シグナル、トランス、レシーブ

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——なあ、晶。お前は本当に優しかったよな。優しいと損するなんて、なんて酷い世の中なんだろう。俺は、お前を殺した奴が許せないよ。  俺は、警察から急に帰っていいですよと言われ、言いようのない腹立たしさを抱えていた。ただ、どうしても腑に落ちないこの逮捕劇が、大きな力によるものだと途中でわかってしまった。だから、絶対に反抗的な態度は見せないようにして来た。相手にチャンスを与えてはならない。ずっとヒリヒリと神経を尖らせて生きてきたんだ。そのくらい、すぐにわかる。迎えの車に乗り込むまで、絶対に隙を見せてはならない。必死に言い聞かせて、冷静で優しい母親像を演じ切った。警察にいたセンチネルは、みんなレベルが低かった。ガイドの自分でも騙せるくらいの人しかいなかった。それが功を奏した。  警察署前の自動ドアを出て、ふうと一息ついた。そして、迎えの車を探していたけれど、どこにも見当たらなかった。時間を間違えたのだろうかと思い、壁際に移動して寄りかかった。 ——いい天気だなあ。現場、捗ってるだろうか。  今年最後の大口案件だった。連日続く夜間作業と、昼間に片づけなければならない年末特有のご挨拶が重なって、自宅に帰ることも出来ない日がしばらく続きいていた。それが少し落ち着いて、ようやくクリスマスは外泊デートをしようと二人で出掛けたのに。その途中で逮捕されるなんて……。涼輔に申し訳ないなと気持ちが沈んでしまう。  それに、二人とも心配しているだろう。だって、「逮捕」だ。普通に生きてて経験する様なものじゃない。  結局、はっきり自分じゃないってわかったみたいだけど、こんなにあっさり釈放するなら、逮捕なんてする前にちゃんと調べてくれりゃ良かっただろうと思わずにいられなかった。そのあたりは警察と民間人のズレなんだろう。どうにもイライラして仕方が無かった。 ——でも、この件に関わっているのは、絶対にあの人たちだ。隙を見せてはいけない。  俺はきゅっと唇を結んで、冷たい風が吹き荒ぶ中にじっと立ったまま、警察署のロビーにある大型のテレビを睨みつけた。そこには、教育について熱弁する、酷く見た目のいい老紳士がいた。俺は、直接害を被ったことは無い。それでも、大口の案件を扱うことのできる建設業にいれば、必ずこの人に一度や二度は妨害されるものだ。自分に都合の悪いものの排除が、とても上手いことで有名な政治家、永心照史。 ——晶、晴翔さんと生きていくのは大変だったかもしれないな。でも、もう、その心配も必要なくなってしまったのか……。    そんなことを考えながら、悲しみに暮れていた。疲れ切ってしまい、早く自宅に戻って休みたいと思っていると、クラクションと共に聞き覚えのある、柔らかくて優しい声に名前を呼ばれた。 「翼さーん、お迎えにあがりました! 諸事情あって、旦那さんと息子さんにはVDSに来ていただいています。あ、鉄平くんも一緒です。どうぞ、お乗りください」  Vector Design Supportersと書かれた車に乗った、果貫さんだった。果貫さんとお会いするのは、翔平の家庭教師をお願いするために、VDSに出向いた時以来だ。あの時も思ったけれど、とても穏やかで妖艶な雰囲気のする男性だなと思った。疲れた体に、その柔らかい声は心地よく溶けていくようだった。 「そうなんですね。わざわざお迎えありがとうございます。二人がVDSにいるということは、私もそちらに向かうということでしょうか?」  果貫さんは後部座席のドアを開け、私がシートに座るのを確認すると、一つの紙袋を手渡した。 「はい、どうぞ。こんなところにいたら、何食べても美味しく無かったでしょう? 晶さんのお店のサンドイッチとコーヒーです。ケイさんに頼んでおきました」  そう言ってにっこりと微笑むと、ゆっくりとドアを閉めてくれた。焦茶色の紙袋からは、ツナとチーズと卵のホットサンドの香りと、コーヒーの香ばしい香りがしていた。それも、ほんのりシナモンの香りもする。俺はその香りを胸いっぱいに吸い込むと、思わず大きな声をあげて泣いてしまった。 「あ、晶……ケイに教えてたんだ……本当はカプチーノ好きだって……」  ボロボロと涙が溢れて、紙袋にたくさんシミを作っていった。言葉が言葉にならなくなって、止めたくても嗚咽が止まらなくて、息が苦しくて……悲しい、悲しい。こんなに悲しいなんて。