第十三章:水の体、泥の心――美生子十三歳の視点

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***** 「まだ、宿題途中でしょ」 「いいじゃん、今日で英語は半分までやったし、数学も二回分やったよ」  今日の午後には本が届く予定から逆算して、お母さんが言及しそうな科目の宿題にはやった実績を予め作っておいた。  冷蔵庫で冷やしたペットボトルの黒ウーロン茶を啜りながら、ページを捲ると、まだ幼い少年の宝玉が語る有名な台詞が目に飛び込んできた。 “女の子の体は水で出来ていて目にすれば爽やかな気分になる。だが、男の体は泥で出来ていて目にすると胸がむかつくのだ”  自分のような体は女の子で心は男の子だとどんな扱いになるのだろうか。  これは賈宝玉はもちろん、清代、日本でいえば江戸時代の男性知識人である作者の曹雪芹や高鶚にも想定外の存在だろう。  紅楼夢には、私塾の後輩に関係を迫る同性愛者の男やヒロイン薛宝釵(せつほうさ)の兄の薛蟠(せっぱん)のように女遊びを繰り返す一方で美男子の役者にも目をつけて言い寄ろうとする両性愛者(バイセクシャル)も登場する。  宝玉と夭折する友人の秦鐘(しんしょう)の交流もどこか同性愛的に見えなくもない。  しかし、女性の同性愛者や両性愛者的なキャラクターとなるとまず見当たらない。これは夫以外の男性とも関係を持とうとするいわゆる「淫婦」設定の人物を含めて「女性は男性のみを愛し求めるものだ」という女性への無意識の抑圧の現れだろう。  そして、心と体の性別が異なる人物となると紅楼夢の世界には影も形もないのだ。  清代当時、そんな人がいたとしても体の性別に合わせて生きていくしかなかっただろうし(今に生きる自分だって表面的には体通りの女の子として生きている)、曹雪芹や高鶚にしても恐らくは心も体も完全な男性の異性愛者だっただろうから、創作としても考えつかなかったのだろう。  そもそも当時の上層男性である彼らの言う「体が水で出来ている女の子」だって、決して「女の子」全体ではなく「深窓の令嬢、そうでなくとも男の目を喜ばせる見目良い女の子」に限定された話かもしれないのだ。  そこまで考えたところでターコイズブルーというのが正式名称のようだが水色と黄緑の中間めいた色のTシャツの胸に手を当ててふっと息を吐く。
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