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四章 過日の呪い
いつものように神社の掃除に行く際、ひよりは道を駆け回る娘二人とすれ違った。五、六歳くらいに見える娘たちは、道端に咲く花を手にし、蝶々を追いかけていた。袖上げをした着物を着て、肩口で切り揃えた髪が揺れる。
無邪気に駆け回る姿を見て、微笑ましくなった。そしてここ半年で様変わりしてしまった暮らしを思い出し、笑顔から能面のような顔になった。
「青葉はわたしの他に友達はいる?」
神社で掃除をしながらそうした話題を振ると、青葉は渋面になった。
「たまに訪ねて来る者ならいるが。あれは友達なのだろうか」
意外に思った。この神社で同年代の子供を青葉の他に見かけたことはなかったが、青葉を訪ねて来る者がいるという。
「そっか、よかった」
「よかったとは」
「友達は大切にしないと駄目だよ」
そう言うと、青葉は心配そうな顔になった。
「前に言っていたな。以前の家の近所にいた友達とは会えなくなった、と」
「憶えててくれたんだ」
嬉しくなって、由良のことを青葉に話した。嫌がらせをしてくる子から護ってくれたこと。普通とは違う自分と一緒に遊んでくれたこと。いつも綺麗な着物を着ていたこと。以前話した内容と被っているかもしれないが、構っていられなかった。
「わたしはどんくさいから世話を焼いてくれたの。お手玉もあやとりも上手で、教えてもらっても由良のようにはできなくて」
話をしているうちに、懐かしさが込み上げてきた。
「最近会っていないけど、大事な友達なの」
瞳が潤みそうになり、上を向いて涙の気配を隠した。
「また会いたいか?」
「これまでの友達とは遊ぶな、って言われてるから」
特に由良とはもう会うな、と釘を刺された。なぜだろう。
あの子はしっかりしていて、病気のお母さんの看病をしていて、もっと幼い頃から家事をやってきた、立派な子なのに。
「この村の子だから、神社に来ることもあるかも。そのときはよろしくね」
「ああ」
ひよりの大事な友達二人が親しくなる日も、来ることがあるのかもしれない。その輪の中に、自分がいないのは寂しいが。
由良にまた会いたかった。だけど牡丹に禁じられている。猪俣の家では、駄目と言われたことが一杯だ。
だけど人はどんな環境にも慣れていく。息苦しい状態が普通になっていく。不自由な状態が当たり前になっていく。
神社で青葉と過ごしているときは、その息苦しさを一時忘れられた。
桜の季節もそろそろ終わり、春先よりも日中の気温が高くなってきた頃のこと。ひよりと常葉は久しぶりに八武崎町まで出てきていた。
「草鹿さん、元気になったようでよかったですね」
「ああ、そうだな」
祠の辺りを歩いていたら、八武崎町にはじめて来たときに知り合った親子と行き会った。草鹿は売られた店から買い戻され、母と子で助け合って暮らしているという。暴力を受けてできた傷がすべて癒えたわけではないだろうが、草鹿の表情はあのときと比べてずっと明るくなっていた。
干渉した結果を見届けられ、ひよりはほっと安心した。そうした話をしながら、二人は町の中心部を歩いていた。
これまでも町には何度か来ているが、人の多さにはいつ来ても圧倒される。そして町まで来ても、一日で行ける範囲には限りがある。少し歩き回った程度では、町の全容など到底把握できなかった。
それでも前とは違う店で食事をとり、行ったことがない通りを歩いて、知っている場所を増やしていくのは楽しかった。
食事処を捜していると、香ばしい匂いと醤油が焼けた匂いが漂ってきた。
「串団子が売っているな。食べて行くか?」
「いえ、この間も食べましたし……」
断ろうとしたが、空腹を主張するように腹が鳴り、ひよりは赤面した。
「お団子なら、一応自分でも作れますし」
「三色の団子ははじめて見たと前に言っていたではないか」
