第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点

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第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点

「それじゃ、どうもお疲れ様です」 「どうもありがとうございます」  深々と相手に頭を下げ、リノリウムの床で極力音を立てないように黒の合皮サンダルの足を早めに進める。  事務員の人はもう自分を注視してはいないだろうとは知りつつガラス張りのドアを静かに引いて出る。  七月初めの蒸した空気がまるで暖房さながら押し寄せてきた。  それでも背筋を伸ばして早足で進んで予備校の敷地から通りに出たところでほっと息をつく。  今回は二科目分を担当したから一万五千円弱は貯蓄用に新たに作った口座に入るはずだ。  殆ど徹夜で赤いボールペンを持っていた手はすっかり痛くなってしまったが、自室で黙々と出来るこの模擬試験答案の採点のアルバイトが一番今の自分には向いているのだと思う。  それまで単発でホテルの配膳や工場の流れ作業のアルバイトも何回かしてみた。  しかし、きつい言葉を掛けられて凹むことが少なからずあり(自分は結局メンタルが弱いのだろう)、また、ショートカットにはしていても当たり前のように女物の制服を貸与されたり女子更衣室を使うように誘導されたりするのが苦痛で、自ずと在宅で出来る仕事を探すようになった。  幸い自分が通っているのは偏差値の高い大学なので模擬試験の答案を採点するバイトには採用された。  だが、その時々で担当する分量もまちまちなので貯蓄用の口座に溜まった額も吹けば飛ぶようなものだ。
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