……皆を送るなんて、格好付けなきゃ良かった。俺もそれ飲んでみたい」
それぞれが感想を言った後、関谷先生が悔しそうにそう言うので、思わず三人で笑ってしまった。その笑いが収まった頃、料理が運ばれて来た。今度は料理の感想を、思い思いに言い出す。
灯里さんは一品一品、味わいつつも「この味付けはいいですね」とか「これは家でも出来そう」等と、二人で外食する時の様に感想を言った。
たまに関谷先生が「こんなの家で作れるのか?てか、作ってんの?」と、驚きながらも感心した様に言う。
「完全に再現するのは無理だけど、似た様な物は作れる」
「元宮先生は、グルメレポーターになれそうですね。もしくは料理ブロガーになれそうです」
「そういうの興味ないですね。でも作るのは趣味ですから、美味しい物を食べるとつい、家でも作れないかなと考えてしまうんです」
「アレンジするのも上手だよね。それに栄養も考えてある」
灯里さんの料理は美味しいだけじゃなく、栄養バランスも考えられてる。特に、俺が撮影なんかでロケ弁が立て続いた時は、偏らないようにと工夫されていた。
「遼さんも、栄養バランス考えてますよね?やはり気になるんですか?」
「ん〜、奏汰も俺も不規則だから、せめて食事くらいは……って思ってるだけかな」
「俺もその程度だぞ。そんなに深く考えて作ってない」
「そうなの?灯里さんの事だから、凄く考えられてそうなイメージだった」
俺がそう言うと、関谷先生と野崎さんも「解る」と、同時に言ったのが面白かった。そんな関谷先生が、飲んでいたお茶のグラスを置くと、俺の顔を見て「それで、さっき途中になった話しの続きだけど……」と言った。
「確か、本條さんの働きで会社が儲かった……だっけ?」
「そう。俺が仕事をする事で、会社が儲かる。それなら普通は、もっと俺の仕事を増やそうとするよね?」
「あくまでも"商品"とした時の、一般的な考えの前提ね。それで考えると"売れる物はもっと売ろう"ってなるね」
「それで採算が合うならいいけどな。売れてるからって調子に乗ると、採算が合わなくなったり、在庫を抱えるはめになる」
関谷先生の意見も、灯里さんの意見にも納得がいった。というよりは、解りやすい説明で助かった。
「今度はどうしたんですか?話振りからすると、仕事がなくなった……という訳では、なさそうですけど」
「仕事はあるのに、仕事をさせてくれないんだって」
俺が拗ねる様に言うと、野崎さんが慌てて「仕事はして貰いますよ」と言った。その様子を見聴きしていた二人は、首を傾げて不思議そうな顔をしていた。
「では、私が副社長と立花先生から言われた話をしますね」「ん?ちょっと、すいません。その、立花先生というのは、小説家の立花先生ですか?」
「そうだよ。えっとこの前、七種さんに教えて貰いながらゲームしたでしょ?その時に一緒にプレイした"ゆかっち"さんでもある」
「え、は?七種さん曰く"凄腕ゲーマー"の、ゆかっちさんが立花先生なんですか?!」
これまで見た事もない様な驚きっぷりと、鼻息も荒くといった感じで灯里さんは食い付いてきた。その反応を見て、関谷先生は気になったみたいだけど、その辺の詳しい話しは今は置いておこう。
「いや、それ以前に……言い方は悪いけど、一介の小説家である立花先生が、どうして口を出してくるんだ?」
そう疑問を投げ掛けた関谷先生の言う事ももっともで、その辺の事情は俺もあまり詳しくは知らなかった。
「お解りだとは思いますが、先生の"立花紫"というのはPNです。本名は一ノ瀬縁人さん。一ノ瀬グループの……上に居る人です」
「一ノ瀬グループ?!日本でも屈指の大企業の?!しかもお偉いさん?!」
今度は関谷先生が、いつにないくらいの驚きを見せた。その反応とは別に、灯里さんが疑問を投げ掛ける。
「もしかして……蓮くん達が良く話している、従兄のお兄さんですか?」
「そうです。蓮くんと結人くんの従兄で、怜くんの事も本当の弟みたいに可愛がってくれてます」
野崎さんがそう言うと、二人の顔が少し緩んで微笑ましいといった感じになった。
「そういえば、前に関谷とも話してたんですけど、俺達が通っていた高校の、二つ上の学年に同姓同名の人が居ました。男性なのに綺麗でイケメンだと、俺達の学年でも有名人でした」
「同一人物ですよ。副社長の蒼蒔さんも、同じ高校を卒業しています」
「流石、本條さん。人を引き寄せるね〜」