以前ひよりが言ったことをよく憶えているものだ。それともひよりが気に入った食べ物だから、だろうか。
「団子だけではなく軽い食事も出るようだから、ここでよいのではないか」
これ以上ごねても仕方がない。そもそも常葉は人の食べ物を食べる必要はなく、ひよりに付き合ってくれているだけなのだから。
「ではお言葉に甘えて……」
店に入る決心をしたところで、
「もしかして……ひより?」
名前を呼ばれた。振り返ると、そこには長い髪を結い上げて、店で働いている町人らしい着物を着て前掛けをつけた、ひよりと同じ年頃の娘がいた。
記憶の中ではもっと華やかな着物を着ていた娘。七年前より背は高くなり手足はすらりとして、随分大人びた。だがその顔を見て、幼馴染だとすぐにわかった。
「由良」
家の近所に住んでいたかつての友人の姿を認め、ひよりは目を丸くした。驚きはすぐに嬉しさに変わった。
会いたかった。そう伝えて脇目も降らずに駆け寄りたかったが、それより先に発した由良の言葉で、ひよりの足は止まった。
「あなた……どうしてこの町に。神のもとへ嫁いだはずではなかったの!?」
よく通る声に、道行く人々が何事かと振り返った。なんだ、喧嘩か? といった声がどこからか聞こえてくる。
「はい、そうですよ」
返事をすると、由良の表情はさらに凍りついた。
「まさか、幽霊――」
「生きていますけど」
「だって、あの神は守り神などではないわ。荒ぶる神の嫁となった娘は、すなわち生贄。神に頭から喰われるのが定めだと聞いたもの!」
由良の剣幕に、ひよりは絶句した。村でひそかに囁かれていた噂を、ひよりの他にも信じている者がいたらしい。
「実態など知らぬ癖に、勝手な噂を立てるものだな」
溜息混じりに常葉はそう言う。ひよりも過去の自分のことは棚に上げて、内心で頷いた。
「違うそうですよ」
「そちらの方が神だとでもいうの? 神がこんな町中を闊歩しているはずがないじゃない」
常葉は現在、人間からは町人に見えるようにしていたことを思い出した。
「そ、それに――ひよりが私の前に姿を現したということは、私を憎んでいるからで……」
「なぜ憎むんですか。そもそもこうして会うのも随分久しぶりで――」
会えて嬉しい、懐かしい、という話ができるかと思ったが、由良の告白は、そんな話題に帰結させることを赦さなかった。
「私はあなたを呪ったの! だからひよりは神の嫁に選ばれたんでしょう!」
そう言い捨てて、由良は走り去った。
店の前には、唖然としたままのひよりが残された。
「あの娘は知り合いか?」
「え、あ、はい。巣鷹由良という、実家の近所に住んでいた娘です」
「そなたは呪われたのか?」
「さあ……」
一方的に告げられたことに対し、ひよりは首を傾げるしかできなかった。
子供の頃、巣鷹由良の家の近所に住んでいた娘は、見えないなにかが見えるようだった。誰もいない場所に向かって話をしていることがよくあった。
だから近所の子からそれとなく疎外されていた。嫌がらせをされても、娘は鈍いのか、あまり気にしていないようだった。
由良はその娘――小鳥谷ひよりに近づいた。この子は私と同じで普通じゃない、と思ったから。
家の手伝いの合間を縫って、由良とひよりはお手玉やあやとり、おはじきや手毬で遊んだ。
「どっちが何回できたか勝負しましょう」
そう提案しても、ひよりは勝負に乗ることはあまりなかった。
「由良はすごいね」
と、にこにこと笑っていた。
由良の家でも滅多に食べられない、もらいものの甘い菓子を分けてあげたところ、ひよりは目を輝かせた。
「綺麗な着物を沢山持っていて、なんでもできて、甘いものを食べられて。由良はお話に出てくるお姫様みたいだね」
褒められてくすぐったかった。だけどその賞賛は、素直に受け入れることもできなかった。
「私の家よりお金持ちのおうちなんて、いくらでもあるわよ」
「そっか。村長様や薬師様のお屋敷は広くて立派だもんね」
