三章 流星

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三章 流星

 青葉と神社を掃除していたら茂みが揺れて、そこから出て来た小動物がいた。ぴんと立った三角形の耳、瞳孔が縦長の大きな目、縞模様の体毛、長いしっぽ。 「猫だ!」  ひよりは目を輝かせて身をかがめた。手招きするように手を振ると、猫はそれをじっと見つめ、ひよりに近づいてきた。  手を伸ばして猫の喉を撫でる。猫は逃げることなく、気持ちよさそうに喉を鳴らした。人に慣れていそうだ。どこかの家で飼われている猫なのだろうか。  頭を撫でると、猫は目を細めた。毛並みの感触が手に心地よい。しっぽを触ってみたいものだが、以前由良にしっぽをつかんだら駄目だと言われた。思いきり握りしめなければ大丈夫だろうか。 「可愛いね」  相好を崩してひよりが猫を堪能していると、青葉もひよりの隣にしゃがみこんだ。 「動物が好きか」 「うん」 「猫の他は」 「犬とか、小鳥とか。毛並みや羽毛が柔らかいのがいいな」  神社に来るまでに通る森でも、たまに動物を見かけることがある。山から下りてきた動物は危険だから、村で見かけても近づいてはいけないと教わってきたが、ムササビや狸はこの森に住んでいるのだろうか。禁止されると余計触りたくなってくる。以前見かけた子狸はこの猫よりも小さかった。 「蛇は?」 「蛇はちょっと怖いかな。あ、でも蛇を祀ってる神社もあるんだよね」 「そうした信仰も、現在では少なくなってきているようだがな」  遠い目をして青葉はそう言った。  それから三日ほど経った日のこと。再び境内で猫と行き会った。この間とは違う黒猫だが、ひよりはその猫から距離を取り、背を向けた。 「もう猫はよいのか?」 「この間、帰った後に叱られちゃったから。着物に動物の毛なんてつけて、って」  ひよりは笑みを浮かべる。 「お世話になっていてご飯を食べさせてもらっているんだから、余計な面倒を持ち込んじゃ、いけないの」  自分に言い聞かせるようにそう口にする。青葉はそれを聞いて、わずかに眉を下げた。  なぜ哀しそうな顔をするのだろう。笑っているのに。泣いても喚いてもいない、誰にも迷惑をかけないようにしているのに。  山に星が降ってきた。たまに夜空を星が横切ることはあるが、今回は三廻部村近くの山に落ちたという。  その翌日、和守谷神社にお参りに来た者がいた。十二歳くらいに見える少年だ。農民の子供よりは上等な生地と仕立ての着物を着ているが、その顔には焦燥が浮かんでいた。  村人から忘れられている神社を探し当ててわざわざ足を運んで来た辺り、切羽詰まっている様子が見て取れた。 「星が降ってきたせいで山が崩れて道が埋まって、親父は山道を越えて行商に行けなくなった。崩れた道の近辺には化け物が出るって話だ。このままじゃ、うちは食っていけない。神様、どうにかしてくれ」  拝殿で手を合わせて熱心に祈り、願いを託し、少年は去って行った。  現実の古びた神社と神域の神社は重なり合っている。人間が神域側を知覚することはないが、神域側から現実の神社の参拝者のことは観測できた。  拝殿を掃除していたひよりは、少年が神に祈る様が目に入った。困っていてもどうにもならない、誰も助けてくれない辛さは、覚えがあった。  ひよりは夕食の席で、昼間見たことを常葉に打ち明けた。 「せっかく神様を頼ってここまで来てくれたんです。どうにかできませんか」  食べていた料理を飲み込んでから、常葉は答えた。 「神というものは人の願いを聞くことはあっても、そうやすやすと叶えてやるものではない」 「ですが」 「そもそも村の内部のことならともかく、山のことなら私の管轄ではない。山の神を頼れ」 「そうですか。星が降ってきたのは柄須賀山なのですけど」 「……そうか」  半月ほど前、神社に来た山の神が治める山だった。 「しかし空閑はあちこちふらふらしているから、こちらから会おうと思って会えるとは――」 「ではひとまず明日、柄須賀山の様子を見てきます」 「そなたがか」 「村の近くにある山ですよ。わたしの足でも十分登っていけます」  やる気を見せるひよりを見つめてから、常葉は嘆息した。 「……ともに行こう。様子を見に行って気が済むというのなら」  天馬に乗って、二人は柄須賀山へと向かった。