夜間飛行

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 目を閉じる。ドラゴンが夜空を舞う様を思い浮かべてみる。  満点の星を背景に閃くのは、街の北を守る、大理石で出来たドラゴンだ。鱗のひとつひとつに繊細な飾り彫りが施され、爪先は恐ろしく滑らかに鋭く、薄い皮膜の翼は優雅に風を胎み、まるで脈拍すら感じられるほど精巧に作られた、白く、大きく、美しい姿だ。それはまるで氷の彫像のように冴え冴えとした佇まいで、雪のひとひらのような静けさで、花の散り際のようにしんと流麗に、音もなく夜空を飛ぶのだろう。夢物語に語られるように壮麗に、純白の透きとおる燐光を微かに残しながら宙を舞うのだろう。人々は遥か地上から天を駆ける奇跡を見上げ、嗚呼あれが東のリークハルトだと、感嘆の息を零すのだ。私は人々よりは少し高い場所――北の塔の天辺にある特等席から、私の白いドラゴンを見詰めるのだ。たぶん、畏ろしさと誇らしさとで顔を紅潮させて。  目を開ける。  北の塔には夜風が吹きすさんでいる。傍らには、私のドラゴンが――大理石で出来た純白のリークハルトが、すっかり翼を折りたたんだ格好で坐している。蒼玉の石が嵌め込まれた二つの眼に、何かを憂うような色をそっと宿して、遥か眼下に広がる街を見下ろしている。巨体は夢に描くように白く大きく美しく、けれど精緻に作られた右翼の付け根には、微かに継いだような跡が見える。  私の美しいドラゴンは空を飛ばない。飛ぶことが出来なくなった。 もう五十年も前の話だ。だから私は、私の美しいドラゴンが、夜空を駆ける様を一度も見たことがない。 『――時刻は午前零時を回りました。宵っ張り諸君、いかがお過ごしかな? 今夜の天気は曇天時々晴れ、南から強風が吹き付ける予報。暗い夜になりそうだ、空を我が者顔で行く黒い不届き者にはくれぐれもご注意を。さて、深夜に似つかわしい曲といこう。ラジオネーム・緋色のセンキューさんからのリクエスト――』  大時代のラジカセが、途切れ途切れに流行の曲をけたたましく奏で始めた。びりびりと擦り切れた音が、北の塔の最上階、風が吹き抜ける鐘楼に谺する。でたらめな鼻歌を歌いながら、私は仕事着から双眼鏡を取り出し、定時の目視巡回を開始した。場所は現在地、北に聳える塔の天辺から。対象は、毎夜サイレンの鳴り響く、素敵に不穏な愛しい我が街だ。  五十年前に起きたクーデターから向こう、この国が平穏だった瞬間など数えるほどもないだろう。黒に姿を溶かし、闇に乗じて悪巧みができる夜であればなおさら。それでも我が街がまだしも「治安が悪い」程度で済んでいるのは、ひとえにガーゴイルの守護あってのことだ。東の青龍。西の赤龍。南の黒龍。北の白龍。街の四方に高く聳える石塔ひとつにつき、一体ずつ御座しますドラゴンたち。今から五百年前、街が出来たばかりの頃、やはり街の守護を目的として当代きっての職人たちにより作られた、命が吹き込まれた作り物。彼らの守護があるから、我が街は今でも街の体裁を保つことが叶っている。  祖父から譲り受けた双眼鏡を覗き込み、石組の塀から少し身を乗り出して、眼下の街並みにピントを合わせる。明滅する街灯、家路を急ぐ大人、酒屋にたむろする青年、路地を慌ただしく疾走する影、追いかける警邏隊の姿、犬の遠吠え、サイレンは街のどこかしらで常に鳴らされており、回転する赤いランプは狂ったように建物を照らし続ける。異常だらけはいつもどおりだ。  エンジンが唸りを上げる音が響いた。乗用車が法定速度を超過した時に似た音は、けれど決して乗用車によるものではない。