「そうかな?立花先生の方が人を引き寄せると思うけど?」
思った事をそのまま言っただけなのに、二人は「いや、本條さんでしょ」と言った。
「あっ、一ノ瀬縁人……人の縁を作る。そして結人くんだっけ……が、その縁を結ぶか……まさに、名は体を表してるな」
「なら、本條さんはなんだ?」
「ん~、強いて言うなら……行動かな?」
関谷先生の答えに、灯里さんと野崎さんが「解る」と言って納得した。でも俺にはピンと来なかった。
「ごめん、話が逸れたね。えっと、その一ノ瀬さんがどうして……あっ、事業というか業務提携してるとか?」
「そうです、業務提携をしています。でも、余程の事がない限り会社にも来ませんし、タレントの事に関して口は出さないですね」
「でも本條さんの事には口を出してきた訳だ」
「青葉くんの事は、本当に目を掛けてくれています。とは言っても、ここぞという時にしか口は出してきませんけどね」
目を掛けられる理由は解らないけど、先生にはいつも可愛いがって貰ってる。だけど、厳しい事も沢山言われる。俺の知らない事を知っていて、色んな事を教えてくれるから、話をしているだけで勉強になる。
有名な小説家だとか、めちゃくちゃ有名なお偉いさんだとかそういうのは関係なく、単純に俺は先生が好きだ。勿論、先生の書く小説も好きだけど。
人としても男としても、憧れるし尊敬もしている。俺にはない物をいっぱい持っている人だ。とか何とかごちゃっと考えていたら、話しは進んでいた。
「そんな二人から、本條さんの仕事について話が出た訳だ」
「要点だけ話すと……」と前置きして、野崎さんは話始めた。
プライベートも大切にして欲しい事。その為にも、増えたプライベートな時間で、もっと色んな事を学んで欲しいと思っている……等の事を、話してくれた。
それを聴いて「プライベートなら、もう充分過ぎるくらい充実してるけど?」と言って、今度は俺が反論する様に話を始めた。
念願の車の免許が取れて、灯里さんと二人で買い物がてらドライブに行くのが楽しい事。車や道路に関する知識が増えて、俳優仲間やスタッフさん達と、そういう話で盛り上がれる様になった事。
それまで灯里さんも俺もゲームには興味なかったけど、身近な人達にゲームをやる人が多くて、話を聴いてるうちにやりたくなった。そして、オススメされたスマホのゲームから始めた事。
七種さんからゲームのソフトを誕生日に貰ったのに、ゲーム機がなくて買いに連れて行かれた。二人分のゲーム機を買って始めたら、二人でハマってしまった事。
挙句の果てに灯里さんを説得して、空いてる部屋をパソコンルームにした。それをキッカケに出来るゲームが増えて、今度はゲームの話で盛り上がれる様になった事。
「ね、充実してるでしょう?」
「本條さんの言う事もそうなんだけど……多分……ちょっと違う様な……」
「え、違うの?だって、プライベート充実してるって事は、大切にしてるって事でしょ?」
関谷先生のいかにも"どう説明したらいいんだ?"という雰囲気に、俺は(何が違うのか解んないよ!)と心の中で叫んだ。
「それだけでは足りないんでしょう。大体にして、それだけでは学んでいるうちに入りませんよ」
「趣味が増えるのは、単純に良い事だろ。しかも二人でってのは、灯里にとっても良い事だと思うけどね」
「え~、でも違うんでしょ?じゃあどうすればいいの?何やればいいの?」
関谷先生と灯里さんの遣り取りを聴いていて、良い事だけど足りないってのは解った。でも"足りない"という、その具体的な事が見えてこなくて、思わず駄々を捏ねる子供みたいに言った。
「青葉くん、そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。そこは、制限が掛かってから、考えても良いんじゃないですか?」
「自分で言うのもなんだけどさぁ……売れてるのに、どうして売らないの?そこが全く解らないんだけど?」
「それについても、私が聴いた話をします」
そう言うと、野崎さんが再び箇条書きを読むかの如く、要点を話し始めた。
俺が頑張った分は俺に返ってくるだけじゃなく、会社側の利益になっても繋がっている事。CMでもドラマでも何でもそうだけど、その広告主やスポンサー達も、俺が出れば儲かる事が解っているからこそ、高い出演料を払ってでも仕事を依頼して来る事。そこまで聴いて、黙っていられなくなった。