徒歩だと結構な時間がかかる距離を瞬く間に移動し、星が落ちて来たという地点を目指した。  山道に着地した天馬から降り、目の前の光景を目に焼き付ける。山の上のほうが抉れていて、土砂が崩れて道があったところで小山を作っていた。土や岩、上のほうに生えていた木々がうず高く積まれている。 「道は見事に埋まっていますね」  ひよりは端的に現状を口にした。 「だがこの程度なら人の力で撤去できよう。神に頼るよりも、人手と時間をかければどうとでもなる。雪や大雨で山に登るのが大変な時期でもないのだし」 「それができないから、あの少年は困っているのですよ」 「村八分にでもされているのか」 「その可能性が高いです」  少年の様子を思い出しつつ、ひよりは語る。 「神様ならご存じでしょうが、三廻部村は自給自足が基本で、商売というと近くの町に作物を売りに行くくらいです。遠くの町までわざわざ商いをしに行く商人はごくわずかです」 「そうだろうな」 「外から来た者、流れ着いた者の中には、村に来る前と同様に商売ができると思い、村のやり方に染まらなかった者もいます。ですがそうした方たちは、村に住むようになってからどれだけ時間が経っても、村に受け入れられることはありません」 「耕作地を分けてもらっても耕さず、乞われても手を貸すことなく、自分の商売のことばかりでは、なるべくしてなった結果だろう。それでも村から追い出すようなことはないはずだ」 「そうですね。確か、外から来た者に危害を加えると、災いが起きるという言い伝えがありますから」 「そんな言い伝えがあるのか。……因果関係などないだろうに」  常葉は三廻部村の神なのに、民の間で語り継がれていることにはあまり詳しくないらしい。 「とにかく、神社に願いをかけに来た子の家も、そうした商人かもしれません。村人は山間の道を通って遠くの町まで行く必要などないのですから、手を貸してくれないのかも」  そこまで説明したひよりの目が、動くものを捉えた。茂みが動いたかと思うと、光り輝くなにかが姿を現した。 「えっ……」  ひよりの視線につられて常葉もそちらに視線をやった。  身体についた葉を振り払うような動作をした後、四つ足のなにかが一歩、また一歩とひよりたちのほうへと近づいてきた。 「光る犬……でしょうか」 「小型の狼というよりは犬のようだが」  常葉がひよりを庇うように前に出て、接近してくる犬らしき獣の様子を窺った。狼や狐というよりは、大型の犬に見える。だが、光っている特徴を除いても、村で見かけたことがある犬とは違う姿に見えた。 「もしかして、化け物ってこれでしょうか」  暗くなってきた頃に光り輝く犬を目にしたら、化け物に見えるかもしれない。 「しかし、光る犬の妖怪は私は知らぬが……」  よたよたと歩いていた犬が、不意に均衡を崩して倒れた。そして犬のわりに大きかった身体は、光が薄れていくとともに縮んで子犬ほどの大きさになった。 「た、大変……!」  ひよりは慌てて犬に駆け寄ろうとしたが、その腕を常葉につかまれた。 「待て、不用意に触れるな。安全かどうか調べてから――」 「そんなこと言っている場合じゃありません! 手当しましょう」  つかまれた腕を振り切って、犬に近づいた。そして光が消えた後は白い犬に見えるその存在を、ひよりは躊躇なく抱き上げた。  神社に帰り、犬を抱えて事情を説明したひよりに、睡蓮は呆れ顔になった。 「貴方という人は……どうしてこう、厄介事を持ち込むのですか」 「困ったときはお互い様です」 「その犬が、我らが困っているときになにか手助けしてくれるとは思えませんがね」  そうだとしても、あんな状態の犬を放っておくことなどできなかった。 「まったく……回復したらもとの山に帰すのですよ」 「は、はい」 「なぜ残念そうにしているのですか。光った時点で普通の犬ではなく、妖怪の類でしょう。そんな犬を神社に置いておけるとでも?」 「そうですね……」  厳しいことを言われたものの、いますぐもとの場所に戻して来いとは言われなかった。  犬を屋敷の一室に運んで横たえた。後ろ足が一本、血が滲んで腫れていた。足を引きずっているような歩き方だったのはこの怪我が原因のようだ。  水を含ませた布で傷口の汚れを落とし、添木を当てて割いた布を巻きつけた。他にもあちこち血が滲んでいて処置をしたが、足ほど重い怪我ではないだろう。 