ひよりの言葉に、由良はわずかに表情を曇らせた。
由良の家に父親はいない。生まれたときからそれが普通だったので、いなくても問題はなかった。
だが、以前親戚が集まっていたときに、聞いてしまった。この家の娘が村長の子をなしたから、いい生活ができている、と。
いい生活とはなんだろう。病に倒れた母が、村の薬師から薬をわけてもらって生きながらえていることだろうか。
言葉の意味もわからない頃から、近所に住む大人やその影響を受けた子供から「妾の子」と呼ばれているのは、その代償だろうか。
「由良。あなたのことを口さがなく言う人もいるでしょうけど――人を憎んではいけないわ。暗い想いは相手を呪うだけではなく、自分にも返って来るから」
母はそう言っていた。だったらなぜ、他人を平気で傷つける者がいるのか、悪意をぶつける者がいるのか。そうした人の罪は、自分に返っていくことはないのか。わからなかった。
ひよりは由良の家の事情を知らないのか、そのことを話題に出すことはなかった。だから安心した。
「ほら、そうやってなにもないところをじっと見てるから、みんなに馬鹿にされるのよ」
「あっ、うん。お母さんにも見えないふりをしなさいって言われた」
「で、今日はなにが見えるの?」
「ええとね――」
夜空に浮かぶ火、手足が生えた茶碗、後頭部がやけに大きな老人、目が一つしかない子供。
見えているものを表す言葉を知らないのか、ひよりの説明は荒唐無稽でわけがわからなかった。同時に、村にそんな化け物のような存在がいるはずがない、と由良は思っていた。
だから近所の子に嫌がらせをされ、周囲の大人から煙たがられるのだ。普通と違うものが見えて、それを臆面もなく口にする子は、異端視されて当然なのだから。
ひよりと一緒に過ごしながらも、由良は彼女のことを見下していた。そして疑問も抱いていた。
普通じゃないのになぜ幸せそうなのだろう。両親がいるからか。父親と一緒に住んでいるからか。家族に愛されているからか。馬鹿正直で嘘が吐けない性分なのは、それが許された環境で育ったからだろうか。
もっと不幸になればいいのに、と思っていた。
「ほら、泣かないの。同じ村に住んでるんだから、また会えるわよ」
「う、うん。じゃあね、由良」
名残惜しそうに由良の手を握った手が、離れていく。ひよりは迎えに来た猪俣家の下女とともに、小さくまとめた荷物を手にして去って行った。
ひよりの両親が亡くなり、少女は村長の親戚である猪俣家に引き取られた。ひよりが住む家は遠くなり、気軽に会うことはできなくなった。
思ったことが本当になった。
人を憎んではいけない、呪ってはいけない。母にそう言われていたが、それはそうした力を持っていたからだろうか。
怖くなった。誰かにただの偶然だと言ってもらいたかった。だけど誰にも相談できなかった。ひよりの両親が死んだのは、由良のせいなのだろうか。能天気に笑っていたのを見て、不幸になればいいとは思ったが、そこまでの仕打ちは望んでいなかったのに。
その後、こんな噂を聞いた。猪俣家が親を亡くした娘を引き取ったのは、ひよりが年頃になったら村長と結婚させるためだという。
由良に衝撃が走った。なぜ、と疑問が浮かぶ。わけがわからなかった。世話をしてもらいたいなら、母がいるし、由良がいる。それなのに。
――私たち親子は選ばれなかった。
暗い感情があふれ出て、罪悪感を覆い尽くした。
ひよりの両親が死んだのは、巣鷹家の親子の不幸を肩代わりしたからだ。由良はかつてひよりたち一家が住んでいた家をにらみつけた。
人を呪って不幸にできる力があるのなら、もっと大きな不幸も呼び寄せることができるのではないか。
黄昏時に、村にある神社に向かった。普段村人が立ち寄り、祭りを行う神社ではなく、森の中にある古びた神社だ。誰も足を運ばない神社なら、由良がやることを見咎められることもないだろうと思ったから。
