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ルール①【置き引きには気をつけなさい】
「吉沢くんさあ……、いくらなんでもこれは、ねえ……」
呆れた表情で僕を見つめる東堂さんと、見つめられることによっておそらく身長が3センチは縮んだであろう僕は、インドにおけるタクシー、リキシャのなかで揺られていた。運転席はひとつ、後部座席はふたつの典型的な三輪車で、夏祭りの屋台のように、ビニールの屋根が全体を覆っている。
そう――場所はインド。
取材旅行の最中だった。
東堂影子――ペンネームは眼球院溶接と呼ぶ彼女は漫画家である。有名少年漫画雑誌ハネルにおいて連載を三本、原作を一本抱えている超有名人気作家だった。
そんな彼女の代表作とも言える「ゴースト・ゴシック」が六年の連載を経て終わる。同作はアニメ化・ノベライズ・実写ドラマ化の三大メディアミックスを勝ち取った人気作で、惜しまれつつも大団円の最終回となる予定だ。
あれだけの大作を手掛けた直後だ、少しくらい休暇をとるものだろうと、担当編集である僕も一息ついていたのだけれど――しかし天才とは休み知らずというもので、東堂さんはすでに次回作のプロットをすでに練っていた。
「次回作の舞台は全世界になるよ、吉沢くん!」
と、東堂さんにしては珍しい意気揚々とした表情で語られたときには眩暈のする想いだったが、その取材旅行としてインドに行く、それに同行してくれと言われたときには失明寸前だった。
パスポートを入手し、旅路に必要なものをそろえて、飛行機に乗り込み、無事にインドに到着したところまでは、順調だったと言えよう。まず見ておきたいとかねてからの東堂さんの要望があった、アーグラ城塞にも行けたのは僥倖だったと言えよう。
しかしここで事件が起きた。
少し目を離していたうちに――盗まれたのだ。
携行用のリュックサックを丸ごと。
パスポートも置いていく用の財布もホテルに置いてあるので、致命的な盗難被害にはならなかったものの、東堂さんのスケッチブックが盗まれたのは甚大な被害と言えた。そのうえ、東堂さんが取材に集中すべく、二人分の荷物をリュックサックに入れていたのだ。つまり今、持ち合わせのお金がない。
というわけで、ホテルへと逆走している途中だった。
「まったく――君ねえ、ちゃんと『そうだ、インドへ行こう』読んできたのかい? インドに行って注意すべきことベスト5のトップが『置き引き』になってるだろう? ちゃんと対策方法も書いてあったし……、『ダミーの財布を作る』『リュックサックは身体の前に持つ』『荷物から目を離さない』……それなのにきみ、いったい何をした?」
「地面に置きっぱなしにしてました……」
「一番駄目なことをしているじゃあないか」
肺が真空になるんじゃないかと心配になるほどの大きな溜息をつく東堂さん。その手前で僕は、さらに縮こまることしかできなかった。
「まあ、スケッチブックに関してはすでにスマホでスキャンしてあるから、あとでいくらでも見直せるよ? けれどそういう問題を言ってるんじゃない。大切な作品を任せているはずのきみがこんなケアレスミスをしてどうするんだい?」
「滅相もありません……」
「まあ、盗む奴が悪いんだけどね。まったく……」
と足を組む東堂さん。すると、リキシャが唐突に停止した。愛想がいい運転手さんがこちらを振り向いて、
「トイレ、チョットイッテクル」
と片言の日本語で言うと足早にリキシャを飛び出した。
「……きみ、喉が渇いてるだろう?」
東堂さんは唐突に、飲みかけのペットボトルを取り出す。
「どうぞ」
「いえ、それは……」
「なんだ」
東堂さんは怪訝な顔をする。
「そんなに私が嫌かい? 私が一度口をつけた飲み物なんて、汚すぎて飲めないと?」
「いえ、そういうわけではなく……!」
頼むからもう少し、自分が若い女性であるということを自覚して欲しい。もっと自分を大切にして欲しい。できればもう少し、自分が結構な美人であることも自覚して欲しかった。生きていくには無防備が過ぎる。
悪い男にでも引っかからないか心配だった。
「ほら、じゃあ飲みなよ」
東堂さんがぐっとペットボトルを近づけてくる。
「さすがにそれだけは」
「お、汚物を見るみたいに言いやがって……」
なぜか東堂さんは涙ぐんでいた。泣きたいのは僕のほうなのに。
「じゃあ口移しな!」
「なんでそうなる!」
「だってお前金持ってないだろう!」
「それはそうだけど!」
と――そのときだった。
上空から、けたたましい金属音が鳴り響いた。何か金属のようなものが、リキシャのビニールのうえに落ちてきたのだ。
運転手はまだ帰ってきていない。慌てて僕は、窓から乗り出してリキシャのうえを確認する。反対側から東堂さんが顔を出して、同じようにリキシャのうえを見た。
「これは……」
反対側の東堂さんと目が合う。東堂さんも動揺しているようだった。
当然、リキシャは外を走っているわけなので、そのうえは青空である。天井があるわけでも、吹き抜けがあるわけでも、建物と建物を介する、橋のようなものがあるわけでもない。天井には、本当に何もない――この灼熱の熱帯、インドの空から降ってくるものと言えば、せいぜい雨粒くらいものだろう。
それなのに、と言うべきか。
リキシャのうえには、大量の貨幣が降ってきていた。
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