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そこにいる誰もが、雷に打たれたようにじっと一点を見つめたまま、動きを止めていた。
ローガンの前にぬっと立つ、四つ足の真っ黒な影――アイリッシュ・ウルフハウンドほどの巨体に、不吉さをまとった黒い犬。
犬はインクのような黒く潤んだ目でローガンだけを凝視している。異変に気付いて駆けつけた屈強そうな警備員も、足もピタリと止めた。
ぼくは仰向けのまま、静寂の世界を見渡した。黒い犬を遠巻きにして、おびえた視線を送る人びとを。
――こんなに、大きい犬が。
――突然、現れた。
――さっきまでは、いなかった。
――きっと、あの犬だ。
――手を出しては、いけない。
――だって、この犬は。
――手を出したものを呪う、この犬は……。
ぼくの下にいるリアムがつぶやいた。「黒妖犬だ」
スマホで撮影しようとする人もいない。警備員はまだ動かない。皆、「最初に動いたものが呪われる」と言わんばかりに立ち尽くしている。駄々をこねていた子どもさえ……。
王様。
――妖精なんて、信じない。
たとえ口ではそう言っても、ほんとうはぼくたち、知っているんです。この国のおとぎ話を聞いてきた、細胞ひとつひとつが叫ぶんです。
ふと寒気の走った背中に。聞きなれない風の音に。視界の隅を横切った影に。はっと目が覚めた真夜中の暗闇に。自分の力の及ばぬ出来事に。
異界のほつれ目から、あなた方が顔を覗かせた、と。
ブラックドッグの前足が、ローガンに一歩にじり寄る。牙を剥いて低く唸った。口の端から何かの屑がパラパラと落ちる。
ローガンが次にやるべきことは一つしかなかった。
「来るな!」と叫びながら一目散に駆け出して、彼の短距離走最速タイムを更新しながら、ショッピングモールの駐車場で待っている彼のパパの車に逃げ込むこと――。
潮が寄せるように、吹き抜けにざわめきが戻ってくる。
自分の仕事をやっと思い出した警備員が、すでに小さくなったローガンと、その後ろを絶妙な間で追う黒い犬の方へ走っていく。
リアムがぼくのからだを押しのけた。「重いって」
「リアムが引っ張ったんじゃん」
立ち上がりながらリアムは身震いを一つした。「……今の、マジでブラックドックかな……」
「……どうだろ」黒犬の口の端からこぼれた粉は、ショートブレッドの屑に見えた。「ワタリガラスが変身したのかも……」
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