「だったら、やっぱり仕事を減らすのはおかしくない?昼間も野崎さんには言ったけど、灯里さんのお陰で俺の体調は凄く良い。もっと上を目指したいっていう、やる気だってあるよ?」
「野崎さんはその辺りの事を、もっと詳しく聴いていないんですか?」
「今改めて思ったんですが、どうやら上手い具合に、別の方向に話を逸らされた感じがします」
いくら野崎さんが相手でも、あまり詳しくは話して貰えなかったのだろうか。それにあの二人なら、相手に気付かれずに話しを逸らす事くらい、簡単な事だろうと思った。
「う~ん……もしかしてだけど……」と、関谷先生が何かを考えながら切り出した。
「上手い言葉が見付からないんだけど要は、本條さんを出し渋り出したって事じゃないか?」
「本條さんを出し渋って、更に値を釣り上げようって?」
「いや、そうじゃない。単に値を釣り上げるだけなら、既に上がってると思う。退院してからの数ヶ月は別にしても、この一年の仕事っぷりっていうか、活躍ぶりは芸能界に疎いお前でも解るだろう?」
関谷先生の問いに灯里さんは無言で頷くと、何かを考え始めた様だったが、不意に「Mehrwert……」と言った。思わず俺は「え?」と聴き返したけど、二人もキョトンとした様な顔をしていた。
「付加価値を付けようとしてるんじゃないですか?」
「あのさ~、急なドイツ語止めろって。何かと思うじゃん」
会話の中で唐突に、ドイツ語や英語が出てくる事にはもう慣れた。
灯里さんに勧められて、英会話のリスニングを始めて約一年。解らない時は灯里さんに教わったりして、日常英会話くらいなら出来る様になった。まぁ、ドイツ語はサッパリ解らないんだけど。
「今のドイツ語だったんだ。英語だと確か、Added valueだよね?」
「そうです。あ、それで……関谷の仮定を前提とするなら、お金の話ではないとなる。それでも、本條さんを出し渋る理由を考えるなら、付加価値しか思い付かないと思ったんです」
「まぁ、それしか考えられないよな~。売れてるのに売らない理由が金銭じゃないなら、本條さん自身に付加価値を付け るって理由しかないだろう」
俺に付加価値を付けるとは、一体どういう事なのか。それに対して、制限が掛かる理由も未だに解らない。
「ん~、まぁ……それだって、機会を誤れば逆効果になって、会社は大赤字になるかも知れない。だけど踏み切ったって事は、勝機があるんだろうな」
口にこそ出さなかったけど、心の中で(二人がそうするって事は、勝機は確実にあるんだろうな)と思った。
「その為に、仕事に制限を掛けた。プライベートな時間を、有効活用しろって事か……」
「ん?どういう事?」
「端的に言うなら、成長しろって事でしょう?」
「だったら仕事してる方が良くない?」
すると「それなら、副社長達が話していた事に結び付きます」と、何かを思い出した様に野崎さんが言い出した。俺が「なんて言ってたの?」と急かす様に促す。
「『周りからは出し惜しみだとか、選り好みしてるって言われるかも知れないけどね』と、言ってました」
「うん?ちょっと待って。その"選り好み"って言うのは、仕事を選ぶって事?」
「私もそう思って同じ質問をしました。副社長は『ハッキリ言うならそう』と、断言してました」
「あっ、だから俺に仕事を選ばせたりしてたのか」
なるほど、やっぱりあれは伏線だった。蒼蒔さんに言われてやっていた事と、この件は繋がっていたのだ。そう考えるとこの話しは、二人の間では結構前から出ていたのかも知れない。
「それに立花先生も、青葉くんには"貰った役を演る"ばかりではなく、自分が今"本当に演りたい役"というか"演ってみたい役"と、思う物を演って欲しいみたいですよ。それと"息の長い役者"になって欲しい様な事も言ってました」
「あ~、それで皆"今の本條青葉"みたいな事を、口癖みたいに言ってたのか」
「すいません、その"貰った役"と"やりたい役"というのは、その……何が違うんですか?」
灯里さんが申し訳なさそうに言うと、関谷先生が「そのままの意味だろ」と答えた。すると「なら"今の本條青葉"っていうのは?」と、灯里さんは関谷先生に向かって言った。
「そこはよく解らないけど、例えるなら"過去の自分"っていうのと"今の自分"てヤツじゃないか?特に芸能界は、一人のタレントでも、その時その時で、その人が醸し出す雰囲気や、表情が違うじゃん?え〜と、この場合は役とか関係なく……かな?」
