身代わり交渉

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身代わり交渉

 降り続く雨が沈黙を埋めていなかったら、意識はきっと遠のいていただろう。  すべてが夢であってほしいと願ったところで、雨の匂いも男の微笑みも、なにも変わらない。 (この人が、神……)  狐狸妖怪の類でないことは一目瞭然だった。  その佇まいに見え透いた虚飾やあからさまな媚はなく、ただただあるがままの神々しさを備えた美があった。  夜闇の中ですらそう感じるのだから、昼の光の下でなら目を焼かれていたかもしれない。  にもかかわらず男は、目の前のおなつを見下すことはなく、暖かさすら感じさせる眼差しを向けてくる。  だからこそおなつは、絶望を抱かずにはいられなかった。  此の神は、自らの要求がはねのけられることを、爪の先ほども案じていない。  目の前の女中が逃げたり、声をあげて人を呼んだりするのを、一切気にかけていないのだ。  それどころか、呼吸すらままならない女中が落ち着くのを待つ余裕さえある。  そんな相手に、どう立ち向かえというのだろうか。  こちらは満足に声を上げることすらできないというのに。  傘を持つ指は震えている。秋雨は容赦なくおなつの体温を奪っていく。  それなのに雨に打たれている神は、顎や髪に水を滴らせながらも平然としている。人の身なら、とても耐えられないだろう。  短くも長い静寂を打ち破ったのは、おなつでも神でもなく、部外者の濁声だった。
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