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「英語教室って大河先輩も行ってたっけ」
今、思い出したという風に、さりげない調子で問い掛けてみる。
一学年上の、つまり美生子とは同級生の男子生徒だが、後輩の女子生徒たちが噂しているのを良く見掛ける。
あの先輩は一般にはイケメンと言って良いし、バスケ部のキャプテンをしているし、何より家が金持ちだと言う話だ。
母子家庭でバレエしか習わせてもらえない自分と違って美生子には自分の知らない世界や交遊が拓けている。
そう思うと、何も持たずに着の身着のまま出てきた、中までぐっしょり泥水に浸かったスニーカーの足が思い出したように重くなった。
「ああ」
ひしゃげた傘をぶらつかせていた相手は本当にやっと思い出した風に濡れたハーフアップの頭を頷けた。
「曜日が違うせいか英語の教室では全然会ったことないけど」
拍子抜けするほど無関心な表情と口調だ。
「そうなんだ」
他の男に好意は向いていないと安堵するのとミオはやはり男全体に興味がないのだと苛立つのが半ばする。
こちらの思いをよそに前を向き直った相手は軽い驚きの声を上げた。
「あれ、お母さんだ」
思わずギクリとしてから、行く手の薄暗い雨の風景から浮かび上がった朱色の傘とふくよかな向日葵柄のワンピース姿にほっとする。
そうだ、あれは陽子おばさんだ。
「お母さーん!」
小走りに駆け出した群青のリュックサックの背を追って自分も走り出す。
朱色の傘が開いたままさっと揺れてやや肥った小麦色の、しかし、円らな瞳は美生子そっくりの顔がこちらに向けられた。
何だか虚ろな、表情らしい表情を消し去ったような顔つきだ。
と、 娘の後ろから駆けてくる自分の姿を認めると、黒目の勝った円らな瞳に一瞬、恐れじみた色が走った。
どうしたんだろう?
こちらの胸もざわつく。
「ハルくん」
囁くような乾いた声なのに雨風の中からはっきり聞こえた。
「今、おうちに行くところだったの」
怪訝な顔つきで眺める娘をすり抜けてこちらに歩み寄ってくる。
こんな表情のない、幽霊みたいな面持ちのおばさんは初めてだ。
思わずこちらも足を止めて身を固くする。
と、朱色の傘が守るようにこちらの頭の上に掲げられて、小麦色のふっくらした掌が片方の肩に置かれた。
――バラバラバラッ!
傘の生地を打ち抜かんばかりに叩く雨の音が耳に響いた。
こんな強い雨の下を自分たちは今まで歩いてきたのだ。
今更ながら思う。
次の瞬間、肩に置かれた温かな手がギュッと握り締められ、張り詰めていた小麦色の顔がグシャグシャになった。
「キヨが死んじゃった」
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