第二十一章:偽りを断つ時――美生子十八歳の視点

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 ふっと自分に似た丸く大きな目の、しかし、色は浅黒く中高年の弛みや皺の見える顔が頷いた。 「ミオコの好きなようにしなさい」 「ああ……」  思わず出鼻を挫かれた格好で口から肯定とも否定ともつかない声が漏れた。  美生子(みおこ)。これが確かに「女」として自分に付けられた名前だ。 「ああしろこうしろと言ったってあんたは聞かないんだから」  これでおしまい、という風にお母さんはストッキングの脚で立ち上がる。  何だか象みたいな脚だ、と頭の片隅で思う。  むろん、そこまでの酷い肥満体ではないが、ストッキングの皮膜が膝に刻まれた深い皺の線を浮かび上がらせているので風雨に耐えてすっかり皮の固くなった象の脚じみて見えた。 「じゃ、もう帰るね」  お母さんは玄関近くに置いていたボストンバッグを持ち上げて告げる。 「ああ……」  そうだ、自分たちはもう別々の家に帰る間柄なのだ。  このまだ荷解きも途中のワンルームが俺の帰ってきた家で、お母さんはこれから新幹線に乗って一昨日(おととい)まで俺も住んでいた地元の家に帰るのだ。  今更ながらその事実を思い返しながら、自分もベッドから立ち上がる。  ふと、花盛りの桃畑を背にしたハルの醒めた面持ちが胸に蘇った。  たった二日前なのにもう随分遠い昔に思える。そうなることを見越したからこその突き放した幼なじみの目であったようにも感じた。 「外も暗くなってきたから気を付けてね」  家に一人でいる時は鍵を締めてドアチェーンまで掛けなくてはならない。  女の子は危ないから、とお母さんはこの二日間だけでも幾度となく繰り返した。  自分も体は女だからそうした危険は地元にいる頃から良く知っている。  というより、スーツを着て外を歩いている時も平均より突き出た自分の胸の辺りに纏わり付く見ず知らずの男の視線をそこはかとなく感じた。  お前は女だ、と無言で押し付けてくるような眼差しだ。 「じゃ、何かあったらすぐ連絡して」  お母さんはまるで近所のスーパーにでも出掛けるような、いつもの気軽さで語った。 「分かった」  こちらも素直に頷く。  この人には、こうして「娘」として頼れる部分は頼り、安全に話せることだけ話していけば良いのだ。  相手の姿がアパートの廊下を曲がって消える頃合いで静かにドアを閉じて鍵を締め、ドアチェーンを()す。  ふと、目の下から頬に冷たい雫が伝い落ちるのを感じた。  自分は寂しいのだ。手の甲で両目の周りを拭いながらそう認めざるを得なかった。  だが、これ以上を今は求めることが出来ない。  取り敢えず、シャワーだけ簡単に浴びて今日はもう寝てしまおう。
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