参道を早足で進み、拝殿へ行って鈴を鳴らした。慣れ親しんだ神社の本坪鈴よりも重い音が、がらんがらんと響き渡る。
神に祈った。あの娘が、村長のもとへ行かないように。
「お願いします、お願いしますっ!」
ざあ、と風が木立を揺らす。烏がけたたましい鳴き声を上げて、はばたきの音を残して空へ飛んで行った。
呪いは成就した。それからしばらくして、ひよりは神の嫁に選ばれた。
神の嫁と言われても、由良はピンと来なかった。村長よりも偉いお方の嫁になるのなら、それでよかったのではないか、くらいに思っていた。
ある日の夕食時のこと。
「そう。以前、近所に住んでいた娘が……可哀想にねえ」
母がこの家に来たことがある娘を憐れんだ。
「荒ぶる神に捧げられることが決まったなんて。あと数年の命なのね」
「えっ……」
「だってそうでしょう? 神の嫁は――」
母の説明を聞いて、由良は震えが止まらなかった。神の嫁となる者は生贄であり人柱なのだと、いまになって知った。
ひよりの死など、望んではいなかった。
「でもよかったわ。両親が亡くなって身寄りがない娘なんでしょう。哀しむ人は少ないほうがいいから。それにあの娘は変わった娘だったというし。最後に村の役に立ててよかったわ」
身寄りがない者の命は村のために使うべきとでも言いたげだった。母のそうした考えなど、知りたくもなかった。
ひよりのことを見下しながらも、自分に近いものを感じていた。
由良の家だって父親はいないことになっていて、母親は病を抱えている。母親の病は年々悪くなっていた。
――私がいなくなっても哀しむ人は少ない。神に捧げられていたのは、私だったかもしれない。
呪いではなく、願いをかければよかったのかもしれない。由良はただ、幸せになりたかっただけなのだから。
人を呪わば穴二つ。ひよりが神の嫁になる日まであと二ヶ月という頃、由良の母は病で亡くなった。凍てつくような寒い冬を、母は越えることができなかった。
葬式を挙げて墓を作るのに金がかかったのだから、と母が持っていた着物や由良のために残してくれた財産は、みんな親戚に持って行かれてしまった。
これまで苦労せずに暮らしていけたんだからいいだろう。これからは自分の力で金を稼いで生きて行くことだ。葬式の後、集まった者たちにそう告げられた。
由良は八武崎町の呉服屋で働くことになった。
三廻部村で暮らすよりもいい暮らしができるから。町で伴侶も見つけることだ。そう言い聞かせられた。
働き先は村長が世話をしてくれたらしい。村長の家に引き取られることは、ついぞなかった。
八武崎町での暮らしは、自分がいかに小さく狭い村での暮らしに染まっていたかを実感させられた。多くの人が行き交い、都から沢山のものが運ばれてくる。知らないことを憶えるのに必死で、目まぐるしい日々が押し寄せてきた。
些細なことで悩み、他者を憎むなど、ちっぽけなことなのだと言われているかのように思えた。
忙しくて大変な毎日でも、充実していた。三廻部村にいたらひよりを思い出すから、丁度いいと思っていた。
それなのに――町での生活に慣れてきた頃、ひよりが現れた。
――私に復讐するために。
「どうしたの? ひどい隈だけど」
呉服屋で一緒に働く娘が、由良に心配そうな声をかけてきた。ふくよかな体格のよく気が利く娘で、幼い頃からここで働いていて手際がいい。面倒見がよく、まだ新入りの由良のことをよく気にかけてくれていた。
しかしいまの由良には、その気遣いが少し煩わしかった。
「寝不足なだけよ」
「そう? 顔色も悪いようだけど」
最近頭が重く、ふらふらすると思っていたが、自分で思っている以上に体調が悪いのかもしれない。
「なんだかやつれてきてない? しっかり滋養があるものを食べてる?」
「食べてるわ」
食欲がなくて食べる量が減り、吐いてしまうこともあるけれど。
「覇気のない顔をしていると、お客だけでなく周りのみんなにも舐められるわよ」
「……ご忠告どうも」