ずっと恐ろしく、もっと悍ましく、そしてどす暗い感情に満ちた音だ。双眼鏡を走らせる。闇に乗じる不届き者の姿を探す。 「ヨミチ」  ほんのすぐ後ろで声が鳴る。  低い、けれど不思議と透きとおった印象を抱かせる声だ。声はきらきらと夜空に美しく散り、流星が通り過ぎたような余韻を残していく。次いで、足音が響いた。ずん、と内臓まで揺さぶる振動は、声の主が如何に巨躯であるかを伝えてくる。双眼鏡を覗く目の端に、闇夜にも紛れない純白が映った。目を向けなくてもわかる。北を守る白いドラゴン。リークハルト。私のドラゴンだ。 「ヨミチ、南だ」 「うん、見付けた。芋虫が二匹だ」  頷きながら、私は目を凝らす。飢えたけだもののように雄叫びを上げる黒い影が二つ、南の上空を馬鹿みたいな速度で駆け上がるところだった。飛行能力を備えた、バイクに似た乗り物。乗り手はひとつにつき一人ずつ。動力源は赤黒い炎。五十年前のクーデターから向こう、ご大層な大義名分を御旗とする不届き者共が、頻繁に乗り回す違法車両だ。私たちは軽蔑の念をこめて「芋虫」と呼ぶ。連中の間で何と呼ばれているか、聞いたことはあるが忘れた。  双眼鏡から手を離した丁度その折、南の塔から鐘の音が鳴り響き始める。南の塔を守る石番が、A級異常事態を知らせる鐘を鳴らしている。先を越された、と私は臍を噛んだ。今日こそ私が鳴らそうと思っていたのに。また「北は見張りも出来ないのか」と嫌味を言われるに違いない。  鐘の音が三巡目に差し掛かったタイミングで、南の塔から赤銅色が飛び出した。鉛玉もかくやの勢いで空に躍り上がった巨体は大きな翼を広げると、夜を這いずる芋虫目掛けて急降下する。翼が空を裂く轟音が、星も見えない夜空に鳴り渡った。芋虫は確かに人の移動速度に比べれば遥かに速く、けれど街を守るドラゴンが相手となれば敵う筈もない。赤い巨体は瞬く間にぞろぞろと逃げ惑う芋虫の一匹に牙を剥き、こともなげに機体を真っ二つに噛み砕いた。遠く南の空に、悲鳴と火花と黒煙が上がる。  口に咥えた芋虫をそのままに、ドラゴンは再び空を揺らす勢いで上空へと飛翔した。太陽の如き金色の目で街並みを睨むと、何かを見付けてまた急降下する。獲物は今まさに、大通りを地上すれすれに走行している残りの芋虫だ。エンジンを唸らせて芋虫は疾走するが、もはや勝ち目はないに等しい。それこそ、地を這いつくばう芋虫と、それを喰らう猛禽類のようなものだ。一度羽ばたいただけで街一区画飛び越える推進力を持つ翼が風を起こし、三呼吸の後には芋虫の後ろを取った。恐ろしく鋭い鉤爪が、いとも容易く芋虫を転がす。憐れ芋虫は路面を抉りながら地表に墜落し、やっぱり火花と黒煙を上げて動かなくなった。大通りはまあまあの被害である。人がいなかったことを祈ろう。警告の鐘は鳴らした。  勤めを完璧に果たしたドラゴンが、悠々と上空へ舞い戻る。南の塔に坐す赤銅、オスカリ。四体の中でも特に荒々しい気性の持ち主は、いの一番に夜空へ飛び出すのが常だ。対の塔で見張りに従事する立ち位置としては、些か居心地が悪くなる相手である。赤銅は燃える灰のような残光を散らして、南の塔へと戻っていく。こちらに背中を向けるドラゴンが、ふと振り返り北を――私を見た。太陽の如き金の眼が、明確に私を睨んだ。私は息を詰める。冷たく咎める視線を、ただただ見詰め返す。  やがてドラゴンは視線を逸らした。赤い巨体は今度こそ、南の塔へと帰還する。  詰めていた息をそっと吐き出した。祖父の跡を継いで石番の任に就いてから五年ほど。その間、何度も何度もあの眼で糾弾されている。