「そうそう、役は関係ない。俺は最近"色気が出てきた"とか"顔付きが違う"ってよく言われる様になった。前はそんな事、お世辞に程度にしか言われなかったのにね」
「それが"今の本條青葉"ですか。あ、つまりあれか……」
そう言った灯里さんは、どこか一点を見詰めながら、言葉を選ぶ様に話を続けた。
「えっと……自分で掴み取れって事か?」
「なんか灯里が言うと、物騒に聴こえるんだけど。それに、掴み取れはちょっと違うんじゃない?本條さんがやりたいって言えば、その役が出来る訳だから」
「そんな事ないですよ。いくら青葉くんでも、言ったからといって、必ずしもその役が貰えるとは限りません。実際、そういう事がありましたし……」
野崎さんが言葉尻を濁して言うと、関谷先生が「え、そうなの?」と驚いていた。俺は変に気を遣われたくなくて、「あったね~」と、軽い口調で言った。
「もう何年も前の話だけどね、ある舞台のオーディションを受けたんだよ。俺は、主人公と一緒に戦う親友の役がやりたかった。だからそのオーディションを受けたのに、実際に貰った役は主役の主人公だった」
「それは……あ〜、これ言ってもいいのかな……」と、関谷先生が言い淀む。
俺は(気を遣われてる……ていうか、関谷先生には解るのかな)と思って、関谷先生に(言っていいよ)という意味で、無言で首を縦に振った。
「今更、気を遣う必要はないか。え〜、そのオーディションって、所謂"出来レース"だったんじゃない?何年前かは解らないけど、かなり昔から本條さんはトップに居たからね。それを考慮するなら、主催者側というかスポンサーは、最初から本條さんを主役にする気だった」
「それならわざわざ、オーディションなんて面倒臭い事せずに、事務所なり本人なりに依頼すれば良かっただろう」
「それだとケチが付くだとか……色々あるんだろう。そこまでは解らないけど、それがきっと芸能界の遣り口なんだよ」
「う〜ん……何がどう繋がるのか……」と言って、灯里さんは再び考え始めた。
関谷先生の言う通りで、そのオーディションは最初から出来レースだった。当時はそんな大人の事情みたいな事は、まだよく知らなかった。だから俺は、普通にオーディションを受けた。
「もし……あ、あくまでも仮定ですよ?もしその時、その舞台の依頼が直接、本條さんに来ていたら、本條さんはその主人公役を引き受けました?」
「うん、仕事だからね」
「そのオーディションが出来レースだって知っていた。もしくは、そうだと知らされていたら、本條さんそのオーディションは受けました?」
「受けたくはなかったと思う。でも、それも仕事だって言われたら受けるよ」
この灯里さんの質問の意図が解らない。解らないけど、きっと意味はあるんだと思っている。
「じゃあ、今だったらどうしますか?本当は親友の役をやりたいのに、それを我慢して諦めて、仕事だからといってその主人公をやりますか?」
「やるよ、それが仕事だから。本音では、やだな~って思っててもやる。それ以前に断れない」
「どうして?今なら仕事が選べるんですよ?嫌なら嫌って言えるんですよ?」
そうかも知れないけど、俺の気持ちだけで決めて良いのか解らない。
確かに、蒼蒔さんに言われるがままに、企画書から幾つか選んだ。選んだ企画は全て通ったし、恐らくこの先も選ばされるんだとは思う。勿論、選ばなかった企画からも、半分くらいはやったけど。
そうやって(もし仮に……もしこのまま、やりたくないからと言って断り続けて、会社に迷惑が掛かったら?その仕事を断って、そこから二度とオファーが来なくなったら?その仕事だけじゃなく、他の仕事のオファーも来なくなったら……)そう考えるだけで怖くなった。
「多分ですけど、そういうメンタルな所も含めて、成長して欲しいって事なんだと思います」
「ホント、灯里さんってエスパーだよね」
「顔を見ていれば解りますよ」
そう言って微笑んだ灯里さんは、やっぱり今日も世界で一番キレイだと、全く関係ない事を思った。
「思ったんですけど……全て本條さんの為なんですよね?」
「そりゃあそうだろう」
「随分な荒治療だと思ったんですけど、本條さんがもっと上を目指すなら、こうでもしないとダメなんだ、というのは解りました」
灯里さんは"理解した"とばかりにそう言ったけど、俺も含めて皆が"何が?"といった顔をしていた。
