雨七日の神隠し

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 下女中のおなつは、末娘の加代子の部屋にいるようにと言いつけられている。  なのになぜ廊下に出ているのかというと、そのほかならぬ加代子に、鯉の餌やりを命じられていたのである。  加代子は池で買っている鯉が大層お気に入りで、なかでも白地に赤の斑点がついている鯉には、並々ならぬ愛情を抱いていた。  雨を理由に習い事以外では部屋から出してもらえずにいたせいで、日課だったはずの鯉の餌やりすらできず、加代子は大いに不貞腐れていた。  そして今夜、とうとう不満を爆発させたのである。  庭に出たいと騒ぐ加代子をなんとか宥め、おなつが餌やりと意中の鯉の様子を報告することでようやく納得してもらったのだ。  そのついでに紀代子の様子も見てきてほしいと女中仲間に頼まれ、おなつはこうして廊下に出てきている。 (鯉が寂しがってないか見てきてほしい、か。私じゃ役目は果たせないのだけど)  おなつはどの鯉が加代子の意中の鯉なのかを知らない。庭に出ることはあれど池にはできるだけ近づかないようにしていたし、ましてや池を覗いたことすらなかった。近づいたらどうなるかわかっていたからだ。  こんな日だからか、あるいは雨のせいか、庭の灯籠には火が灯されていなかった。それでも屋敷の明かりで、池に続く石畳まではかろうじて照らされている。水溜まりにできる波紋が雨の強さを物語っていた。  足袋は脱いでしまったほうがいいだろう。だれもいないのを確認してから、足袋を懐にしまう。それから縁側に置かれていた傘を手に草履を履き、足を滑らさないよう、ゆっくりと歩を進めた。あっというまに足が水浸しになっていく。  そうして辿りついた池を見下ろしたおなつは、想像していたとおりの光景に息をついた。 「顔を見なくても、私とわかるのね」  水面に浮かぶのは雨粒による波紋のみ。逃げ場のない鯉たちが、水中で息を殺しているであろうことがありありと伝わった。そう、わかりきっていたことなのだ。  おなつは動物に好かれない。いや、動物に忌み嫌われているといってもいいだろう。  幼少のみぎりからそれは顕著で、牙や爪のある獣には襲いかかられ、武器のない獣には逃げ惑われる。身体には獣に襲われた際にできた傷跡がいくつも残っていて、それは呪いのようにおなつを蝕んでいた。 (……こんな身体じゃ、身代わりになったって神様に八つ裂きされるだけか)  ――嫁の貰い手もないだろうこんな傷物の娘を雇ってくれた旦那様と奥方様に、御恩返しがしたかった。  ――同じ年頃だからと声をかけてくださる紀代子様の憂いを取り払いたかった。  ――分け隔てなく接してくださった加代子様の笑顔を守りたかった。  しかし、おなつは無力だった。 (永遠に、明日なんて来なければいいのに)  不安が立ち込める夜でも、空虚な朝よりはずっといい。  叶いもしない願望を抱きながら、おなつは枡をひっくり返した。  本来は鯉に向かって少しずつ投げてやるものなのだろうが、鯉の姿がないのだから仕方がない。人が寄ればすぐに群がるという鯉はしかし、餌を投げ入れられても水面に顔を出さなかった。 (お嬢様には鯉は元気でしたとお伝えしよう。せめて、加代子様には安らかにお眠りいただかなければ)  加代子が寝たら、おなつも眠らなければならない。使用人は主人よりあとに寝て、主人より早く起きねばならないのだ。どんなときでも、それは変わらない。  黒いだけの水面から顔を上げようとしたそのとき、その声は響いた。
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