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朝も「行ってきます」とよびかけても無言で、冬香は背中を向けて涼子が幼稚園で食べる弁当を作り、あの歌を嫌味ったらしく歌っていたぐらいだ。
しろやぎさんからおてがみついた。
くろやぎさんたらよまずにたべた。
しかたがないのでおてがみかいた。
さっきのてがみのごようじなあに。
あてつけか。
家族なんだから、はっきり言っても別にいいじゃないか。
自分が失言をしたことも棚に上げて、捨て台詞のように玄関で言い放っても冬香はずっと無言かつ冨野がいないかのようにふるまったため、苛立ちをくすぶらせたまま、家を出る羽目になった。
冨野はそれをオフィスルームで音楽を流す相手に向けようと、声を張り上げる。
「ここは会社だぞ?誰かとめさせろよ、やめさせろって!なあ、聞いてんのかよ!」
耳障りだと注意する人が出てきてもおかしくない状況にも関わらず、オフィスルームでは冨野をのぞき、他の社員は誰も気に留めている様子はない。
各々が仕事に精を出し、キーボードや電卓を打ち込む音だけをさせて、あたかも歌など聞こえていないのかもしくは耳栓でもしているのか錯覚してしまうほどだ。
ならばこれは幻覚だろうかと冨野は目をぐりぐりとこすってみたが、やはりそこにある違和感は消えることがない。
むしろ童謡がリピートされればされるほど、色濃くなっていく気がしてならない。
「ど、どういうつもりだよ、お前……おい、八木原!」
平静とキーボードを打っているが、違和感を与え続ける女。
なぜか誰もが触れようとしないし、関わろうとしないし、注意を促しさえもしない相手。
「なんだよお前……とうとう、おかしくなっちまったのか?」
こめかみに人差し指を近づけ、くるくる回す動作を見せつけた冨野だが、その声はかすかに裏返り、震えている。
違和感の原因がダイレクトに視界へと入りこんでくるせいで戸惑っている状況ではあるが、せめて思考だけ、脳だけでも逃げだしたい、認めたくないと自己防衛が働き始めたからか、不格好な娘の踊りを思い出そうと必死に、記憶を引っ張り出そうとする。
けれども、そんな「やっつけ仕事」じみた自己防衛など現実という大きく、そして痛いほど密着する存在にはごく小さな羽虫がぶんぶんとわずらわしく、悪あがきするように飛び回っているような、取るに足らないものに過ぎない。
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