身代わり交渉

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 愉快そうな神に手を引かれるまま、池の縁石に足をかけた。  真っ暗な水面が眼前に広がっている。雨粒が表面を叩かなければ、ぽっかりと空いたただの穴に見えただろう。 (いったいなにを……)  神を仰ごうとしたその瞬間、身体が大きく前に傾ぐ。神に手を引かれ、よろめいたのだ。  とっさに足を前に出したが、そこにあるのは水面だけ。  揺れる水面をたやすく踏み抜いて、身体はあっけなく池へと落ちていった。  弾みで傘を離してしまうが、沈んでいくおなつにそれを気にする余裕はない。  膝下ほどの深さしかなかったはずの池は、今やおなつの身体をまるごと呑みこんでいた。 (足が……つかない……っ)  もがこうにも着物の裾が張りついて、思うように身体が動かない。  水に潜ったことなどないおなつは、えもいわれぬ浮遊感にただ硬直するしかなかった。  暗闇のなかでよすがになるのは、左手にある神の手の感触のみ。この手が離れたら、二度と地上には戻れないだろう。  水底に足がつかないまま、身体が前方へと流されていく。  最初は緩やかだった水流は徐々に勢いを増し、いつしかおなつの身体を遠くへと押し流していった。  目と口を固く閉ざして耐えるおなつだったが、不意に、まぶたの裏に光がちらついた。 (松明の明かり? ……ううん、まぶしすぎる)  小さな光がいくつもまぶたを叩き、おなつは恐る恐る水中で目を開けた。そして驚きのあまり、口から一際大きなあぶくを吐き出した。  おなつがいる場所はすでに池ではなくなっていた。  透き通るような水色に包まれていたが、その色は水の色ではない。  見上げなければ見られないはずの――いや、雨が降り出してからは屋敷では一度も見られなかった、鮮やかな青空がそこには広がっていた。 (空を飛んで――ううん、違う! 空を泳いでる!)  さながら天の川を渡る織り姫と彦星――と例えられれば雅だが、彼女たちは天の川を流されたりはしない。  空を泳いでいるという点では、皐月の鯉のぼりのほうが近いだろう。そして空の川は緩やかに天から地へと流れており、終点は見知らぬ屋敷の入り口へと続いていた。 (なんて広い……ここが神の御殿なのかしら)  水中にいるせいではっきりとは目視できないものの、奉公していた屋敷とは比べものにならない広さであることはわかる。  しかし、屋敷の全容を把握するほどの時間は与えられず、おなつは神とともに門の前へと降り立った。
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