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「それで、勤めを知らなかったということはつまり、まだそちに仕事は与えられていないということだな。そちの忠義には感心しておるが、ひとつ困ったことがあっての」
「困ったこと、ですか」
「うむ。現世に下るにあたって、花嫁に地上の話を聞こうと思っておったのだ。
時代は変わっていく。身なりを変えたところで、そのまま馴染めるとは思えぬ」
本人の言うとおり、服装を現代のものに合わせたところで、周りに溶け込めはしないだろう。話し言葉が古風なのもあるが、口調や物腰が常人とはまるで違う。
「こうなると知っていたら、地上の機微にももうすこし気を配っておくべきだったな。お絹の物言いはどうじゃ? あれは私と生まれが似ているのだが、そちから見てどう思う」
「お絹さんですか。お絹さんは、私から見ても違いがあまりないように存じます」
奥方と生まれが似ているのならば、お絹も位の高い武家の姫だったのだろう。だが彼女は、料理長として働いているからか、奥方ほどの威厳はない。とはいえ、あの風格で一介の使用人と呼ぶのは無理がある。いいところの奥方様といった感じだ。
「あれは料理の素材を選びに下に降りることがあるからな。それなりに民との接し方を心得ておるのだろう。
しかし、言葉遣いはお絹に倣うにしても、どのような生活を営んでおるのか、とんとな。世間知らずの親では、この子も困るまいて」
奥方に寄り添っていた坊ちゃんの影は、彼女の膝元でいつしか動かなくなっていた。食後に眠くなるのは、尊き方のお子でも同じらしい。
「ゆえに、商家の娘に立ち振る舞いをと思うて待っておったのだが、とんだ思い外れよ。口惜しい。地べたの這いずり回り方など、妾は知る必要もないわ」
「……」
奥方の言葉を、おなつは背を丸めて受け入れるしかなかった。
彼女の当てが外れたのは、おなつが身代わりを申し出たせいにほかならない。
お嬢様の身代わりになったことを詫びたりはしないけれど、非難は受け止めなければならない。せめておなつがお嬢様付きの上女中であれば、まだ役に立ったのだろうが。
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