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 目を閉じることもできず、ひたすらリピート再生される童謡が記憶を呼び起こそうと、必死にもがく冨野を邪魔している。  同時に、風呂上りでようやくゆっくりできるというところにやってきた涼子に対してタイミングが悪いというマイナスイメージばかりが先行し、目の端でぼんやりと適当に見ていたせいで、やはり少しも思い出せない。 焦っているからこそ、よけいに頭が真っ白にリセットされてしまう。  ああ、あわわ、あわわと口をぱくぱく開けたり閉じたりして、次に発する言葉をひっかき集めようとしていても、データを消去されたハードディスクみたいに、からっぽだ。  どうしたら、どうすればとあたふたしている冨野をよそに、童謡を流すスマートフォンの隣で、プルルルル、プルルルルとルーティンな電子音をたててライトグレーの、年季が入った固定電話が存在をアピールするかのように鳴りだした。  女は違和感を保ったまま、スマホを手に取って童謡を一時停止させてから受話器を手に取るとややこもり気味な声で社名を述べて、低姿勢なやりとりを相手とかわしたのちに、くるりと冨野のほうへと振り返る。  濃紺に白い線が入ったストライプ生地でできたベストとスカート、それから水色のボウタイブラウスという地味だが清楚に見えるデザインを配慮した制服は、確かに会社が支給している正社員用の制服だ。  非正規は私服通勤だから、すぐに見分けがつく。  制服も、ネックストラップつきカードホルダーに入った社員証も、先週支給されたばかりだからか、真新しく、ブラウスはまだおろしたてのような光沢を保っている。  社員証には確かに名前が、冨野が見るだけで苛立ちを覚え、声を荒らげたくなる名前が印字されている。  八木原めぐみ、と。  違和感を与える「それ」は、もとい「八木原めぐみ」は固まっている冨野の前で「少々お待ちくださいませ」と付け加え、固定電話の保留ボタンを押した。 「冨野さん、五番に坂口エンタープライズの今井課長からお電話です」 「……え」 「え?」 「いないって、言え。あとで、俺から折り返すから」 「でも、いらっしゃいますと、こちらも答えてしまいましたから……」 「いいから、言う通りにしろよ!気が利かねえな!非正規のくせに!」 「お言葉をかえすようですが、もう正社員として採用していただきましたが?」 「うるせえ!」
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