第二十一章:偽りを断つ時――美生子十八歳の視点

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「あんた、レスリー・チャンが好きで京劇やら何やらの本を集めて読んでいる割には化粧気もないのね」  お母さんは思い出したように自分もハンドバッグからコンパクトを開いて崩れた化粧を直し始めた。  どうやら洗濯の準備はもうしなくて良いようなのでベッドに寝転がる。  近いような遠いような真っ白な天井を見上げながら(うそぶ)いた。 「あれは昔の女形の化粧だから。伝統衣装と同じ」  昔の女形だって舞台を降りれば化粧を落として一般の男性として生活していた。  レスリーだって普段は紅白粉(べにおしろい)を施してスカートを履いていた訳ではない。 「せっかく東京に出してもらったんだからお化粧より勉強だよ」  天井を見詰めながら孝行娘らしいことを言ってみるが、本心ではある。 「政治学科だからこれから色々勉強しないと大変だろうし」  第一志望の国立の文学部は落ちて、第二志望の私立の政治学科に行くことになった。  それでも、就職には却ってこの方が良いかもしれないという目算はある。 「サークルとか良く選んで入りなさいよ」  お母さんの目は既にジャージ姿の「娘」から部屋の隅に置かれた紙袋――入学式で新入生に配布された資料一式を入れた物だ――からはみ出たサークルのチラシの束に注がれている。 「大丈夫だよ、テニスサークルとかじゃなくてちゃんと就職に繋がるような勉強する所で探すから」  インカレのテニスサークルなどはむしろ他大の女子大生がメインで本部校の女子学生(特に自分のような学内では偏差値の高い学科の女子)は敬遠されるようだし、そもそもが男を好きになれない自分などお呼びではないだろう。 「英語とか中国語とか、出来れば留学もしたいし」  本当の自分で生きられる場所に行きたい。 「もう地元には戻らないの?」  穏やかな声だがこちらを振り向いたお母さんはどこか寂しそうに笑っていた。  もしかして、お母さんは知っているのだろうか? 「娘」の心が本当は男であることを。好きになるのも女の子であることを。  今まで幾度となくその可能性を疑って、その度に敢えて目を逸らしてきた疑懼が底知れぬ恐怖と共に頭をもたげる。  サーッと血が引いて手に冷たい汗が湧いた。  昨日引っ越したばかりの部屋の埃っぽい、積み上げた段ボールと壁の塗料の入り混じった匂いが思い出した風に鼻先に蘇って胸の奥が痛みを伴って早打つ。  そうだ。今こそ打ち明けるべき時なのだ。  汗と共に握り締めた拳が震える。
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