第二章:七夕の二人――清海《きよみ》の視点

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――ガチャガチャ。  玄関からの鍵を開ける音で思わずビクリと壁から身を起こした。  いや、まだ夜の遅くにはなってないはずだ。何故今日に限って早く帰ってくる?  ギーッとドアを開ける音が響いてきた。 「ただいま」  いつも通りの、苛立ちや不機嫌の滲まない夫の声だ。  その時、強く沸き起こったのはそれまで募らせていた嫌悪ではなく得体の知れない恐怖だった。  どんな顔をして夫を出迎えればいいのだ。最初に何から言えばいいのだ。  まるで自分の方が不倫の現場に踏み込まれた妻のように立ち上がったまま行くも戻るも出来ずにうろたえる。 「雨凄いし、やっぱり早く上がったから帰ってきたよ」  廊下から夫の足音と声が近付いてくる。 「何か食うもんある?」  開けっ放しのトイレのドアから顔を合わせた瞬間の夫はさりげなく微笑んでいた。  こちらが答えるよりも前に、相手の笑顔が消えた。  食べた物を全て吐き出して真っ青になった、両の頬に涙の跡を着けた妻の顔を目にして察するものがあったのだろう。  雨に濡れた夫の黒い短髪の頭が振り向くと、寝室のドアが開けっ放しのまま、廊下にはまるで出迎えるようにルームライトが漏れていた。  冷え冷えとした空気が向かい合った二人の足元を浸していく。  そうだ、寝室のエアコンを点けっぱなしだったと今更ながら思い出す。  無言でノロノロと引き寄せられるように夫の濡れて半ば貼り付いたワイシャツの背中が寝室に吸い込まれていくのを私は成す術もなく見詰めていた。  バン!  破裂するような音が響いてきた。  再びノロノロと寝室から出てきた夫は無表情な、しかし、血の気が引いて蒼白い仮面じみた顔色になっていた。  こちらと目が合うと急に早足でこちらに突進してきた。  殺気というのはあの時の彼の眼差しに漂っていたような空気を言うのだろう。
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