1人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
しばし、無言の時が流れた。畳の色はもう夕日の赤ではなく、行灯の白に染まっている。外では風の音が鳴っているが、御簾はほとんど動かなかった。
首を垂らしたまま微動だにしないおなつを、奥方は静かに見下ろしていた。そして、諦めたように息をつく。
「……端女にあれやこれや言ってもせんなきこと、か。
望んだものが手に入らなかったからと不平をこぼすは、月を欲して泣く子供のごとし。今のは忘れよ」
おなつは頷いて応じる。しかし、紛れもなく本音だろう。
「見込み外れとはいえ、そちは現代を知る貴重な人間じゃ。物の道理はわからずとも、差異くらいはわかろうて。ゆえに、私のそばに寄ることを許そう」
奥方が御簾のわきに控えていた女中に目を遣ると、女中はすっと背筋を伸ばした。
「そこのヤマメは私付きの女中じゃ。
私がここを退く春まで、私の元に通い、かれに腰元としての振る舞いを学ぶがよい。少しはその縮こまった背も伸びるであろ。なに、旦那様には私から口添えしておく」
とんとん拍子に話を進められるが、もとより返事ははいしか認められていない。おなつは腰元である女中に深く頭を下げた。
「おなつと申します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよしなに」
平坦な声が耳を打つ。硬い態度のおなつに、奥方は初めてわかりやすく笑い声を上げた。
「ホホ、魚相手にまで仰々しいこと。少しは力を抜きなさい」
「はいっ」
おなつは反射で返事をしたが、次の瞬間に勢いよく御簾を仰いだ。
(魚!? そういえば今、この方をヤマメと――)
ヤマメといえば、川で捕れる魚である。村の川では取れないが、屋敷で酢漬けを食べたことがある。
「旦那様は水神ですよ。その眷属ならば、おのずと見当がつくでしょうに。
それにしても――ホホ、そんなに目を丸くして。そちのほうがよっぽど魚らしいのう」
堪えられないといった様子で笑みを滲ませる奥方に、おなつは慌てて目を瞬く。そして、信じられない気持ちのまま、もう一度女中に顔を向けた。
それでも彼女は美しくそこにあるだけで、川を泳いでいる魚のようには見えなかった。
最初のコメントを投稿しよう!