睨まれるのは仕方がない、しかしあの眼にはいつまで経っても慣れないなと、南の塔をそっと伺いながら思う。 「――ヨミチ」  また、声がした。双眼鏡は一度降ろし、声の方角を向く。  リークハルトの整った大きな顔が、覗き込むように私を見下ろしている。この近さで見上げると、体を覆う鱗の一枚一枚の形すら識別できた。面立ちは柔らかく、眼は優しげで、眼窩に埋め込まれた大きなサファイアが深い色で煌めいている。本当に、いつ見ても美しいドラゴンだ。四体の中でいっとう美しい、というのは私ではなくて(私もそう思うが)、先代を勤めた祖父の言だ。  リークハルトは飛ぶことができない。五十年前のクーデターで撃墜され、地に落ち翼を失った。あらゆる職人たちの手により形だけは取り繕ったものの、完治したとは言い難い有り様だ。壊れる前を知らない私が見たって、翼のどこが壊れたのかが解る程度には。右翼の付け根に消しようもなく刻まれた凹凸が、職人たちがいかに心を砕いて直そうとしたか、そして直せなかった無念さを、言葉なくとも物語っている。  五十年前の石番は先々代、私の祖母だ。リークハルトが落とされた時、祖母も一緒に亡くなったらしい。  目の前の飛べないドラゴンは、憂う色を湛えて静かに私を見下ろしている。先ほどのオスカリの表情に、彼も何か思うところがあったのだろうか。優しい彼のことだ、私の心配をしてくれたのだろうか。ドラゴンは何かを語ろうとしては薄らとその大きな口を開き、もどかしそうに閉じる動作を繰り返している。人ならざる体から繰り出される人間臭い行為に笑いを堪えながら続きを待ったが、言葉が見つからなかったのか、ドラゴンは仕舞いに諦めるように息を吐いた。温度のない吐息は、私の前髪ばかりを悪戯に揺らした。 「……いや、なんでもない」  リークハルトが目を伏せる。ごう、と夜風が塔の周りで渦巻いて喧しかった。難しい話なんだ、と祖父はよく言う。壊した人間に、それでもまだ番を任せているドラゴンも。飛ばす役目を負っているにも関わらず、飛ばないことを良しとしている私たちも。祖母亡き後に石番の役目を継いだ祖父は、ついに一度もリークハルトに飛ぶことを強要しないまま引退した。当代である私も、まだ一度も、彼に「飛べ」と命じていない。この美しい巨体が夜空を我が物顔で舞う様を見たくないかと言われたら、それは勿論見たいに決まっているのだけれど。  ごちゃごちゃと整理のつかない思考はいったん全部飲み込んだ。リク、と私は私のドラゴンに呼びかける。 「巡回を再開しよう、リク。残党がいるかもしれない」  リークハルトが顔を上げる。月も星も出ていないというのに、目は一体何の明かりを反射しているのか、眩しいほどに光っているから不思議だ。その目に笑いかけながら、片手に提げた双眼鏡をひらりと泳がせる。ゆっくりと首を擡げながら、リクが大きく頷こうとする仕草をした。 『――続いてはラジオネーム・ヤモリさんからのリクエスト。ヤモリさんは今日も仕事かな? いつもお疲れ様、そしてリクエストありがとう。この後は小雨の予報になっているから、外仕事にはお気を付けて。ではリクエスト曲――』  聴き慣れた名前が耳に飛び込んできた。  あ、と声を上げた私につられて、リークハルトも首を振る。鐘楼を支える柱の隣に立て掛けられた、大袈裟なほど大きいラジカセ(これも祖父のお下がりだ)へ小走りに駆け寄り、加減を間違えると引っこ抜けるボタンを慎重に回してボリュームを上げる。ギターが軽快に掻き鳴った。アップテンポなリズムに乗せて、近頃じわじわと人気の男性シンガーが歌い出す。 