「怪我の手当てはこれでいいとして、足を怪我しただけで気絶するでしょうか」 「他の獣に襲われて弱っていたのか、あるいは――星が落ちた場所にいて巻き込まれたか」  土砂とともに山の上部から落ちてきたのなら、気を失うほど消耗していてもおかしくはないが。 「それにしては怪我が軽傷な気がしますけど」  それともひよりが知らないだけで、妖怪はこの程度では死なないのだろうか。砂埃がついた犬の身体を拭きながら、不思議に思った。  妖怪や獣に効くかはわからないが、と前置きして、常葉は薬を取りに行った。それから少しして、入れ違いになるように睡蓮が部屋に入って来た。 「常葉様は」 「薬を取りに行きました」 「そうですか。では」  犬に視線すらやらずに、睡蓮は立ち去ろうとする。姿が見えなくなる前に、ひよりは声をかけた。 「睡蓮さん、もしかして犬は苦手ですか?」 「獣にはいい思い出がありませんね」  神域の神社にも、猫や狸が入り込んで来たことがあったのだろうか。  用事を済ませたひよりが犬の様子を見に行くと、足音に反応したのか、犬は目を覚ました。 「よかった。大丈夫ですか?」  くーん、とか細い鳴き声が上がった。知らない人間を警戒しているのか、耳がぴくぴくと動く。触りたい気持ちを押し殺して、ひよりは立ち上がった。 「起きたならなにか食べさせたほうがいいですよね。そうだ、朝の残りの汁物が」 「犬に葱が入った汁物を食べさせるとか、止めを刺すつもりですか」  部屋の前を通りかかった睡蓮が、辛辣にそう口にした。 「す、すみません。犬を飼ったことがなくて」 「もっとも、この犬が通常の犬と同じような身体の構造かはわかりませんが」 「それでもなにか、犬について知っていることがあったら教えて欲しいです」 「別にそこまで詳しくありませんよ」  素っ気ない物言いながらも、睡蓮はひよりと一緒に台所まで来て、芋や雑穀を用意してくれた。  犬の前に皿を置くと、犬はふんふんとにおいをかぎ、一口食べてからは一気に食べだした。食欲はあるようで、ひよりはほっと一息ついた。 「あれ、でもこの子が妖怪だったら、食べ物を食べても回復することはないんじゃ……」 「なぜそう思うのですか」 「ええと……神様は食べ物が糧にならないと」 「ですからそれは常葉様の場合です。獣の姿の妖怪なら、食べ物を食べてその栄養が血肉となり、疲労を回復させるでしょう。そうでなければ人喰いの妖怪など出てこないと思いませんか?」 「言われてみたらそうですね」  いつぞやの常葉の説明は、神や妖怪全般の話ではなく、常葉やごく一部の存在に該当する話だったらしい。一口に神や妖怪といっても特性は様々、ということだろうか。 「ええ――なにも食べずとも存在していられるのは、正直羨ましいです」  ぽつりと口にされた言葉は、後半はよく聞き取れなかった。 「そういえば、気をつけなければならないことが一つありました。入ってはならないと伝えた蔵に、犬が入らないように注意してください」  そう念を押してから、睡蓮は去って行った。  五日ほど経ち、よく食べてよく寝た犬は順調に回復していった。足の怪我は完治までにまだ時間がかかりそうだが、体力はすっかり戻ったようだ。  しかしそうなると、後ろ足をひきずって屋敷の中を駆け回りだし、戸が開いたままになっていると外へ飛び出して行くこともあった。  さっきまで寝ていたはずの犬が部屋から姿を消し、屋敷の中にもいないので、ひよりは拝殿の近くまで捜しに来た。 「どこにいますかー、怪我が治りきってないのに駆け回ったら治りが遅くなりますよー。えっと……」  呼びかけようとして、言葉に詰まる。あの犬には名前をつけていない。回復したらもといた場所に戻すという約束で、しばらく神社で保護しているに過ぎないのだから。  世話をしてくれるひよりや、この神社の主である常葉のことがわかるのか、犬はひよりたちになついてくれた。  ひよりたちが近づいて来るのがわかると耳を立て、歩いていると足元に身体をすり寄せてくる。膝の上に乗せても嫌がることなく、頭や背中を撫でると気持ちよさそうにしっぽを振った。  うちの子ではないのだからと名前をつけずにいたのに、こうなるともう、別れ難かった。 「ひより。どうかしたか」 「神様」  常葉と行き会い、犬のことを考えていたひよりは顔を上げた。 「犬を捜しに来ました」 「また外に出たのか。