別々に生きていくことを決めてから、死ぬ時はもう会えないかなと思っていたのに、それを覚悟していたはずなのに。 「これ使ってください。落ち着いたら、食べてくださいね。ゆっくり向かいますから」  そう言って、差し出されたハンドタオルを見て、また涙が溢れた。見覚えのある、グリーンのチェック柄のハンドタオル。いつもこれを差し出しながら、穏やかに笑ってるあの笑顔を想像してしまう。 「りょ、すけ……」  果貫さんは、ふんわりと微笑んで頷いた。そして、周囲を確認して車を走らせながら、涼輔と翔平のことを教えてくれた。 「とても優しい旦那様ですね。あなたはたくさん泣くだろうから、これを持っていってあげてくださいって言われました。それと、翔平くんはそのホットサンドを作ってくれました。コーヒーはケイさんが淹れましたけれど。紙袋に詰めたりナフキンを入れたりしてくれたのは、鉄平くんです」  心が痛かった。さっきまで悲しくてバラバラになりそうだったのに、急に嬉しくて幸せではち切れそうになってしまった。振り切れ方が酷くて、頭が全然ついていけなくなってしまった。俺は泣きながら笑い続ける羽目になっていた。その忙しい感情の波の中で、ひたすら思うことがあった。 「あき……晶に……晶にも、この温もりを感じさせてあげたかっ……た……」  そのまま、何も言えなくなってしまった俺に向かって、果貫さんは「本当ですね、私もそう思います」と言ってくれた。手元には、晶が遺していったお店の味がある。晶を思って、食べさせてもらおう。自分の人生を、一生懸命生きていた、晶の人生の結晶。これからも大切にしてあげようと思って、ホットサンドにかぶりついた。 「翼さん、晶さんのことは残念でしたね。私もVDSでご協力いただいていたので、残念でなりません。とても優しくて素敵な方でした」 「はい。そうですね……」 「だからこそ、これからもしっかり幸せに生きてくださいね。あなたも半身を失ってしまったので、影響が出ると思います。そうならないように、会社からサポートさせていただきますので、安心してください」 「それに」と付け加えた果貫さんの声は、さっきまでとは違って、少し冷たい感じがした。ちらっと顔のあたりにスピリットアニマルが見えた気がした。 ——龍なんだ……かなり能力が強いんだな。 「犯人は隠されてしまうかもしれません。それは許せないので、全力で探しましょう」  言い放った果貫さんは、一瞬髪が逆立つかの様に激しい表情をした。俺はその形相に少し怯えたけれど、いっていることには勿論同意した。 「勿論です。調査するならチームに入れてください」  敵は理解している。それでも、大切なものを奪われてしまったのだから、償ってもらわないと困る。 「あの、今一番捜査する上で困っている問題ってなんですか?」 「そうですね……晶さんの解剖が出来ないことですかね。司法解剖は不要だと言われているんです。死因はゾーンアウトによる凍死だそうです。ゾーンアウトしてバンガローに放置されていたそうです。しかもあの日は暴風雪でした。バンガローの窓が割れて、ほぼ外と変わらない状態になり、遺体の上に雪がかなり積もっていたみたいです。だから死亡推定時刻もはっきりしていません。事件性が否定されたわけではないのに、警察は解剖は必要ないとの一点張りなんですよ。ただ、晴翔さんがそれに納得していなくて、晶さんの体に生活反応がある傷が見つかっているから、それを解剖して調べてほしいと言ったんです。そしたら……」  そうか、そう来る予定だったのか。じゃあ、もう妨害しているのはあの人たちで間違い無さそうだ。だから、あの人たちが知らないカードを切ってあげよう。それで問題が明るみに出るなら、晶だって文句は言わないはずだ。 「晴翔さんは入籍しているわけじゃ無いから、許可出来ないって言われたんですかね」 「そうです。そこをどうするかって……」 「いますよ、家族」 「えっ?」  果貫さんは、いつも優雅な表情をしているのに、とても驚きすぎて目がこぼれ落ちそうになってしまっていた。少し不謹慎だなとは思ったのだけれど、思わずぶっと吹き出してしまった。美しい人の感情が丸裸になる様は、とても面白くて楽しかった。 「晶、息子がいるんですよ。それも、その子の出自を聞くと、みんな驚くと思います」  そう、晶の行動力を舐めたらいけない。思い立ったら即行動、いつも事後報告。それを許せる人じゃないと、うまくやっていけないタイプだった。 「晴翔さんも知らないと思います。でも、どの子のことなのかはわかると思います。その子を養子として迎えると言うことでは意見は一致していたはずなので。