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「こんばんは!」
郁乃にそう声をかけて、軽く頭を下げながらその人物は、店に入ってきた。そして、さっさと席に着くと、穏やかな声で「いつもの!」と告げた。
声だけで誰だかわかるのか、おかみの「はいよ!」という返事が奥から聞こえてきた。
郁乃がこの店で初めて聞く、客からの注文とそれへの応えだった。
客は、若い男だった。薄手のトレーナーの上に、綿入れのはんてんのような物を羽織っていた。家のこたつからひょいと這い出て、そのまま店に来たという雰囲気だった。
郁乃は、おかみがのれんの奥から差し出した皿を受け取り、男の元へ運んだ。湯気が立ち上る熱々のチキンカツが載ったカツカレーだった。
「お待たせしました」
「おおっ、これこれ! こいつを食っとけば、朝までいけるぞ!」
皿を受け取りながら嬉しそうにつぶやいた彼の口元を見て、郁乃はようやく客の正体に気づいた。
(こ、この人……、三、三村くんだ!)
三村というのは、郁乃が大学生の時に所属していたサークルの後輩だ。学生寮に住んでいて、冬場はこんな格好でサークルに顔を出すことも多かった。
笑ったときに見える八重歯に人を引きつける魅力があり、男女を問わず彼にかまいたがる者は多かった。
郁乃も、彼がカレー好きだと知って、バイト先のクーポン券を渡したことがあった。三村は、その日のうちに店に来てくれて、大盛りのチキンカツカレーを今と同じように頬張っていた――。
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