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「ほう。神の遣いに畏れられるとは」
後方からかけられた声に、危うくおなつは枡を落としそうになった。あわてて振り返る。
長身の男がそこに立っていた。この雨のなか傘も差さず、涼しげな顔でおなつを見下ろしている。
月も雲に隠され、障子越しの明かりがかろうじて輪郭を映し出すだけの夜闇なのに、なぜかその男の顔はおなつの目にくっきりと映った。
ほっそりとした美丈夫である。
(さっき聞いた、警護に来てくださった方?)
服装を見れば相手の格はわかる。間違いなく位の高い方だ。
服の色味は判別がつかないが、羽織の下は無地の着物で袴を履いている。値の張りそうな恰好なのに、着物や髪が濡れていくのにも一切注意を払っていない。その目はただ、おなつを見つめていた。
観察するような面白がるような瞳に、おなつはおずおずと頭を垂れる。
「畏まらずともよい。……いや、畏まらなくてもいい、か。畏れるのは鯉だけで充分だ」
そう言って顔を上げさせ、男は池のほとりまで足を運んだ。そして楽しげな顔で池を覗きこむ。
「本当に、一匹たりとも出てこないのだな。私を前にしてずいぶんと薄情なものだ」
前にも来たことがあるのだろうか。まずは屋敷内へと導こうと傘を差し伸べかけたおなつだが、その出で立ちのあまりの優美さに腕を止める。
(……この人、なにかおかしい)
神に狙われたこの屋敷の庭で、こんなにも伸びやかに振る舞えるなんて。
それに彼は、一度も屋敷のほうに目を向けていない。
紀代子の身を案じてやってきたのなら、池の鯉など見向きもせずに紀代子の様子を尋ねるべきだろう。
紀代子に懸想しているのならば、なおさら。これではまるで――
わずかに後退ると、男の黒い瞳がおなつを捕らえた。
その瞳に得体のしれない不気味さは隠されていない。むしろ慣れ親しんだ、なくてはならないなにかが広がっているように感じられた。
生まれる前からずっと、当たり前のようにそこにある、お天道さまの光のような。
「貴方は――」
か細い声は雨音に掻き消された。だが男は目元を緩め、意図せず答えを口にした。
「今日で七日目だ。私の嫁のもとへ、案内してもらおうか」
まるでそれが自然の摂理とばかりに、神は嫁を求めた。
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