大丈夫。あれ以来、ひよりの姿は町で見かけていない。ただ、たびたび夢に出てきて、そのたびに汗びっしょりで目が覚めてしまうだけだ。
「由良、久しぶり。わたしは神に捧げられたの。あなたのせいで神の嫁になって、身体も魂も食べられたんだよ。だから化けて出ちゃった。だって一人は寂しいから。一緒に行こうよ。ほら、あっちの川のほとりに、綺麗な花が沢山――」
子供の頃の姿と口調で、無邪気にひよりは声をかけてくる。笑顔で手を差し伸べて来る。
幽霊なら白い着物を着ているのでは、と思ったら、翌日の夢では白一色の打掛に綿帽子を被った白無垢姿になった。
「見て、綺麗でしょう。由良にも見せたかったな。由良は華やかな着物を沢山持っていたよね。わたしもいまだけはお姫様みたいに見えるかな――」
神に喰われたのなら、最期に着ていたのが花嫁衣装なのだろうか。忘れかけていた罪悪感が頭をもたげた。
――私のせいでひよりは呪われて、神に捧げられて、そして……。
「由良。しっかりしなさい」
声をかけられて我に返ると、由良は店の廊下にへたり込んでいて、店の主人が至近距離から顔を覗き込んでいた。わずかな間だが、意識が飛んでいたらしい。
「え……す、すみません」
「いやなに、由良の体調が悪いというのは聞いていたからな。不調なときは休んだほうがいい。来なさい」
「いえ、大丈夫です」
「そうはいかん。水を飲んで少し横になればよくなるだろう」
主人に先導されて、これまで行ったことがなかった店の奥のほうへと進んで行った。そして狭い部屋に通された。
住み込みではない店で働く者が、帰りが遅くなった際に泊まる部屋だろうか。壁際に布団が畳んで置いてある。
「水を汲んで来るから布団を敷いて待っていなさい」
言われた通りにしようとしたが、布団を持ち上げようとして、腕に力が入らずに膝をついた。本当に休んだほうがいい体調かもしれない、と今更ながらに実感する。
戸が開く音がして、振り返った。湯飲みを入口近くの棚に置く主人が見えた。
「布団はいまから――」
「いや、動けないほどの体調なら、そのほうがいい」
なんのことか聞き返す暇もなかった。主人は距離を詰めてきて、由良の手首をつかみ、覆い被さってきた。
奥のほうにある小部屋なら、どれだけ声を上げても音を立てても、店には届かないのだろうな、と他人事のように思った。
母はなぜ、自分よりずっと年上の村長との間に子供を作ったのかと疑問に思っていた。自分の身に降りかかって、実感した。
女の意思など関係ない。自分より立場が上の者から迫られたら、逆らうことなどできないのだから。
ある日の午後、睡蓮とともに神社の掃除をしてきたひよりは、屋敷の縁側に正座してお茶を飲み、一息ついた。
天翔が近づいて来て、ひよりに鼻先をすり寄せる。頭を撫でるとふわふわした毛並みの感触が返ってきた。
過ごしやすい気候の平穏な日が続いていた。なにかあるとすれば、それはひよりの心持ちのせいであって、神社で暮らしている分には特に問題はない。そのはずだ。
「ひより。最近の調子はどうだ?」
「神社の暮らしにも慣れましたし、天翔がいると癒されますね」
「睡蓮が、このところ奥方は気もそぞろで掃除に集中できていない、と言っていたが」
湯飲みを取り落としそうになった。
「八武崎町で会った娘のことを気にしているのではないか」
「それは、その……そうですね」
否定しようと思ったが、結局頷いていた。常葉にも睡蓮にも、ひよりのことなどお見通しなのだろう。もしかしたら天翔も、この間の由良のことを引きずっているひよりを元気づけようとして、まとわりついているのかもしれない。
「明日、八武崎町へ参ろう」
「ですが、あのとき再会してから数日後に町へ行っても、由良には会えなくて……それに、たびたび神社を留守にするわけにも」
「あの娘に会いたいのだろう?」
「……はい。会って、誤解を解きたいです」