触って壊れそうなものには注意したら近づかなくなったが、外を駆け回るのはどうにもならぬようだな」 「犬の本分ですからね」 「犬の姿の妖怪だろうが、習性は似たようなものか」  並んで拝殿へ向かいながら、他愛もない話に花を咲かせた。 「獣の世話をするのは楽しいか」 「はい。でも、怪我が治ったらお別れなんですよね。仲良くなれたのに寂しいです」 「そうか」  拝殿が遠目に見えてきた。狛犬の奥に、同じような姿で犬が座っている。 「あ、いました……が」  近づいて行くと、狛犬の陰になっていた部分に膝を折った者がいたことに気づいた。しゃがみ込んだ睡蓮が犬を見下ろし、頭をそっと撫でていた。犬を向かい合った睡蓮は、普段の貼りつけたような笑みとは違い、自然に目を細めていた。  思わず足を止め、ひよりは常葉と顔を見合わせた。  その直後、睡蓮から不本意そうな声をかけられた。 「……お二人とも、見ていたなら声をかけていただけますか」  立ち上がってひよりたちのほうを向いた睡蓮は、頬を赤く染めていた。  犬を抱えて屋敷に戻りながら、ひよりは犬に声をかけた。 「よかったですね、可愛がってもらえて」  わおん、と返事をするように鳴き声が上がった。 「違います。上下関係をわからせていただけですから」 「じゃあそういうことにしておきます」 「勝手に納得しないでください。蛇が犬の面倒を見るはずがないでしょう」 「蛇……?」 「言ってなかったか。睡蓮は蛇の神使だ」 「そうだったんですか。じゃあ、獣に食べられそうになったことがあったとか……」 「……弱っていた頃に何度かありましたね」  睡蓮は渋面になり、犬を見やった。 「しかしこの犬の大きさでは、人の姿を取っているわたくしを食べようなどとは」 「あ、この犬、倒れたときにこの大きさに縮みましたけど、もとはもっと大きかったですよ」  睡蓮は肩を跳ねさせて、飛びのくようにして犬から距離を取った。 「やはり獣と共存するのは不可能です。早く怪我が治ることを祈っています」 「えー。でも、子犬の姿だと可愛いですよね」 「その見た目で油断させているのですよ。なんたる策士でしょう」  それは外見の愛らしさを認めているようなものではないのか。  ひよりと睡蓮が言い合いをしながら参道を横切ろうとしていたら、上空から鳥が羽ばたくような音がした。ひよりたちが鳥居の上空に視線をやると、背中に羽根を生やした修験者姿の男が滑空してきて、石段に降り立った。 「空閑様!」 「うむ。久しいのう」  背中の羽根を消して鳥居をくぐりながら、空閑が参道を歩いて来た。ひよりたちは客を迎えるために近寄る。  睡蓮は唖然として空閑を見て、我に返ってひよりに続いた。半月ほど前は来訪を知らされていたようだが、今回は先触れを出さずに唐突に来たようだ。  困惑をどうにか取り繕おうとしている睡蓮とは逆に、常葉は露骨に不満顔になった。 「……この間来たばかりだと思ったが」 「常葉ではなく、おぬしの嫁の顔を見に来たのじゃ」  のらりくらりと常葉の歓迎していない態度をやり過ごした空閑は、ひよりをまじまじと見つめた。 「先日とは髪型が違うようだのう。なかなかに可憐じゃ」 「ありがとうございます!」  ひよりは笑顔で頭を下げた。頭の上半分の髪をかんざしでまとめた髪型は、あの日以降やるようになったものだった。 「おや、前のめりに礼を言うとは。……もしやおぬしの夫は、髪型が変わろうがこれまで袖を通したことがない着物を着ようが、まったく反応してくれんのか」 「え、いえ、そういうわけでは」  図星だったがはいそうですと言うわけにもいかず、手を左右に振りながらひよりはそう返した。 「気の毒にのう。心の機微に疎い夫と添い遂げるしかないとは」  笑い混じりにそう言いながら、空閑は勝手知ったる様子で屋敷のほうへと進んで行ってしまった。そのあとを睡蓮が続く。  ひよりは慌てて追いかけようと踵を返したが、後ろから声がかけられた。 「……すまなかった」 「え、なにがですか?」  足を止めて振り返ると、気まずそうな顔をした常葉と目が合った。 「渡した翌日からつけてくれていたのは気づいていた」 「そうだったんですか!」 「意外そうな顔をするか……いや、そうだな。言葉にしないと伝わらないこともあるな」  神にとっては人間の娘へのほどこしなど気に留めるようなことではなく、なにを贈ったのかすら忘れていて、ひよりが身に着けていても気づいていないのかと思っていたが、そうではなかったらしい。