「それに会社には、他にも沢山のタレントさん達が居ますよね?」
「居ますよ。俗にいう、大御所俳優さんから子役俳優さんまで、幅広く居ます。俳優に限らず、モデルも声優等も多く所属しています。全員が主役級ではないにしても、皆さんの名前は多く知られていると……元宮先生は興味ないんでしたね」
「そうですね……興味ないです。失礼だとは思いますが、顔と名前が一致するタレントさんは、国内外問わず少ないです。患者さんやそのご家族または付き添いの方の、名前と顔の方が鮮明に覚えてます」
それを聴いた瞬間、関谷先生と俺は爆笑してしまった。釣られる様に、野崎さんも笑っている。
「さすが灯里さん……あははっ……」
「ぶはっ……普通そこでドヤるかな……」
「如何にも、その……元宮先生らしいです……」
「あ、病院関係者の顔と名前も一致しますよ」
真面目な顔をして真剣に言うから、面白くて笑いが止まらない。それを言った張本人は、いつも通り何食わぬ顔で、料理を食べている。
「あっ、そうか……」
ひとしきり笑った後、関谷先生が、灯里さんがさっき野崎さんに訊いていた事に対して話し出した。
「本條さんの仕事制限によって、生じる損失ばっかり考えてたけど、本條さんだけが稼いでる訳じゃないんだよな。他にも活躍してるタレントは居るんだし。でもやっぱり、それなりの損失はあるだろうけど、トータルしても赤字にはならないって感じかな〜?」
「事務所の稼ぎ頭のうちの一人が、青葉くんなのは間違いないです。でも、全く仕事をしない訳ではないので、それ程の損失にはならないかと思います」
「いくら本條さんの為とはいえ、大赤字を出すくらいなら、こんな話は出ないでしょう」
三人の話しを聴いていて(少しであっても損失が出るなら、やっぱり仕事した方がよくない?)と思ってしまう。
でも、蒼蒔さんも先生も、それくらいの損失は見越した上での決断だろう。だからもしかしたら、他にも何かを考えているのかも知れないと思った。
「今日の話の最初の段階では、本條さんが前の様に倒れたら困る、という理由なのかとも思いました。そもそも、この先の人生で、いつ何があるか……何が起きるなんて誰にも解らないんですから」
「ただ歩道を歩いていただけなのにっていう事故も、最近多いしな」
最初は俺も、体調の事を心配してるのかと思った。でもそうじゃないみたいだったから、訳が解らなくなった。今は少しづつ、やっと……何となく解り始めてきた。
「本條さんの為に仕事制限をする。それによって生じる損失を補填するなら、他のタレントさん達に頑張って貰うしかありませんよね?」
「そりゃそうだ。でも、元の出演料が違う……あ、そうか。出演料の差が少しでも縮まるくらい、売れてくれればいい訳だな。そうなれば稼ぎ頭が増える。もしこの先本当に、本條さんに万が一の事があっても、会社は安泰って訳だ」
「その事は立花先生も『青葉の仕事を、例え"代わり"であっても、ちゃんとこなせれば売れる』と、言ってました」
「本條さんがやる筈だった仕事をやるというのは、きっとかなりのプレッシャーだと思いますけど、チャンスでもあるんですね」
「損して得取れ作戦だな」
とはいっても仕事一つで、会社や俺の損得が左右される事に変わりはないだろうと思うのは、決して間違いじゃないと思いたい。
「本條さん、急がば回れです。焦りは最大のトラップだ……って映画でも言っていたでしょう?」
「ふはっ……灯里さん、本当にそのアニメ好きだよね。そうだね……俺は勝手に"もう仕事が出来ない"って思ってた。野崎さんが何度も、仕事はあるって言ってくれてもね。仕事が減るだけでも、俺にとっては死に値するくらい、焦りと不安にしかならないから」
「関谷も言ってたじゃないですか。退院後の制限がなくなった後の、本條さんの活躍は物凄いって。大袈裟かも知れないですけど……この先の一年間、映画なりドラマなりに出た回数が一回や二回しかなくても、ファンは離れていかないでしょう。誰も"本條青葉"を見捨てたり、忘れないと思います」
灯里さんの言う通りだ。蒼蒔さんと先生の二人が、俺に意地悪を言う筈がないと思いながらも、心の底から信じてはいなかったのかも知れない。
決定した事は覆らないと解っていながらも、素直に受け入れられなかった。だからこうして三人の話を聴いていても、何処かに付け入る隙があるんじゃないかとさえ思ってた。