再会したときの、由良の切羽詰まった様子を思い出した。由良はなにか思い違いをしているのかもしれない。
「そもそもなぜ呪いなんて話になったんでしょうか」
「呪いというのは、呪われた相手が自覚せぬ限り発動しないものだ。そなたが呪われたと気に病んでいなかったのならば、あの娘の呪いなど届いていなかったということだろう」
「じゃあ、呪われていないのと同じです」
そう、由良に伝えたかった。
「それから、神様は人を頭から食べたりしないと説明しなければなりませんね」
「確かに人を喰ったことはないが」
縁側から、常葉は外を眺めた。木々の葉が風に吹かれ、どこかから鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「私は荒ぶる神と呼ばれるものだ。村人からしたら、忌むべき存在なのだろう」
常葉の横顔を見上げ、ひよりはふと思った。なぜこれほどまでに優しい神が、荒ぶる神などと言われているのだろう、と。
「ときにそなたは、私のことは忘れていたのに、あの娘のことは憶えていたのか」
「子供の頃の友達というのは一生ものですからね」
「私と会ったのも子供の頃ではないか……」
渋面になる常葉に、ひよりは笑みをこぼした。
「神様のことも憶えていましたよ。ただ、神様とは思わなかっただけで」
青年の姿は子供の姿とは印象が違い、立派で格好いいから気づかなかったのかもしれない。そう思ったが、本人には伝えなかった。
翌日。八武崎町にやって来たひよりと常葉は、食事処が並ぶ通りで巣鷹由良という娘がこの近くに住んでいないか、この辺りの店で働いていないかと聞き込みをした。
知り合いでもない客の名前を知っている者などいるのだろうか、とあまり期待せずにやっていたが、大通りで客の呼び込みをしていた男に話しかけていたところ、
「巣鷹由良?」
と、背後から声が上がった。振り返ると、ふくよかな体格の娘が足を止めてひよりを見ていた。
「あなた、由良の知り合いなの?」
「はい、同じ村に住んでいた者です。あなたは由良のことをご存じなのですか」
「由良とあたしは呉服屋で住み込みで働いてるの」
「そうなんですか!」
ひよりは顔を輝かせた。やっと手掛かりが見つかった。呉服屋を教えてもらって、店が終わる頃合いになれば会えるだろうか。あるいは、同じ店で働くこの娘に引き合わせてもらえるかもしれない。
「だけど――最近、あの娘は様子がおかしくて、今日起きたらいなくなってたわ。誰も行き先を知らないし、店が開く時間になっても戻って来なくて」
「え……」
いまはもう午後だ。黙って店をあとにしたのなら、どこに行ったのか特定することは不可能だ。
「あたしは店が開いてすぐにお使いに行って、いまから戻るところだけど、なんだか今日は店のほうもごたごたしてたし。待遇改善の直談判でもしてるのかしら」
「そ、それで由良は」
「さあねえ。もしかしたら呉服屋が嫌になって故郷に帰ったのかも」
そう言い残して、娘は去って行った。
「八武崎町まで来たら会えると思ったのに、いまは三廻部村に……?」
「いや、どうだろう。ひとまず私は姿を消してあの娘を追い、呉服屋の様子を見て来るが」
「お願いします……」
常葉を見送ってから、ひよりは聞き込みを再開しようと踵を返した。そして人々が行き交う道の向こうに、この間目にした友人の横顔を見つけた。
「……由良? 由良っ」
駆け寄ろうとしたが、大八車が人をかき分けるように突っ込んで来て、ひよりは慌てて道の端にどいた。大八車が走り去ってから由良らしき娘を見たほうに視線をやっても、目当ての人物はいなかった。
見間違えか、あるいは他人の空似だったのだろうか。だがひよりとしては、さっきの人物が由良だと信じたかった。
呉服屋に続いている道のほうを見るが、もう先程の娘も常葉も視界から消えていた。町は人が多く、ひよりが慣れているのはごく一部の地域だけだ。合流場所を決めずに別れたら、再会するのは難しいだろう。