「またメッセージを送ったのか、『ヤモリ』」 「読んでもらえるのが嬉しくてさあ」  ふんふん、と鼻を鳴らして近寄ってくるリークハルトのために、もう少しだけボリュームを上げる。このドラゴン、五百歳にしては若者趣味に興味津々である。 小気味よく刻まれるテンポは、ふとした拍子に口遊むのにちょうどいい速さ。ギターに乗せて奏でられるのは、なんてことない、ちょっと背伸びしたようなラブソングだ。サビに合わせてアルトの音域が、好きだの愛してるだの、『君が望むなら星だってとってくるよ』だのと歌うような。五百余歳には少し刺激が強い歌詞だろうかと横顔を伺えば、ドラゴンはやはりふんふんと鼻を鳴らし、溢れ出るざらついた音に合わせて首を左右に振っている。私は思わず小さく吹き出す。このドラゴン、五百歳にしては若者趣味である。サファイアの眼からは憂う色が薄れていたので、私は少し安堵した。 「成る程、お前が好きそうな曲調だ」  自分を棚に上げて、したり顔をしたリークハルトが低く呟く。剣のようなしなやかな尾が右へ左へとご機嫌に揺れていることに、たぶんドラゴンは気付いていない。笑いを隠しながら、「でしょう」とだけ答えた。物騒な街の真夜中を、ざらついた音が少しだけ明るくする。巡回は、四分弱のこの曲を聴き終えてからでもいいだろうと、私はドラゴンの尾に合わせて体を横へと揺らした。 『――午前一時をお知らせします。宵っ張り諸君、今日もまだまだ起きているかい? 今夜は珍しく、晴れた夜となりそうだ。眠れぬ夜を過ごす諸君は窓から空を見上げてみるといい、星を数えている間にきっと寝落ちすること請け合いだ。さて、ラジオネーム・鮭茶漬けさんからのメッセージ――』  北の塔のてっぺんから、街灯りの喧しい空を見上げる。ざらざらと聞き取り辛いラジオが伝える通り、今夜は珍しく満天の星空だ。こんな日は鐘楼の下に引きこもりを決め込むのではなく、強風に吹かれてでも空の下で見張りをするのが気持ちいいのだ。柱の影に置いたままのラジオのボリュームは、いつもより少しだけ大きめに設定しておいて。  祖父お手製のバターサンドをぼろぼろと零しながら食べていると、隣で物欲しそうな顔をしていたリークハルトがふと首を擡げた。遂に拗ねたかと慌てて顔を見上げるとどうやらそうではない、サファイアの目は鋭く光り、彼方闇夜を睨んでいる。ラジオばかりに傾いていた私の耳にもようやっと、夜を揺るがす騒音が届く。バターサンドの欠片を飲み込み、双眼鏡を引っ張り出すと立ち上がった。街明かりと星明かりが彩る真夜中に視線を駆け巡らせる。 「ヨミチ、北西だ」 「うん、三台」  リークハルトとほぼ同時、人々の眠りを妨げる不届き者共の姿を捕らえた。夜を這いずる芋虫の数を確認すると、背後に聳える鐘楼に飛びすさる。私の背丈を優に超える鐘の下に潜り込み、鐘から垂れ下がった紐を両手で掴んで闇雲に引きずり下ろす。腹を殴られるような衝動が、地鳴りに近い鐘の音と共に辺りを揺り動かした。  そのまま力任せに、定められた通りのリズムと回数で鐘を鳴らす。A級異常事態を知らせる警音、芋虫の数、おおよその方角と速度。街の人々を安全な場所へ、四方を守るドラゴンを不届き者ののさばる夜空へ導く鐘の音だ。これを鳴らすのも石番の役目のひとつである。両手で抱えてもまだ足りない紐を引っ張り続ける。頭の奥で鳴り響く音が、鐘の音なのか耳鳴りなのか解らなくなってきた。 「ヨミチ」  ぐわん、という反響音を散らす、ひどく澄んだ声が私を呼ぶ。リークハルトは遠くの空を睨んだままだ。視線の端にちらと映したサファイアの眼は、先ほどより険しさを増している。 