第十章:欠けたもの、得たもの――陽希十歳の視点

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***** 「じゃ、これはお前に貸すから」  リゾートホテルの屋内プール。  大きな浮き輪を手渡すと、雅希君は伯父さんもいるロープで仕切られた向こうのコースに向かう。  俺もやっぱり水泳やれば良かったかな。  クロール、背泳ぎ、平泳ぎと来てやっとマスターしたばかりだというバタフライを父親に続いて泳ぎ出した再従兄の姿に思う。  バレエなんて学校の授業ではやらないし。 ――おめえ、何で男のくせにバレエやってんの、オカマ?  四年生で新しく一緒になった男子クラスメイトの嘲りを含んだ顔と声が過る。学年が変わろうがクラス替えしようがそんな風に馬鹿にしてくる奴は一定数いるし、こちらがどのように答えようが嗤い続ける。端からこけにするのが目的だからだ。 ――バレエなんて高いんだし、本当はやって欲しくないんだから。  不機嫌に言い放つ母親の姿も蘇ってきて思わずガラス張りのギャラリーを見上げる。  ペットボトルのお茶を飲んでいる貴海伯母さんの隣でお母さんは眠っている詩乃ちゃんを抱いていた。  ピンクのベビー服を着て寝入っている赤子がまるで我が子であるかのように穏やかに微笑んで見下ろしている。  プール特有の塩素臭い匂いが思い出したように鼻先を通り過ぎた。  五月ではまだ冷たく感じる屋内プールの水に馴染んできた体がまた透明に溶けていく感覚に襲われる。  不意に、こちらの目線に気付いた伯母さんが笑って手を振った。  こちらを見て笑ってくれたのは母さんでなく伯母さん。  それだって本当の息子である雅希君のついでだろう。  申し訳程度にこちらも笑顔で手を振り返してから目をプールに戻して浮き輪をビート板代わりにしてバタ足で移動する。  まあ、せっかく高い(から本来自分たち母子だけなら泊まれないのは何となく察せられる)ホテルに泊まりに来てるんだし、お母さんが少しでも機嫌良く過ごせているならそれでいいんだ。  俺を観ていなければ、その分だけ後から怒られる材料も増えないから気が楽だし。
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