ほっとしていると、追撃が来た。 「よく似合っている」  それだけ言って、屋敷のほうへ進んで行ってしまった。 「……」  残されたひよりは、頬が熱くなるのを感じながら、立ち尽くしていた。どうやら不意打ちで褒められると、礼も言えず、態度を取り繕うこともできなくなるらしい。  だが、褒めてくれたのは空閑も同じだ。それなのになぜ、常葉の言葉だけ、心に響いたのだろう。  ひよりが屋敷の客間についた頃には、空閑はもう酒を飲みだしていた。 「すみません、お構いもせず」 「おお、ひより。いきなり来たのだし、構わないでいいぞ」  空閑はそう言うが、睡蓮が台所で酒の肴を準備しているさまがありありと想像できた。自分も行ったほうがいいだろう。 「ではごゆっくり」  犬を部屋に連れて行ってから台所へ向かおうとしたひよりだが、退室する前に空閑に呼び止められた。 「まあ待て。その犬だが、普通の犬ではなさそうじゃな」 「何日か前に柄須賀山に星が降って来ただろう。その土砂が崩れた山道にいた。もとはもっと大きな姿で光っていたが」  常葉がそう説明し、ふと思い出したかのように付け足した。 「そうだ、そもそもこの犬は柄須賀山の妖怪ではないか」 「あ……」  ひよりの鼓動が跳ねた。柄須賀山の神がちょうどいいときにやって来たのだから、怪我が治るのを待つまでもなく、引き取ってもらうのが道理に叶っている。  もともと飼うつもりで拾ったわけではない。怪我が治るまでの間の予定だったのが、少し早くなっただけだ。  睡蓮は獣に苦手意識があるようだし、細かな神具は犬に飛びつかれて壊れたものもあった。そもそも神社に妖怪を置いておくのはどうなのだろう、とも思う。  だが――様々な要員が犬はいないほうがいいと訴えていても、ここで別れるのは辛いものがあった。 「いや、わしの山に光る犬の妖怪などおらぬはずじゃが」 「え……?」 「確かに私も光る犬ははじめて目にしたが。いないと断言できるのか」 「そうだのう。時代とともに、これまで存在しなかったような妖怪が発生し、住み着くこともあるが。そうした新たに出現した妖怪とも違うように思えるのう」  来客に手招きされ、ひよりは犬を抱えて空閑の傍へ行った。山の神は、まじまじと柄須賀山で発見された犬を凝視した。 「ふむ。星が降って来たということは……この犬こそ、その星だったのではないのか?」  空閑の言葉に、ひよりは呆気にとられた。 「星……? 夜空に光り輝き、たまに流れることがあるその星が、この犬なんですか?」  確かに星が降ってきた辺りで見つけたが。弱っていて怪我をしていたわけだが。 「大陸では、流れ星のことを天狗(てんこう)、天の狗というそうじゃ。山に星が落ちてきた話と合わせると、そやつがその天狗なのではないか」 「流れ星、ですか」 「わしらの仲間、この国にいる天狗とは、起源は同じでも別物じゃな。そして天から落ちてきた星だというのなら、柄須賀山の妖怪というのは語弊があるのう」 「そうですね!」  思わず力強く同意してしまった。 「なんじゃ、ひよりはこの犬を気に入っておるのか?」 「え、ええ……ですが」  常葉や空閑ですらよく知らない存在なら、なおさらひよりの手には負えないのではないか。そうした不安が沸き上がってきた。 「普通の犬ではないから、言われたこともなんとなく伝わっておるのかもしれぬのう。怪我をしておるとはいえ、抱えられたまま暴れ出すこともないのなら、ひよりと相性がいいのかもしれぬな」  ひよりは腕の中の犬を見下ろし、目を細めた。 「そうだと嬉しいです」  空閑の評価に反応するように、犬がわおん、と鳴き声を上げた。  犬を部屋で休ませて、台所で作った酒の肴を運んで行く。それから退室するつもりだったが、空閑に引き留められて、ひよりは常葉の隣に腰を下ろした。 「それにしても、久々に星が降って来たものよのう。星が降るのは吉兆とも凶兆とも言われておる」 「どちらなんですか?」 「星を読んだ者の解釈次第じゃ」  随分適当な話だった。 「その昔、この地に星が降ってきた年は、悪霊が暴れまわり、村や町を襲ったものじゃ。人々は多くの犠牲を出しながらも討伐し、封じ込めたという」 「へえ……神様もご存じですか?」 