だが常葉なら、天馬に乗れば一気に町を駆け抜けられる。はぐれても見つけてもらえるかもしれない。
そう淡い期待を抱き、ひよりは由良を見かけたほうへと早足で進み出した。
周囲を見渡しながら歩いて行くと、人通りが減っていき、寂れた通りに入った。先程までいた辺りと同じ町中なのが嘘のようにひと気がなくなり、道の左右にある壁や塀も古びて傷んだまま、修繕された様子がない。
こうした場所のほうが、ひよりにとっては馴染みがあった。古い建物、静かな空気。三廻部村の実家があった辺りは、町の賑やかさとは無縁だった。この場所は、子供の頃に慣れ親しんだ雰囲気に近いものがあった。
角を曲がると、髪を結い上げた後ろ姿が目に入った。
「由良」
名前を呼ぶと、由良は振り返った。
「よかった、やっと見つけました」
安堵してひよりは由良に近づこうとしたが、由良は恐怖を顔に浮かべて後ずさった。
「いやっ、来ないで!」
この間と同じだ。だが、拒絶されて終わりにするのはもう嫌だった。
「わたしは由良と話をしに来たんです。わたしは由良を憎んでいないし、呪われてもいません。そのことを伝えに――」
「嘘!」
悲鳴のような声が、ひよりの言葉を遮った。
「ああ、でも、私を殺したいなら――さっさと殺せばいいわ。生きていたってしょうがないのだから」
由良の様子は以前よりも憔悴していた。それに加えて自暴自棄な言動。なにがそこまで彼女を追い詰めたのだろう。
祝言の日が迫ってきた頃のことを思い出した。猪俣の屋敷の離れで、そのときが来るのをただ座して待っていた。
真偽が定かではない神についての伝承が、頭の中で繰り返されていた。神に喰われて死ぬのかもしれないと覚悟しなければならなかった。あと数日で死ぬだろうということを、受け入れるしかなかった。
遠い昔のことのように思えるが、ほんの二ヶ月ほど前のことだ。
常葉が捧げられた人を喰うような神ではなかったから、ひよりはいま、こうして生きている。それだけではなく、常葉のおかげで救われた。
いまの由良には、ひよりにとっての常葉のような存在はいないのかもしれない。それならひよりが手を伸ばせばいい。
自分が誰かを救えるなどと分不相応なことは思っていない。けれど、極限状態にいる人に対してかけてあげたい言葉は、自然に口をついた。
「わたしは由良に生きていてもらいたいです」
「どうして……」
「大事な友達だからです」
何年も会っていなかったとしても、そう断言できた。
「でも、私のせいでひよりは――」
「わたしは由良のせいで神のもとへ嫁いだのではありません。神様に選ばれたんです。由良が罪悪感を覚える必要はないんですよ」
ひよりは微笑んでそう言った。
強張っていた由良の顔から、負の感情が薄れていった。瞬きをしてひよりをまじまじと見つめ、息を吐く。
「そのこと、もっと早く聞きたかったわ」
眉を下げて、由良は力ない笑みを浮かべた。
「相変わらず、普通なら見えない存在に当たり前のように話しかけるのね」
「え……」
常葉のことかとも思ったが、由良は自分の胸に手を当てた。
「思い出したの。私は世を儚んで、川に身を投げた。もうとっくに死んでいるわ」
「そんなっ……」
否定したかった。しかし由良の姿はよく目を凝らさずとも朧気で、村や町で時折目にしていた、人の姿をしたなにかに似た気配で――生きている人間とは違うとわかってしまった。
「そんな顔しないでよ。ひよりがその力を持っていたから、最期に会えた。それでいいじゃない」
「い、嫌です。やっと会えて誤解も解けたのに――」
すがりつくように由良に手を伸ばし、その手が由良の身体をすり抜けて、ひよりは息を呑んだ。
「……う」
駄目だ。ここで泣いてしまったら、お別れも満足にできなくなってしまう。潤んだ瞳で涙をこらえていると、足音が聞こえてきて、後ろから声をかけられた。
「ひより、ここにいたか」
「神様」