でもそうじゃなかった。芸能界には……事務所には他にも沢山のタレントがいて、秒単位でしのぎを削っている。その中で俺は、もっと上を目指さないといけない。そして、会社も会社としてもっと上を目指す。
つまり、俺や会社の今だけじゃなく、先の事も見据えて考えないとダメだったのだ。
「あ〜あ、悪足掻きしちゃったな〜。俺めちゃくちゃカッコ悪いじゃん」
「いやいや……人間、そんなもんですよ。寧ろこうして話してくれた本條さんは、勇気があって格好良いと思いますよ〜」
「格好の悪い所も良い所も、弱音や愚痴を吐き出す事も、人として当たり前なんです。それを……それこそ、格好付けて無理をするから、心が疲労して摩耗していくんです」
「本條さんはもっと、本條さんらしくあって良いと思うよ。それこそ"灯里さん以外の人全員から嫌われてもいい!"くらいの、気持ちを持って欲しいな」
久し振りに"頭では解っていても気持ちが着いて行かない"という状態になった。ネガティブになったりしたのも、その所為だろう。だからこうして、話を聴いて貰えて、意見が聴けて良かったと思った。
あのままだったらきっと……また倒れてたか、自暴自棄になっていたかも知れない。それこそ事務所に迷惑を掛けてしまう事になっていたかも知れない。 今は灯里さんが居てくれるから、本当にそうなってたは解らないけど。
「お前の例えが下手過ぎて、理解するのに時間が掛かった。確かに、嫌われる勇気も覚悟も時には必要だけど、仕事柄それは無理だろう。というか、嫌われたらそれこそ仕事がなくなる」
「あははっ……それはそう。それに、俺はこの仕事が好きだから、仕事が全くなくなるのは嫌だな。でも、プライベートならそれでもいい」
「ふふっ……それも無理だと思いますよ。怜くんや蓮くん、結人くんも、きっと嫌いになんてなってくれません」
「なんせ人を引き寄せちゃう人達だからな~」
何だかいつもの調子が戻って来た様な気がした。変な緊張感がなくなったからかも知れない。すると、野崎さんが急に悪い顔付きをして話し始めた。
「立花先生が『何奴も此奴も"本條青葉"が欲しいんやろうが暫くはお預けや』と、悪い顔をして言ってましたね……」
「野崎さんも今、かなり悪い顔してるけど?」
「何か企んでそうな顔してますね」
「実際に、何か企んでそうなのは、副社長さんと一ノ瀬さんだろう」
関谷先生の言葉に、全員一致で頷いた。それが何だか可笑しくて、今度は皆で一斉に笑った。
そんな……さっきとは打って変わって、和気藹々の雰囲気の中。そろそろ料理も食べ尽くして来た頃にデザートが来て、一番最初に灯里さんが手を付けた。
「あ、意外と軽い。柔らか食感だから喉越しもいい。柑橘系でサッパリしてるし、暑い時期に持ってこいの……あ、すいません。口に出てましたよね……」
そう言って照れる灯里さんが可愛い。わざわざここまで来て貰って、話を聴いて貰っておいてなんだけど、今すぐ灯里さんと帰りたい。
「灯里さぁ……もしかして、一人で食べてる時もそうなの?」
「いや、一人でこういう店は来ない。仕事中を除けば、外食はもうずっと、本條さんとしかしてない。そういえば二人でよく、料理やスイーツの感想を言い合ってる……それが癖になってて、つい口に出ちゃってるのかも」
(何それ……サラッと可愛い事言ってくれるじゃん。いつもの遣り取りが癖になってるとか……嬉しいじゃん。いやマジで早く帰りたくなって来た〜)
「ところで、本條さんの相談ってこれで終わり?」
「え、あ~、うん……。正直、まだ納得し切れてないし、不安しかないし、どうしたらいいかも解らないんだけど、気持ちは落ち着いた。これからの事はゆっくり考える。色々聴いてくれて、ありがとうございました」
「いえいえ〜、役に立てたなら良かったよ。まぁ、灯里も居る事だし……休みをどう活かすかは、二人で話して決めても良いんじゃない?」
「でも肝心の灯里さんは、休みにならないけどね」
子供みたいなワガママを言ってるのは解ってるけど、言わずにはいられなかった。
「そこで拗ねないで下さい。これでも前よりはシフトも軽くなってるんですから」
今年の四月から、灯里さんの勤務時間や、勤務形態が変わった。宿直がなくなって出勤日も、月火と木金の週に四日になった。休みになったとはいえ、家で仕事をしている事もあるけど。
「でもその分、元宮先生は在宅で勉強会や講演会に参加してるんですよね?それはそれで、大変なんじゃないですか?」