「いや」  興味なさそうな返事をされた。 「そういえば、星が降って来て土砂に埋もれた道に、その悪霊に関係する祠があったのう」 「ええっ、大変じゃないですか。封印が解かれてしまったんじゃ……」 「山道の祠に封じてあったわけではなく、悪霊の力を削ぐ言葉が彫られた石が置かれてあったのじゃ。そしてあれから時は流れ、言葉の意味を知る民もおらぬ」  石が置かれた祠と聞いて、記憶が刺激された。八武崎町にあった祠と同じものだろうか。 「その悪霊の故郷の村は、戦で負けた武士が落ち延びて受け入れられた村でのう。その武士の影響か、村の中でも高い地位にいる者は武士や貴族のように生まれたときに幼名をつけられ、成人になったら名前を改める風習があったそうじゃ」  ところ変われば知らないしきたりや決まりが出て来るというが、この辺りの村でそうした風習があるのは意外だった。  この間の八武崎町の子供たちの言葉ではないが、辺境の村に住む者はみな、武士や貴族にあまりいい印象を持っていないと感じていたからだ。 「その風習を思い出した者たちは、暴走した悪霊の前に掘り起こした妻の骨を突き出し、悪霊の幼名を叫んだ。すると悪霊の動きが鈍くなり、力が弱くなったそうじゃ」 「幼名……それで力が弱くなるんですか?」 「身体をなくした悪霊は、存在が不確かで自分の生前のことすらあやふやになるものじゃ。幼少時の名前を呼ばれて反応したということは、自分は未熟な子供だと認めたも同然。悪霊として猛威を振るっておった力も弱くなろう」 「ちなみにその名前は……」 「わしはよく知らぬが、石には『キ』と記されておったのう」  鬼、飢、棄、忌……悪霊と聞いたせいで、どうにも悪い印象の字が頭に浮かんだ。  酒を飲んで口を湿らせてから、空閑はこう結んだ。 「名前は呪じゃ。まじないであり呪い。よくも悪くも、その存在の形を決め、存在を定義するものなり」  猪俣の家に引き取られたとき、真っ先に小鳥谷の娘と呼ばれた。あなたは罪人の子孫なのだと。名前と血筋でそこまで言われたのだから、それは確かに個人を縛る呪いだった。 「だからおぬしも自分の子供の名はよく考えて決めることじゃな。なんならわしがつけてやってもよいぞ」  さっきまでの含蓄溢れる話から続けられた話題がそれだった。 「名前……子供につけるように、自分の名前も変えられたらいいんですけどね」 「変えたいのなら改名すればよかろう」 「えっ」 「そもそもおぬしはこの間、わしに小鳥谷ひよりと名乗ったが。常葉に嫁入りしたのじゃから、いまはもう小鳥谷ではないのではなかろうか」 「あ」  神である常葉には家の名がないのだから、ついこれまでの癖で、睡蓮や空閑に対し、小鳥谷と名乗っていた。だが嫁に入るならば、人と人との結婚なら、これまでの家の名は名乗らない。  小鳥谷の家の名に、血筋に、縛られる必要は、もうないのかもしれない。そう、思えた。 「……そうですね。わたしは神様の嫁になったのですから、もう小鳥谷ではありません。これからは、ひよりと名乗ります」  潤んだ瞳で微笑み、ひよりはそう口にした。  犬がすっかり回復した頃、商人の子供が再び神社にやって来た。 「山間の道の土砂をどかすのに、他の村人は協力してくれないんだ。俺と親父だけじゃどうにもならねえ。山を迂回しようとしたら、町までどれだけかかることか」  狛犬の影から参拝者の様子を窺うひよりは、足元にまとわりつく犬に静かにするよう合図をして、拝殿の前に佇む少年の言葉に耳を傾ける。 「確かにうちは村のやり方に馴染まなかった。畑を耕すよりも商いの道でやっていこうとしてた親父に問題があったのかもしれない。だからって……!」  必死な訴えがひよりの胸を衝いた。世の中にはどうにもならないことがある。窮地に陥っている者ほど、誰も手を差し伸べてくれることはないと絶望しているものだ。  だから身近な人間ではなく、神頼みをする。しかし神はそう簡単に人の願いなど聞いてはくれない。  あの土砂は神に頼らずとも、人手さえあれば撤去できるという。その人手がないから、あの少年は困っているわけだが。  くぅーん、と犬が小さな鳴き声を上げた。 「……あ」  ふと頭にひらめいたことがあった。ひよりは少年に近づき、神域から現世へと姿を現した。  足音に気づいたのか、少年が振り返った。 「神社の巫女さん……?」  驚いた顔を安心させるように、ひよりは微笑んだ。 