勝手に場所を移動したことを謝ろうと思ったが、それより先に常葉は由良のほうを見た。
「それで、そこの娘が捜していた娘か」
「は、はい」
反射的に返事をすると、常葉は一歩前に進み、由良に向き合った。
「巣鷹由良。そなたが行動を起こした結果、店で働く他の娘も被害を受けていたと声を上げ、呉服屋の店主の悪事が白日のもとに曝されたようだな」
「……そう。これから先、同じような被害者が出ないなら、よかったわ」
現在、常葉は他者から町人に見える術をかけていないのか、由良は神妙な顔で常葉の言葉を聞いていた。
「それから、川から引き上げられた身体は、現在怪我の手当てをされているようだな。息を吹き返し、命にかかわるほどの怪我もない。そなたが身体に戻れば目も覚めよう」
「……え?」
続けて告げられたことに、由良は目を丸くした。
ひよりは由良に飛びつかんばかりの勢いで、常葉が言ったことを要約した。
「由良は生きてるんですよ! まだ死んでいません!」
「そ、そうなの……?」
「死霊ではなく生霊だったようだな。身体から抜け出すことも、ままあることだ」
じわじわと言われたことを理解していったのか、由良の表情が歪み、瞳が潤んだ。
「私……生きていていいの?」
「もちろんです!」
こぼれた涙が頬を伝う。だが、向き合う二人の顔には笑顔が浮かんでいた。
「ありがとう。じゃあ、私は身体に戻るわ」
そう言った由良の姿が薄れていく。やがて、朧気だった姿は見えなくなった。
由良を見送り、ひよりは安堵の息を吐いた。
「これでほっと一息ですね」
「生霊だったときの出来事は、夢を見ていたようなもの。目が覚めてもしっかり憶えているかはわからぬが」
「それは残念です……。でも、一度誤解は解けたんですから。また会ったときに話をしたら、なんとかなります」
晴れやかな顔で、ひよりはそう言った。
後日、八武崎町に来たひよりは、常葉と別行動しているときに由良と行き会った。
「あ」
互いに声を上げ、しばし固まる。
生霊だったときに顔に浮かんでいたやつれは、由良からなくなっていた。腕や足の怪我がまだ完治していないようだが、外を出歩ける程度には回復したらしい。
意を決して、ひよりは由良に話しかけた。
「あの、お話があるんです」
ひよりが近づいても、由良は八武崎町で再会した日のように錯乱して騒ぎ立てることはなかった。
「いいわよ。しましょうか、話」
ひと気のない通りに移動して、ひよりはどう切り出そうかと思っていたが、由良が口火を切った。
「私、川に落ちたの。そのときに夢を見て――これまで重かった胸が、軽くなった気がしたわ」
遠くの景色のほうに視線を向けていた由良が、ひよりのほうを振り返った。
「夢に、ひよりとあなたの連れが出てきたの」
包帯を巻いた手をもう片方の手でつかみ、由良は続けた。
「私、過去にやってしまったことでひよりに罪悪感があって、怖かったはずなのに――今度会ったらお礼を言わないといけない気がして」
夢は目覚めると消えてしまうもの。そうだとしても、なんとなく心に残っていることがあったりする。由良はあのときのことを、朧気にだが憶えているのだろうか。完全に忘れていたら、こんな話題を出すことはないだろうから。
「お礼ならもう聞きました」
「……そう。でも、もう一度言うわ。ありがとう」
「どういたしまして」
「そうだわ。ひよりの連れは誰なのか、次に会ったら聞こうと思っていたの」
「わたしの伴侶です」
「……え?」
「三廻部村の神社におわす神様です」
そう伝えると、由良は意外そうに目を細めた。
「……なんだ。あなた、幸せなのね」
「はい」
「私もこれから幸せになってみせるわ。ひよりが羨ましく思うくらいに」
「そうなったら、是非教えてください」
子供の頃、親しかった娘たちは、顔を見合わせて笑い合った。
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