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蟲 育つ虫
僕の家は16階建ての建売のマンションの10階にある。パパもママも、一流と言われる大学を出ている。ある意味恵まれた家庭だと思う。何も不自由はない。
でも。
僕は怖ている。
ママは知らないみたいだけど。
ママが僕とお兄ちゃんを叱るたび。
口から黒い何かが吐き出るんだ。
ママの口から吐き出た黒い粒は、床に散らばって。床を汚す。でもママはそれを知らないようだ。
僕はその黒い粒が気になって仕方ないから、ママの話に身が入らないんだ。
ママがそんな僕を叱る。
「ちゃんと話を聞いているの?真面目に勉強して、A中学に入学出来ないなら、人生は半分終わったも同然よ」
ママは塾の成績表を見た。
「お兄ちゃんは多分大丈夫。このまま頑張って。でも海渡はお話しにならない成績ね。塾でもっといいクラスに入れなければ、絶望的よ」
ママの口から黒い粒が溢れるように吹き出た。僕はマズいと思う。
----あいつが出て来る----
僕は部屋の隅に目をやる。すると50センチくらいの長さの芋虫が、たくさんの足を波状に動かしながら、黒い粒目掛けて歩いてくる。数は一匹だけど、50センチの大きさもあって、迫力が半端ない。
僕はこの芋虫が怖い。体中からけばけばしい色の棘が生えて、不気味な事このうえないのだ。
巨大芋虫は、ママの足元に落ちた黒い粒が好物らしく、こうして食べにくる。ママが黒い粒を吐くたび、芋虫は部屋の隅から這い出して、黒い粒を一心不乱に食べる。
僕はママを見る。
足元にあんな大きな虫がいるのに、気にならないんだろうか?
ママは見えていないんだろうか?
僕はママの足元を見る。
それから。
僕は隣の兄も見る。
兄はいつもと変わらない。
真剣にママの話を聞いている。
兄の表情からすると、きっと見えて居ないんだと思う。
――僕しか見えていない――
ママが去った後、僕が兄に聞く。
「お兄ちゃんは、何か変わったもの、この部屋で見なかった?」
お兄ちゃんは勉強する手を止めて言う。
「何の事?何か見たのか?」
僕は口ごもる。
僕しか見えていないなら、僕は頭のおかしいやつになってしまう。
「嫌、そう言う訳じゃ……」
お兄ちゃんは椅子の向きを僕に向けて言う。
「ママが怒るのは僕たちを思って言ってくれている。嫌いだから怒っているんじゃないんだ。分かってやれ」
小6のお兄ちゃんは、小4の僕にとって、尊敬出来る立派な大人に見えた。
だから、僕は。
「うん」と答えた。
でも僕はやっぱり恐れていた。だって今年の初めは、あの芋虫はもっと小さかったんだ。それがどんどんママの黒い粒を食べて、大きく育っているんだから。
----あの虫は、一体どこまで大きくなるんだろう?----
僕はこれ以上育って欲しくなかった。幸いなことに、芋虫はそこまで大きくはならなかったが、相変わらず、ママが黒い粒を吐くたび、出て来ては粒を食べた。
それから4ヶ月過ぎて、優秀な兄は、超有名中高一貫に入学した。ママは大喜びして、僕も誇りに思った。
「お兄ちゃん、おめでとう」
「ありがとう。海渡は最近勉強はどうなの?俺は塾の合宿で、海渡と一緒に居られない日が多かったから……」
「僕はお兄ちゃんみたいに優秀じゃないけど。でもA中学は無理でも、B中学ならなんとなると思う」
お兄ちゃんは気の毒そうに僕を見て言う。
「ママはああ言うけど、世間的にはB中学でも十分いい学校だ。頑張れよ」
僕は優しいお兄ちゃんに救われている。
しかし、優秀な兄の旗色が変わって行った。成績が振るわないのだ。中学で上位に食い込みない。ママの怒りが爆破した。
ママがお兄ちゃんを怒るたび、黒い粒が吹き出して。その量は以前と比較にならなかった。
兄は項垂れ。芋虫は黒い粒を残らず食して、ドンドン膨れ上がり、育って行った。
僕は恐怖に震えた。
――これ以上ママに黒い粒を吐かせてはいけない。虫がどんどん大きくなる――
