第2話 健太郎の風鈴 ①

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第2話 健太郎の風鈴 ①

 肌寒い布団の中で、深瀬健太郎(ふかせけんたろう)は胸を掻きむしった。  ああ、まただ。またこの記憶が俺を狂おしい気持ちに引きずり込む。  美和子を失った記憶。こんな記憶捨ててしまいたいのに。失恋の痛手をいつまでも引きずってなんかいたくないのに。  まるで忘却の能力を失ってしまったかのように、記憶はいつまでも脳に巣食い、ことあるごとに繰り返し彼の心を蝕んでいく。  失恋には新しい恋が特効薬になる。いい加減くよくよするのを止めて踏み出せばいい。そんな慰めや励ましの言葉は、はっきり言ってなんの役にもたたない。  血を流し続ける心を抱えて日々をやり過ごすだけで精一杯なんだよ。  もんもんと寝返りを打ち続けた後、健太郎はガバリと起き上がった。暗闇の中で携帯の電源を入れる。文字が躍るライトの中で目的も無く指を動かし続ける。  その時、吸い寄せられたように意識に飛び込んできたのが、『捨てたい記憶、引き取ります!』の文字。  なんだこれ?  AIが勝手にあなたにお勧め記事としてあげてきやがったぞ。  こんな胡散臭い話に乗る奴なんているのかな?  そう思いつつも、ついついそれをクリックしていた。  確かめてみるだけ。好奇心って奴さ。  様々に自分に言い訳をしながら覗いた先には、『忌まわしい記憶に振り回されて生きて行くのが辛いと思っている人に朗報です』と釣り文句が続く。  やっぱりな。怪しさ満点じゃないか!  頭では冷静にそう思いつつも、目は文字を追ってしまう。     捨てたい記憶だけをピンポイントで消すことができて、それ以外の部分には一切手を加えずに済むなんて。そんなことができるのは、神様か霊能力者ぐらいだろう。本当にいるわけないじゃないか。  そもそも、サイト名からしてインチキ臭い。 『忘却の女神』だなんてさ。  やめだ、やめ!  そう思ってブラウザバックしようと思っても、なぜか心と反対の行動ばかり。  流れるようにアンケートへ進み、悩みを書き込んでいた。  なんだかんだ言って、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。  名も知らぬ誰かに、吐き出すだけの行為。  そう思っていたから、返事が来た時には、驚きと恐れで飛び上がりそうになった。 『 ケン様   初めまして。『忘却の女神』の管理人です。この度はアンケートにお答えくださいましてありがとうございました。失恋の記憶はなかなか癒えないもの。私がお役にたてるかと存じます。つきましては、施術の日づけに付いてですが……』  返信には、都合の良い日時と、待ち合わせの神社の場所が書かれている。  管理人って、神主さんとか巫女さんとかなんだろうか?  そう思って無視しようと思ったのに、またしても指先が頭を振り切った。 『是非、よろしくお願いします!』  こう言うわけで、健太郎は今、小さな川の流れる田舎町の、名も無き神社の鳥居の前に立っているのだった。  東京では、もうちらほらと桜の花が咲き始めていたのに、ここはまだ蕾のまま。ひんやりとした風が吹きつけていて、慌ててマフラーを鼻先まで引き上げた。    そう言えば、管理人のこと、何も教えてもらっていないな。  会ったらわかるのだろうか? 一体どこにいるんだろう?  社の中を覗いてみたけれど、影すら見つけることができなくて途方に暮れて立ち尽くす。  ったくもう! 自分のアホさ加減に呆れるぜ。   「こんなところまでわざわざ来るなんて、俺もどうかしていた」  自分で自分を励ますようにそう声に出すと、踵を返して社から離れた、その時だった。 「お待たせしました」  女性の声に引き留められた。一体どこから湧いて出てきたのかという疑問を持つ間もなく、彼の目の前に躍り出た人影。  美しい女性(ひと)だった。  ゴクリと喉が鳴る。  この世のものとは思えない気配を感じて、畏怖の念に気圧された。 「驚かせてしまってごめんなさいね。でも、心配しないで。あなたが今感じた恐怖も、預けたがっている記憶と一緒に引き受けるから」  その言葉に、自分の目的を思い出す。  やっと失恋の記憶から解放されるんだな……  そんな安堵感を得て、がくりとその場に膝をついた。  艶やかな紫の着物の袖を地に着けて、健太郎に手を差し伸べてきた女性。  思わずその手を掴めば、いつの間にか景色は移り変わり、磨き込まれた調度品に囲まれた洋館の一室に来ていた。 「こ、ここは?」 「私の館です。ここの方が安心してお話できるでしょ?」  微笑ながら飲み物を差し出してくれた彼女に、健太郎は引きつったような笑みしか返せなかったが、おずおずと指示されたテーブル席へと腰を下ろした。 「いくつか質問させていただきますね。リラックスして答えてくれたらいいわ」  和装美人から飛び出すざっくばらんで現代的な言葉遣いに、何とも言えないアンバランスな違和感を覚えつつも、何の疑いも持たずに目の前の湯のみに口をつけた。柔らかな草花の香りが口の中に広がっていく。甘みがあって心落ち着く思いがした。 「お口に合ったようで良かったわ」    零れ落ちた清香の笑顔が、健太郎の警戒心を淡雪のように溶かしていった———  
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