「国内はまだそうでもないんですけど、海外となると時間を合わせるのが大変で……なので、無理な時は録画をさせて貰ってます」
「パソコンのスペックもダントツに良くなったし、長時間座ってても楽な椅子も揃えたしね」
「結果的にはパソコン等、諸々買い揃えて良かったと思ってます。それこそ痛い出費でしたけど、調べ物も楽だし、資料もすぐにダウンロードして、その場でプリントアウトも出来る。何より、ゲームも出来て楽しいですしね」
痛い出費なのかどうかは解らないけど、灯里さんの楽しそうな顔が見られるなら、出費する事は惜しまない。でもそれは灯里さんが嫌う事だから、無駄遣いはしない様に気を付けないとなと思った。
「さっきから思ってたんだけどさ……灯里ってオタクの素質あるよな〜っていうか、なりつつあるよな」
「えっ、そうか?」
「既に料理オタクだろ。あと半年も経ったら、パソコンオタクか、ゲームオタクになってそう」
「あ~解る。灯里さんてハマり出すと止まらないしね。色々調べて追求し始めちゃうし、負けず嫌いだしね〜」
俺が笑いながら言うと、関谷先生も「そうそれ。素質あるって」と、笑いながら言った。
「何事も極めれば、それはもう立派なオタクですよ」
「なるほど。それなら俺も何か極めようかな……そういう事が出来る時間が、これから増える訳だしね」
「良いと思いますよ。折角の機会ですから、何か新しい事に挑戦してみるのもありだと思います」
きっとそういう事が、役者として……人間としても、更に一歩上に行く為には必要なんだと思う。
灯里さんとゲームをしたり、買い物に行ったり、ドライブに行く。その二人の時間を大切にするのも"プライベートを大切にする"という意味では間違えではない。それは灯里さんも、同じ様に思ってくれているだろう。
本当にまだ、仕事を制限する事に抵抗はあるし、不安は消えてなくならない。休んでる間に、同業者の活躍を見たら、嫉妬と焦りで気が狂うかも知れない。
(あ……人の事は気にならないなんて嘘だったんだ。これも抑え付けていた感情?ホントはこんなにも、醜くて汚い感情があった……)
「本條さん?大丈夫ですか?」
「え、何が?」
「……疲れてるんじゃないですか?朝も早かったですから」
「そうですね。自主練も何だかんだで、数時間やってましたから。そろそろお開きにしますか?」
野崎さんが腕時計を見てそう言うと、釣られる様に皆も、腕時計やスマホを見て時間を確認し始めた。
「そうだね、こういう時はゆっくり休んだ方がいいな」
「では私は、お会計してきますね」
「待って、俺も行く」
部屋を出て行こうとする野崎さんの後を追う様に、俺も一緒に部屋を出た。
「少しは解決しました?」
「うん。話が出来て良かった。本当なら、蒼蒔さんと先生と話がしたかったけどね。はい、俺と灯里さんの分」
「本当に払う気だったんですか……一応預かっておきます。それと、蒼蒔さんと先生には、青葉くんが話したがっていたと伝えておきますね」
「お願い。あ、すいません。食前に出た、スパークリングワインって売って貰えますか?」
美味しかったから、関谷先生にも飲んで欲しいと思った。だからお土産にしたかった。無理な様なら諦め様と思っていた。すると、奥から店長さんらしき人が出て来て、箱が入った紙袋を人数分、差し出してきた。
「七種様からです。きっと気に入るだろうから、帰りに持たせて欲しいと、言付かっております」
「やった~。そうだ。今日頂いた料理がどれも美味しかったので、後でSNSに載せてもいいですか?」
「はい、喜んで。本條さんが来て下さったとなれば、店の評判も上がります」
「また来ますね。ご馳走様でした」
会計を済ませて二人で部屋に戻ると、関谷先生と灯里さんが何やら揉めていた。
「どうしたの?」
「送ってくって言ってるのに、灯里がタクシーで帰るからいいって言い始めてさ〜」
「逆方向なんだから、わざわざ送らなくていいって言ってんの。それにお前は明日、仕事だろう」
灯里さんがそう言いながら、さり気なく野崎さんに視線を向けてすぐに俺を見た。俺は(なるほどね)と思って、灯里さんに加勢するかの様に言う。
「そうだね、わざわざ此処まで来て貰っただけでも感謝しないとね。俺達はタクシーで帰ります。野崎さん、呼んで貰える?」
「あ、はい。すぐに会社のハイヤー呼びます」