「増えてきている、十じゃきかないぞ」  鐘楼の紐から手を離し、リークハルトの隣に駆け寄る。面長の顔が示す方角に、双眼鏡など向けずとも解った。夕刻に群れる烏に似た、けれど烏よりももっと大きく、ずっと悪意を有した大群が、闇に紛れることなく夜を我が物顔で疾駆している。一瞬、言葉を失った。ほんとうに、十どころの話ではない、これほど大規模な集団を目にしたのは初めてだ。耳を澄ます必要もなく、芋虫共の騒乱が伝わってくるほど。鐘を鳴らして火照り始めていた背中を、いやに冷たい汗が伝った。  ヨミチ、とまた澄んだ声が私を呼ぶ。私を正気に戻してくれる声だ。まごつきながらも頷き、縺れる足をどうにか動かして、再び鐘の下へと舞い戻る。汗ばんだ手で紐を掴み、無茶苦茶な勢いで引っ張った。今度のそれはS級の警音だ。奏でるのは生まれて初めてで、怪しい手つきがそれでも先ほどより鬼気迫ったリズムを、覚束ないながら叩き鳴らす。逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ。  南の方角から咆哮が上がるのを、ぐらぐらと可笑しくなった耳が微かに捉えた。赤銅色が夜空に踊り上がり、黒い塊に狂ったように突っ込んでいく。次いで東、それから西の塔から、翼を広げたドラゴンが舞い上がるのが見えた。鐘の音。芋虫の悲鳴。ドラゴンの怒号。遥か眼下から人々の喚声。サイレンの絶叫。ただでさえ穏やかならざる街の真夜中はもうめちゃくちゃだ。  ようやっと鐘を鳴らし終える。頭も耳も手も、びりびりと痺れて上手く動かない。鐘楼から転がるように這い出て空を見れば、皮肉なほど綺麗な星空を背景に、熾烈な攻防戦が繰り広げられていた。街を脅かす、黒一色の侵入者たち。さほど速くはないが小賢しく上へ下へと飛び回り、愛しの我が街を荒らしていく。その侵入者たちを退けるべく、宙を駆け巡る三体のドラゴン。星明かりを反射して、赤が、青が、金色が、流れ星のように軌跡を描きながら牙を振るう。どちらが優勢か、なんて愚問だった。所詮、中身は人でしかない芋虫と、今となっては動力源も制作過程も解らない、人智を超えた作り物のドラゴン。芋虫は一匹残らず、ドラゴンの牙にかかって地に落ちることは明白だった。  そう、時間さえあれば。いかんせん、三体に対して数が多すぎる。辛くも牙を逃れた小賢しい芋虫たちが、眼下の街並みを荒らして回っているのが、遠目にもはっきりと見ることができた。ビルをへし折り、屋根を突き破り、道路を陥没させて、傷が増えていく街を嘲笑うように、耳障りな駆動音を響かせる。何匹かが地面に爪を立てながら、北の塔へと近付いてきた。知らず喉が鳴る。間遠くで閃く三体は、大群に夢中でこちらに気付いていない。 「リク、動かないで、ここにいて」  言い置くと、私は塔の隅へと駆け寄った。塔の四方にはそれぞれ一体ずつ、小さな――といっても私の背丈ほどはある――ドラゴンを模したガーゴイルの意匠が施されている。丁度、街を守る四つの塔と同じような塩梅だ。その内の一体に飛びつくと、羽が折りたたまれた背中に手を当てた。 「起きろ!」  どくん、と手のひらに脈が伝わる。折りたたまれていた両翼がゆっくりと広がる。緊急用のガーゴイルが起動した合図だ。リークハルトと異なり意志は持たず、操作は石番自らが行う。見えない糸のような命令系統を操って夜空へ飛び立たせながら、次の角へと走り、同じようにガーゴイルを起動する。計四体、久しく動いていなかった石の体軀を軋ませて、次々空へ舞い上がる。  