「あなたの話が聞こえてきました。その上で、提案があります」 「提案って――」 「滅多に起きない事態が起きるかどうか、賭けを持ち掛けてみましょう」  荒唐無稽な話だと思った。だが、神頼みをするだけよりもいくらかマシに思えて、商人の子供である雀部(ささべ)竹丸(たけまる)は、この辺りの村人が集会をしている寄り合い所に乗り込んだ。  板張りの広い部屋では各々が床に腰を下ろし、祭りの際に誰がどの役目を任されるかの話し合いをしていた。  これまで竹丸の親は、こうした話し合いに最低限しか参加して来なかった。三廻部村の民としてやるべきことをこなしていなかった。だから村人たちからは煙たがられてきていた。そのツケを、いま払っている。  話し合いの場にやってきた招かれざる者に、村人たちは異分子を見る目を向けた。 「なんだ、お前。雀部んとこの子供か」 「親父の代理で来たとか言うなよ。お前の親父はこの村の住人を見下してるじゃねえか」 「村人たちで協力してやることは時間の無駄っつってたな。その言葉、そっくり返してやんよ。雀部の家のやつと話す時間なんざねえ」  親が村人たちに取ってきた態度の結果がこれだ。拒絶の言葉が竹丸に突き刺さる。  星が降ってきた後に、土砂をどかす協力を頼みに村中をまわっても、まったく収穫がなかったことを思い出した。一度村八分にされたらもうどうにもならない、と突きつけられたようで苦しかった。  だが、ここでひるんでは駄目だ。こぶしを握り締めて、竹丸は注目を集める中で口を開いた。 「明日、また星が降って来る。一つや二つじゃなく、沢山だ。その予想が当たったら、山間の道の土砂をどかすのを手伝ってくれ。報酬は払う」  村人たちから笑いが上がった。 「いくつも星が降って来るなんて事態、何十年かに一度だってわかってて言ってんのか」 「それこそ村で長生きしている長老が、子供の頃に見たことがあるかどうかだ」 「そうだとしても。神社の巫女のお告げだ」  意外なことを言われたからか、村人たちはざわめいた。明らかな嘲笑も上がる。  集会の際にまとめ役になっていた男が立ち上がった。竹丸の父と同じくらいの年の、筋骨隆々とした大男だ。 「なら、星が本当に降って来たら、土砂をどかしてやろう。おれらだけでなく、村人総出でな。だが、降って来なかったら」  男は威圧感もあらわな表情を浮かべ、続けた。 「この村では、もう商いはできんのだろう? さっさと出て行け」 「降って来なかったら、そのときは出て行ってやるよ」  どうせこのままだと、一家で首をくくるしかないのだ。竹丸はそう返した。  翌日は雨が降ったりやんだりを繰り返していた。夜になっても星は見えないのではないか、と竹丸は不安になった。  夜になり、雨はやんだ。寄り合い所に集まってきた村人たちは、竹丸を取り囲んで空を見上げていた。 「で、いつどこに星が降るって?」 「ま、まだ夜になったばかりだ」  夜が更けていく。月が位置を変えていき、星が輝くが、星は降って来ない。集まっている村人たちは、近くにいる者同士で頷き合い、結論を出そうとしていた。 「さて、村に貢献する気がない一家がやっといなくなるのか」 「達者でやれよ」 「ま、待ってくれ! まだ夜は――」 「うるせえ! てめえの一家には迷惑してるんだ」 「それともなんだ? 自分から言い出した約束を守れねえとか――」 「――あ」  竹丸の視線の先を追うように村人たちが空を仰ぐと、いくつもの星が流れていくのが見えた。寄り合い所で竹丸と対話していた大男も、目を丸くしていた。 「わあ……」  竹丸は感嘆の声をこぼした。巫女の提案を頭から信じていたわけではなかった。藁にもすがる思いだった。  だがいま、夜空に星が流れている。まるでそれは奇跡のような光景で、自分のような者にも三廻部村の神が味方してくれたのではないかと信じたくなるような――。  直後、どん、と神社がある森のほうから音がした。それと同時に、地面が揺れたかのような衝撃が来た。  静寂の後、村人たちは顔を見合わせた。 「まさか、神社に落ちたんじゃ……」 「神の祟りが……」  山に星が落ちたときは他人事だと思っていた村人たちから、どよめきが上がる。  しかし確かに星は降って来た。巫女のお告げ通りに。竹丸は、賭けに勝ったのだ。  翌日、神社を囲む森に行くと、大穴が開いていた。