俺の勢いに負けた様に、野崎さんが部屋の隅に行って、スマホで電話を掛け始めた
「あ……これお土産。帰ったら二人で飲んでね~」
「それ、スパークリングワイン?え、なんか悪い……あっ、タクシーってそういう事?」
「少しでも二人の時間あった方がいいだろう?」
「お気遣いありがとう。いつもこのくらい、素直だったらいいのに……痛っ……」
灯里さんが、関谷先生の脇腹に一撃を加えると、戻って来た野崎さんが「どうしたんですか?大丈夫ですか?」と、心配そうに言った。
「はは……大丈夫。これ、お土産に貰ったよ。飲むのが楽しみだな」
「帰ったら早速、飲みますか?」
「飲みたいけど……次、一緒の休みになるまでお預けかな~」
二人の仲の良さそうな所を見るのが久し振りで、思わず顔がニヤける。横に居る灯里さんを見ると、どことなく満足気な顔をしていた。
その後、皆で下のラウンジに降りると、野崎さんが「あ、車もう来てますよ」と言うので、灯里さんと二人で乗り込んだ。
思い思いに別れの挨拶をすると、自宅に向かって車を出して貰う。ハイヤーの中で一息吐くと、灯里さんが珍しく手を繋いで来た。そして、窓の外を見ながら「雨止みましたね」と言う。
「また降るかと思ってたんだけどね」
「まだ納得出来ませんか?」
「あ〜、納得は……しない訳にはいかないでしょ?嫌だって言っても、もう決まった事なんだから」
つい不貞腐れて言ってしまった。これじゃあ、情緒不安定みたいで、そのうち灯里さんに八つ当たりしそうで怖い。
「ならその不安は別の物なんですね」
「やっぱり気付いてたんだ」
「関谷も気付いたと思うんですけどね。その事は、皆の前で話したくないだろうと思って、話を変えました」
やっぱり灯里さんの目は誤魔化せない。逆に、その事に触れずに、誤魔化してくれた辺りはさすがだと思う。
「う~ん……元は一緒なんだと思うけど……」
そう前置きをして、さっき気付いた感情の事を話した。灯里さんは黙って、俺の話を聴いていた。
「そうですね、それも抑え付けていた感情かも知れませんけど……」
「けど?」
「もしかしたら、初めて芽生えた感情なのかも知れないとも思ったんです」
抑え付けられていた感情ではなく、初めて芽生えた感情。そう言われるとそんな気もする。
「今まで本当に、周りの人に対してそう思った事はなかったかも。羨ましいとか、悔しいと思うより先に、だったら自分がそれ以上に努力して、頑張ればいいって思ってたから」
「今まではそれが出来ました。今度からはそれが出来ない。だから余計、不安や焦りに繋がるんだと思います」
なるほど。それが出来なくなるから、そう思ってしまうのかと納得した。だとすると、制限が解除されるまでは、そんな感情を持ち続ける可能性がある訳だ……それは嫌だな。
「でもそれって、周りに居るタレントさん達は常に、本條さんに対して感じていたと思いますよ」
「え?嫌われてた?」
「何でそうなる。そうではなく、向上心のある人なら、少なからずとも「打倒、本條青葉!」くらいは、思ってるかも知れないって事です」
俺がそんな風に思われる理由が解らない。俺よりも凄い人は沢山いるから。そんな凄い人達に尊敬や憧れを抱いたとしても、俺はいつも『俺は俺の全力で!』をモットーにやってきた。妬んだり、羨ましいと思うのは後回しだった。
「俺はそう思われる程、凄くないけどね。でもそうか……立場を置き換えると、俺もそうなるかも知れないんだな」
「その気持ちというか、感情を忘れないで下さい。どんなに醜くて汚くて嫌だと思っても、それも本條さんの一部であって、これからの糧になるんです」
何事も経験とは言うけど、これが……この先の俺の成長や糧になるなら、俺はこの課題をクリアしないとダメなんだろうと思う。
「全く仕事がない訳じゃないし、七種さんとの仕事は継続って言われたから、そこまで重く考えるのは止めよ〜」
「それでいいと思います。帰ったらまずは、お風呂にゆっくり入りましょう。その後は貰ったこれを飲みながら、二人でゆっくりしませんか?俺も明日は休みですから」
紙袋を指差しながら、灯里さんが言うので、俺が「ゲームもやりたいかな〜」と言った。すると、灯里さんが「俺は青葉くんが欲しいです」と、耳元で囁いた。
「ふはっ……うん、それもいいね」
「でしょう」
そんな遣り取りをすると、ハイヤーの中で二人で顔を見合わせて笑った。
【End】
最初のコメントを投稿しよう!