しかし虫の成長は止まらない。
虫はお兄ちゃんの入学から1年で、1メーター50センチを超えていた。
僕は、自分の部屋に入ることさえ怖くなっていた。
虫が何時もいる場所を横目で確認しては、部屋に入り。
勉強している間も、寝ている時も、時々虫がそこにいるか確認せずにはいられなかった。
そんなある日。
僕とお兄ちゃんは、壁に並べられた机に、いつもの様に並んで勉強をしていた。
そこにママが封書を手に、部屋に入ってきた。どうやら、お兄ちゃんの模試の結果が、郵送で返されてきたらしいかった。勉強部屋に入るなり、怒鳴り始めた。すると、黒い粒が、ママの口から火山の溶岩のごとく吹き出し始めて。芋虫がゆっくりママの足元に近づいた。芋虫は黒い粒を食べてる。僕は芋虫が怖くてたまらない。
ママは怒り、怒る自分の感情に飲み込まれていく。
お兄ちゃんの顔は蒼白に変わり。
お兄ちゃんは全く動かない。
14歳のお兄ちゃんは、ママの罵倒を、体いっぱいに受け止めていた。
1時間ほど罵倒が続き。
怒りすぎて疲れたのか、ママが言った。
「少し頭を冷やしてくる。あんたたちのせいでママは苦労が耐えないのよ。ママを思うなら、これ以上ママを苦しめないで」
ママから何時もと違う、少し光る黒い粒が吐き出されてた。ママはそのまま家を出て行った。
お兄ちゃんは、ママが部屋から出て行っても、身動きしない。何か考えている様子だった。
芋虫はママの吐き出した少し光る黒い粒を口にした。しばらく食べていたが、芋虫はいきなりまた大きくなって。2メータ近くに巨大化し。それからゆっくりお兄ちゃんに近づいた。お兄ちゃんは全くそれには気が付かないようだったので、僕が叫んだ。
「お兄ちゃん!」
お兄ちゃんが僕を見た。
「なに?」
「危ない」
しかし、芋虫はお兄ちゃんを丸呑みし始めた。しかも早い速度で、足からお兄ちゃんを飲み込んでいった。みるみるお兄ちゃんの全てが、芋虫の中に吸い込まれていった。
全てが芋虫の中に入ってしまうと、芋虫はその場で蛹になった。
椅子に糸を張って、蛹は微動だにしない。
僕は息を呑んでその様子を見た。
僕は叫ぶ。
「ママ。ママ。ママ」
でも誰も家の中にはいないんだ。
誰も来るはず無い。
小一時間程して。
蛹が動き。背中に割れ目が入った。
そこからお兄ちゃんが出てきた。
僕はお兄ちゃんに聞く。
「お兄ちゃん。平気?」
兄ちゃんは答えてくれた。
「何が?平気だよ」
いつもの優しい笑顔だった。
お兄ちゃんは立ち上がり。
部屋から出て行こうとした。
「お兄ちゃん、何処へ行くの?」
僕はお兄ちゃんの後をついていこうとした。
「海渡は家にいな。ついてこないで」
「でも、お兄ちゃん」
「ダメだ。ついて来るな」
お兄ちゃんはそう言って、玄関を出た。
僕はそう言われたけど、こっそり後を付けていく。
お兄ちゃんは非常階段を昇って行く。
10階から11階。
11階から12階。
12階から13階。
13階から14階。
14階から15階。
15階と16階の階段の踊り場まで来ると、お兄ちゃんは階段のてすりに手を掛けた。
僕は階段から、手すりに足をかけるお兄ちゃんを見る。
そして、お兄ちゃんが飛んだ。
お兄ちゃんには、羽が生えていた。
孵化して、羽が生えたのだ。
綺麗な、綺麗な羽だった。
アゲハチョウのような羽だった。
お兄ちゃんは蝶になったんだろう。
お兄ちゃんは綺麗な羽を広げて、旅立った。
綺麗な羽が、青空に舞った。
その日、兄は、僕の前から消えた。
そして、それから僕だけになった。
目の前にはママが居る。
相変わらず、黒い何かを吐き出しながら。
そして新しい芋虫が僕の部屋にやってきた。
奴は日々、少しづつ成長を続けている。
でも僕は前よりやつが怖くない。
だって、いつか、僕も綺麗な蝶になれるのだから。
――――fin――――
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