土砂崩れほどの被害ではないが、そこにあった太い木が倒れている。 「神社に落ちなくてよかった……」 「村に落ちていたらどうなっていたか」 「……今回の星が降って来ることは、雀部の子供が言い出したことだったな?」  話を振られ、森の様子を見に行くのに同行していた竹丸は、慌てて首を左右に振った。 「あ、いや……この近くの神社の巫女さんが言ってたんだ」 「この森の神社に巫女はいないはずだが?」 「神に嫁いだ娘ならいるがな」 「じゃあ、あのとき会ったのは……」  先日のことを思い返し、竹丸は息を呑んだ。神に見初められ、春になったばかりの頃に神に嫁いだという娘の話は、村人と付き合いが浅い竹丸でも噂に聞いていた。あの娘が、そうだったというのか。 「と、とにかく。予想は当たったんだ。土砂をどかすのを手伝ってくれ」 「ちっ、しょうがねえな」  仕方がないとばかりに、大男がそう応じた。  竹丸は村人たちの前に出て、頭を下げた。 「それから――これまでのことは、親に代わって謝る。すまなかった」 「お、おう」 「俺はこの村でやっていきたい。村の一員だと、認めて欲しい」  村人たちはざわめいた。あの親の子供だぞ。いつ考えを変えるかわかったものじゃない。だが、そうした意見を無視して、大男は素っ気ない調子で言った。 「お前のこれからの態度で、考えてやるよ」 「まったく……神社に当たっていたらどうなっていたことか」  神社では、鳥居の前まで来た睡蓮が、境内の外に見える森のほうに視線をやりながら額に青筋を立てていた。一緒に様子を見に来たひよりは、身をすくませるしかなかった。  昨日の夜、商人の子供に話した作戦を実行に移した。  流星の化身である犬は、ひよりが頼んだら承諾するように鳴き声を上げ、大きく膨らんだかのように全身を光らせて、空へと駆け上がった。そして村の上空に星を降らせたのだった。計算外だったのは、神社を囲む森に星が落ちたことだろうか。 「すみません……こんな近辺に落ちるとは思わなくて」 「貴方ではなく、そこの犬に反省してもらいたいのですが」  睡蓮に鋭い視線を向けられ、犬はきゅうん、と鳴き声を上げる。 「柄須賀山の惨状に比べたら、大したことはありませんよ」 「下手をしたら、山が抉れるほどの惨状になっていたかもしれないということですね」  取りなそうとしたら、かえって墓穴を掘ったかもしれない。 「そもそも星が降って来て山道に被害が出たというのに、よく再び星を降らせようなどと思ったものですね」  これは説教が続く流れだろうか。こういうときは適当に受け流しておくに限る、とひよりは睡蓮に背を向けて犬に向き合った。 「とにかく、協力してくれてありがとうございました。怪我も治ったことですし……お別れですね」  ひよりは膝を折って犬と視線を合わせた。つぶらな瞳と見つめ合う。犬を保護してからの出来事が頭に浮かんでは消えた。  餌を差し出したら食べてくれるようになった。足の怪我が治ってきてからは、一緒に境内を散歩した。毛並みがよく、触り心地は最高だった。このまま抱きしめて、離したくなかった。  犬のほうに手を伸ばしたくなるのを必死に堪えていると、常葉から声がかかった。 「あの山の神なら、元々山にいた妖怪でもないのに山に帰されても困る、と言っていたな」 「でも、怪我が治るまでという約束でここに置いていたので……」  背後から咳払いの音が聞こえ、ひよりは振り返った。 「貴方が責任を持って世話をするというなら、ここに置いてもいいですよ」 「本当ですか!?」 「神社に住むのなら、常葉様の神使になっていただきますが」  犬を抱え上げ、ひよりは常葉に向き直って頭を下げた。 「お願いします。この子を召し抱えてください!」 「いいだろう」  神使にする契約を交わす際、常葉はひよりに問いかけた。 「それで、この犬はなんという名だ?」 「え、ええと……」  山の神が言っていた、名前にまつわる話が思い出された。名前は呪。存在を定義するもの。  だがそうしたことを意識せずとも、人は古来より、自分の子供や飼っている動物に名前をつけてきた。幸せになって欲しい、これからも傍にいて欲しいと、祈りや願いを込めて。  天を翔ける流星である犬は、天翔(てんしょう)と名付けられた。
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