芋虫はもう、五百メートルと離れていない場所で唸りを上げていた。一台が急上昇し、真っ直ぐに此方目掛けて速度を上げた。塔に突っ込む気だ。歯を食いしばりながら小さなドラゴンを操る。北の塔へ百メートルと迫る前に、小さな爪が芋虫の背後を引っ掻いた。驚いた乗り手はブレーキを踏み締めたらしい、嘶いて止まった芋虫を、別のドラゴンの前脚で砕いた。芋虫は黒煙を上げて火花を散らす。進むことも戻ることもできず、そのまま何か喚きながら落下していった。  次から次へ、黒い影が突撃してくる。見えない糸を必死に操り、四体のドラゴンでそれらをいなす。集団を散らしに向かわせた一体がそのまま黒い群れに取り囲まれ、敢えなく集中砲火を浴びた。石が砕ける絶望的な音が響く。繋がっていた筈の糸がふつんと切れると、ドラゴンの形をしていた石の塊は、そのまま地上へと墜落した。  体が砕ける音は断末魔のようだった。あれは意志なきもの、修理も容易だ。けれど、だからといって砕けていいものでは勿論ない。ごめん、とちかちか瞬く破片に向かって呟く。途端に体から血の気が引いた。呼吸が浅くなる。思考が焦りと恐ろしさで雁字搦めになり始める。砕けたガーゴイルが、言いつけを守って後ろで控えている筈の、白い美しいドラゴンとどうしようもなく重なった。防げないかもしれない。守れないかもしれない。また、リークハルトが、私の白い美しいドラゴンが、粉々に散るかもしれない―― 『――心配のメールありがとう、スタジオは地下にあるから大丈夫だよ。しかしそうだね、外はすごい騒ぎだ。諸君も鐘の音を聞いただろう? 絶対に、外へは出ないように。警邏隊が規制解除するまで、安全な場所で待機すること。さて、気分だけは上げていこうか、ラジオネーム・ヤモリさんからのリクエスト――』  痺れた耳に、びりびりと擦れたラジオが届く。  息継ぎをした。静止してしまっていた思考が、ぎこちない動作で動き出す。ドラゴンを手繰り寄せ、降下させ、噛み付かせる。二匹の芋虫が落ちていった。 『ヤモリさんは今日も仕事かな? お疲れ様、そしてどうか十分気をつけて。いつものリクエストにお応えしよう。どうかこの曲が、このどうしようもない酷い夜を乗り越える力になりますように。それではリクエスト曲――』  ギターが掻き鳴る。途切れがちなスピーカーが軽快なリズムを震わせる。アルトの音域が恋を歌い出す。色とりどりの音が、目の前で弾けては夜に溶ける。  地獄の様相だった夜が、少しだけ明るさを取り戻した。口の端だけ上げて私は笑う。風を蹴散らしながら飛び上がった芋虫の足元を、小さなドラゴンで掬ってやる。芋虫は横転し、そのまま夜の底へと落ちていく。煙臭い風に髪がかき混ぜられるのも構わずに、私は塔から半身を乗り出した。 「きみ、が、望むならっ」  ラジオに合わせてメロディーを刻む。乾いた唇からは滅茶苦茶な音程しか出てこなかったけれど、それでもこの状況をどうにかするには十分だ。塔に体当たりを目論む影を上から叩き落とす。あと四匹。地上近くを蠢いて様子を伺っていた一匹を、ドラゴン二体で挟み撃ちした。あと三匹。上空から急降下してきた騒音を、待機させていた一体で撃墜する。あと二匹。見えない糸をあらん限りの力で引き、前方と後方からほぼ同時に迫ってきた芋虫へ飛ばす。ドラゴンと一緒に、吠えるように歌った。 「星だって、とって、くるよっ」  間一髪。悍ましい車体が塔に触れる前に、ドラゴンの鉤爪が芋虫を引き裂いた。その場で火柱を上げながら、芋虫は奈落へと沈んでいく。爆発音とともに、一時あたりが明るくなった。  糸を手繰り、残った三体を足元へと引き寄せる。