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プロローグ〜世界で、もっとも不憫な存在〜前編
2009年 4月7日(火)
その後の人生で何度か経験することになるように……。
出会ったその日に、僕は、その相手に夢中になってしまった――――――。
道頓堀川に沈められたカーネル・サンダース像が二十四年ぶりに発見されて引き上げられ、イチローの決勝タイムリーで日本代表が二大会連続の野球世界王者に輝いた春のある日の夕方、祖父は、僕を(引っ越したばかりの)自宅から連れ出して、ある場所に向かった。
転校初日の始業式を終えて、精神的に参ってしまい(まだ住み慣れない新居であっても)自分の部屋で落ち着いて過ごしたかった僕は、夕方から出掛けたくなんてなかったんだけど、母親の
「せっかく、おじいちゃんがチケットを取ってくれたんだから、行ってらっしゃい!」
という強引なススメもあって、渋々ながら、祖父について行くことにした。
終着となる停留所でバスから降り、高速道路と一般道が重なる高架道路に目を向けると、その隙間から、巨大な茶色の壁面に、
阪 神 甲 子 園 球 場
という文字が見えてきた。
高架下を通り過ぎ、あらためて、ドデカイい外壁を見上げていると、
「ツタがあった頃は、ミドリ一色やったけど、ずい分と印象が変わったな〜」
と、祖父が感慨深げにつぶやいたことを、いまでも、よく覚えている。
入場門をくぐり、バックネット裏の内野席に向かう階段を上がると、イカの姿焼の香ばしい香りが立ち込めてきた。
売店が並ぶ通路を抜け、スタンドの方に出ると一気に視界が広がる。
内野席を覆う大銀傘の下から眺める、新しくなった照明塔、黒い土と緑の芝、そして、大きなスコアボードが作り出す光景に目を奪われた。
あとで知ったことだが、この日は、数年をかけてリニューアルを工事を行っていたこの球場のシーズン開幕初戦だったらしい。
目を見張りながら、
「すごい! 球場って、メッチャ大きいね!」
と、感嘆の声を上げると、祖父は、嬉しそうに答えた。
「そうやろ? 甲子園は特別やからな」
祖父さんが亡くなったいまとなっては、その特別という言葉が、具体的にナニを指すのかはわからないままだが、それでも、その後の自分にとって、ここが特別な場所となることに間違いはなかった。
球場に到着してから、およそ四時間後、僕は、球場の美しさ以上に、さらに強烈な光景を目にすることになる。
※
午後六時にプレーボールとなった試合は、中盤まで接戦となり、7回の攻防を迎えるまでは1点差でホームの阪神がリードしていたが、7回表にカープが一挙7点を挙げ、スコアは4対10となっていた。
コロナ禍以前には、お馴染みの光景となっていた甲子園名物の色とりどりのジェット風船は、なかなか終了しないカープに耐えきれず、そこかしこで、ヒュルヒュルと打ち上がったり、パン! パン! と弾けるような破裂音を発生させる。
「ナニやっとんねん! ジェフ!!」
カープの猛攻を食い止めることができないマウンド上の投手ジェフ・ウィリアムスに対しても、周囲から怒号が飛んでいた。
風船をひとつだけ持ち、子どもの体感時間では、永遠とも思える長さに感じられたカープの攻撃時間の長さにウンザリしながら、
「なあ、コレ、いつ終わるん?」
と、たずねると、僕と違って両手にジェット風船を持っていた、祖父は、
「もう少しの辛抱や……これくらい耐えられへんかったら、阪神ファンなんかやってられへんぞ……」
と、苦しさを吐き出すように答えた。
「別に、阪神ファンになろうなんて、思てへんし……」
ふてくされるようにつぶやきながらも、必死で風船の吹き口を抑えていると、ようやくカープの攻撃が終了し、しばらくして、場内から、その後、何百回と耳にすることになるメロディー流れ始めた。
スコアボードに目を向けると、巨大ビジョンの右半分には、ジェット風船を手にしたトラのキャラクターが映し出されている。
メロディーに合わせて、球場全体から、
「オイ! オイ! オイ! オイ!」
という掛け声が聞こえ、曲の演奏が終わると、視界いっぱい、ほぼ360度の全体から、一斉に風船が打ち上げられた。
色とりどりの風船が空に上っていく様子は圧巻そのもので、その光景に感動を覚えつつも、お祭り騒ぎに参加できたことに、十分な満足を感じた僕は、祖父に
「なあ、この回の攻撃が終わったら、帰るんやろう?」
と、たずねた。
スコアボードの大時計は、午後九時を回っていた。
そろそろ、祖父の携帯電話に、息子の夜間外出を許可した母親からの帰宅確認の連絡が来るハズだ。
おまけに、この時点でのスコアは、4対10。
阪神は、6点のリードを許している。
野球観戦の超初心者である小学生の自分にも、ホームチームの敗色が濃厚であることは理解でき、残り3イニングでこの点差を逆転することは不可能に思えた。
しかし、祖父は、こちらが予想もしなかったことを口にした――――――。
「明日は、一年生の入学式で学校は休みなんやろう? せっかくやから、最後まで試合を観ていかへんか?」
この時の祖父さんの選択が、僕のその後の人生を決定づけることになるとは、夢にも思わなかった。
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