ただ、手続きが終わってたことは知らないはずだってことです。私、Sarasvatiで晶と会った時に直接本人から聞きました。写真も見せてもらって、SNSも見せてもらいました。果貫さんが知らないってことは、ケイには聞こえてなかったんでしょうね。そして、あの日の夜に晴翔さんに話すって言ってたんです。マメンツが手に入ったから、気兼ね無く抱き合えるし、子供は産めないけれど養子も迎えるし、もう家族だねって言うんだって言ってました」  二人はペアとして生きていこうとしていた。でも、晶は俺とボンディングしていたから、マメンツがないと晴翔さんとセックス出来ない。だから俺に久しぶりに連絡をしてきた。そして、連絡を取り合っていると、家族を早く持ちたくなった。だから、晴翔さんといつか入籍したらこの子を養子にと決めていた男の子を、先に自分の容姿にして迎え入れることに決めていた。晴翔さんが事後報告でも受け入れてくれるって知っていたから。 「その子の名前はわかりますが?」 「はい、大垣和人くんです。旧姓は、池内ですね」 「ああ、もう姓は変わっているんですもんね……そうですか」  果貫さんは、そのまままた車を走らせ始めた。俺は、彼の反応を見て、彼は池内姓が永心一家にとってどのような名前なのかを知らないのだなと確信した。と言うことは、おそらくVDS側はまだ誰も知らないはず。 ——まずはこのことを話さなくてはならないだろうな。  晶が池内姓の人間を養子に引き取るって言った時、もっと強く止めれば良かったのかもしれない。でも、そこからこんな風になるとは思っても見なかった。俺はそのあたりをはっきりさせたい。幸せになろうとした判断が、結果的に晶を死なせてしまったとはどうしても思いたくないからだ。 「和人くんは、来年度からこちらで生活する予定だったと思います。今はアメリカに住んでるはずです。詳しくはわかりません」  VDSの入っているホテルの駐車場に着いた。俺は、ホットサンドを食べ終え、カプチーノも飲みおわった。お腹も心も満たされ、使命感に駆られていた。夫と息子を巻き込むことになるかもしれないけれど、このハンドタオルを入れてくれてたってことは、涼輔も予想はしているだろう。俺がおとなしくしないだろうってこと。 「翼さん、和人くんの話の前に、一つお願いがあります」  後部座席のドアを開けながら、果貫さんは言った。綺麗な瞳が、俺の目を真っすぐに見つめていた。優しいけれど真がある鋭い目で俺を見つめたあと、頭をすっと下げた。 「みんなのところに行く前に、ペントハウスの我が家に行ってください。そこに翔平くんがいます。まずは、翔平くんと話をしてあげてくださいませんか? 彼は、今回のことで、自分の出自にかなり疑問を持ちました。ケイさんにお願いして、いくらかお話はさせていただいています。でも、やっぱり、あなたの言葉が直接欲しいと思うんです」  きっちり90度のお辞儀をする果貫さんの姿を見ていると、翔平はとても愛されているのだなあと思って嬉しくなった。我が子が周囲の大人たちに愛されることほど、嬉しいことは無い。八方美人である必要はないけれど、その反対である必要もない。いろんな人と関わり合って、人として成長していって欲しいから、好かれるのはプラスだと思っている。 「わかりました。連れていっていただけますか?」  果貫さんは、俺の言葉を聞くとパッと頭を上げた。そして、真剣な目で「では、行きましょう」とエレベーターへ案内してくれた。  俺はトランスジェンダーだ。性自認は男、体は女、そして性の対象は男性。ねじれた構成の人間として卑屈だった俺を、真っ直ぐに矯正してくれたのは晶だ。幸せをたくさんくれた、俺を満たしてくれた。別れてからは、涼輔と翔平がそうしてくれている。中身がなんであれ、外見がなんであれ、俺は俺であってそれ以上でもそれ以下でもない。妊娠も出産も役割が俺だっただけ。それ以上でも以下でもなかった。母性があるかと聞かれたら、ないと思う。でも父性はあると思うし、庇護欲はある。守りたいし、可愛いし、愛している。 「しっかり、伝えてあげてくださいね」  俺は顎を引いて答えた。  伝える。  病気があるから苦しくて、体を好きになることは無い。だけど、この体だったからこそ経験できた幸せがあることも知ってる。  それを全部伝えるんだ。  そして、翔平がいることがどれほどの幸せなのかって言うことも。  一つも残さずに、全部。
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