傷だらけになった、それでも五体満足の三体を確認する。緊張の糸が一気に緩んだ。立っていられなくなって、ふら、とその場にしゃがみ込む。目を閉じても、視界は興奮気味に明滅し続けていた。ヨミチ、と澄んだ声が少し焦った音をたてて私を呼ぶ。ラジオはまだ、リクエスト曲を鳴らし続けていた。そして遠くではまだ、意志持つドラゴンたちが飛び続けている音がする。  深呼吸して、私は立ち上がった。群れからはぐれた芋虫の何匹かが、また此方に向かって舵を切っている。数分としないうちに此処へ辿りつくだろう。見えない糸を握り直す。ちかちかと鬱陶しい目を乱暴に拭いながら、またドラゴンを飛ばそうと一歩踏み出した。  白い、大きな美しい影が、私の歩みを遮る。  動かないで、と言い置いていた筈のリークハルトが、いつの間にか夜風に吹かれる位置にまで姿を現していた。星に照らされた後ろ姿の麗しさに一瞬目を回し、それから慌てて名前を呼ぶ。リークハルトはサファイアの目で私を一瞥して、しかし止まってはくれなかった。繊細な、けれど強靱な足が歩みを進めていく。リク、と呼びかける私を省みることなく、塔の縁へと至ってしまった。  純白が星空を見上げる。  世界は一時、音を無くして静寂となった。風の音もラジオの音も、遠くの騒乱も何も聞こえない。私は手を伸ばす。大理石で出来たドラゴンの後ろ足に、手のひらでそっと触れる。鱗の一枚一枚まで滑らかに形作られた美しい巨躯を、一度壊されてしまった石の塊を静かに撫でる。 「……飛ぶの?」  なんとなく、返答は想像がついていた。それでも尋ねたのは、否と言って欲しかったからだろうか。無理に飛ばせたいわけではない。また壊れるなんて絶対に嫌だ。私が守る、守ってみせるのに。守れないのだろうか。私では頼りないだろうか。ああ、けれど。 「ああ」  この、大きく白い、世界でいっとう美しいドラゴンが。  夜空を舞う様を、見たいと思っているのは紛れもない事実だ。 「お前の下手くそな歌を聴いていたら、どうにも飛べる気がしてきた」  些か失礼な発言をしながら、ドラゴンは薄らと笑った。そんな気がした。  芋虫の群れが迫っている。先ほどまで染み程度にしか見えなかったというのに、今では趣味の悪い車体の形まで識別できるほどだ。もう幾ばくの猶予もなく、北の塔へ至るだろう。  リークハルトが身を乗り出した。彼と空とを隔てるものは、今や何もない。風はびょうびょうと痛いほど鳴り渡り、一度折れた右翼を微かに靡かせる。一度、本当に一度だけ、サファイアの目が私を見た。それが合図だった。  リークハルトが視界から消える。  塀に飛びつき、身を乗り出して眼下を見た。風に打たれながら、白い巨体が急降下していく――否、落ちているといった方が正しい。翼はまだ開いていない。  芋虫どもが戦き、落ち行く白を目掛けて飛んでいく。歯ぎしりしながら、祈る気持ちで小さくなる白を見詰める。見詰めることしかできなかった。左の皮膜が少しだけ、風を胎んで靡いたように見えた。右はまだ開いていない。  巨体は見る間に落ちていく。地上まであと僅か。脳裏に壊された小さいドラゴンの姿が過った。もしリークハルトが壊れたら、私は後を追って飛び降りてしまうかもしれない。手のひらを握りしめる。爪が皮膚に食い込んだみたいな感触がした。地上まであと数メートル。  翼が開いた。  後ろ足の鉤爪で地面を抉りながら、リークハルトが地表を滑る。右へ、左へと危なっかしく揺れる背中では、確かに翼が――左も、かつて粉々に砕けた右も、風を捕まえて敢然と羽ばたいている。地を這うように飛んでいた巨体は、やがて進路を上へと定めて急上昇した。何軒かの家の屋根を少し掠めて、何本かの電信柱をやむなく倒して、のたつように、抗うように。  星空を背景に、荒々しい白が夜に浮かぶ。  群がり始めた芋虫に、ドラゴンが咆哮を上げた。太く、低く、恐ろしい声は聞いたことのないそれで、雷鳴のようにあたりをびりびりと震わせた。それだけで芋虫の一匹は情けない音を立ててひっくり返り、そのまま地上へ落ちていく。無謀に向かってきた二匹を、研がれた刃のような爪がなんなく屠った。下方から死角を付いてきた一匹は、大きく開いた口に捕食される。不意打ちを狙った一匹は、細く長い尾で一蹴されて終わってしまった。  恐れを成した芋虫どもが、散り散りになって逃げ始める。残念なことだが、この街は侵入者どもに情けをかけるような余裕を持ち合わせていない。平穏にあだなす者には一切の容赦なく、相応の対応をするのがかねてよりの決まりだ。ドラゴンが翼を動かした。一度羽ばたいただけで街一区画飛び越える推進力を持つ翼が風を起こし、のろのろと散逸する芋虫へと躍りかかる。翼を取り戻した姿は、他の三体が飛ぶ様に比べれば確かに少々ぎこちなく、けれどほんのさっきまで翼を失っていたとは思えない形様で、空と風とを欲しいままにしていた。純白の炎が燃え盛るような、烈々たる有り様で。翼を仰ぐごとに、咆雷に近しい轟音を響かせ。目が潰れそうなほど白く眩しい閃光を、夜という夜に弾けさせながら。  最後の芋虫が落ちた。数呼吸とかからなかった。  耳障りな駆動音は遂に途絶える。代わりに向こうから、地をも揺るがす誥びが上がる。やはり粗方の芋虫を沈めたらしい三体のドラゴンが、此方に向かって吠え立てている。その声はしかし、すっかり聴き慣れてしまった糾弾のそれではなく、どうやら歓喜と喝采のようだ。つい昨日まで事あるごとに敵意ある目を向けてきたくせに、全く調子のいいドラゴンたちである。――今、一番調子に乗っているのは他でもない、天高く光る一等星目掛けて、空中で三回転宙返りを決めてみせたリークハルトではあるが。  ぼんやりと滲んで見えるドラゴンの姿を、私は必死に追いかける。白く、大きく、美しい姿だ。飛ぶ様は、思い描いていたものとは随分と違っていたけれど。雪のひとひらのような静けさも、花の散り際のような流麗さも、夢物語のような壮麗さも、全く微塵もない正反対の飛び方だったけれど。それでも、あれは、世界で一番に美しい、私のドラゴンだ。例え飛ぼうと飛ぶまいと一生涯守ってみせると決めていた――もう、その必要もなくなってしまった、私の愛しいドラゴンだ。そのドラゴンが、五十年ぶりに空を取り戻した姿を、自由に夜を駆ける様を、ただただ記憶に残そうと目に焼き付ける。  翼を軽く閉じて、リークハルトが下降する。重力に逆らう大理石の体が、星の光を反射しながら私の目の前で静止した。サファイアの目は火が焼べられたように皓々としていて、それから焦点が合わないみたいにくるくると回っている。三回転も宙返りするからだ。 「星でもとってきてやろうか」  吠えた名残の残る声は低く太く、微かに硝子の鳴るような響きを含んできらきらと瞬いた。喜色を隠しきれていない声色に、一緒に喜びたかったのにどうにも胸が苦しくて仕方が無い。かろうじて「いらないよ」とだけ答えて、私の愛しいドラゴンを迎えるべく、両手をめいっぱい伸ばした。目から塩辛い水が零れ落ちたのは、どうか気のせいということにしておいて欲しい。
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