一章 嫁入り

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一章 嫁入り

 幼い頃から、他の人には見えないなにかが見えた。 「またあいつ、なにもないところに向かって話しかけてる」 「おかしい子だってうちの親、言ってた」  無邪気に異物を排除しようとする子供たち。相手のほうが悪い、劣っている、という大義名分があればなおさらだ。 「こら、いちいち絡んでくるのやめなさい!」  近所の子供たちに嫌がらせをされても、友達が助けてくれた。 「ありがとう……」 「ひよりは普通じゃないんだから。放っておけないわ」  気遣ってくれているはずの言葉に、なぜか胸が痛んだ。  それが小鳥谷(こずや)小鳥谷ひよりの日常だった。  小さな村の世間は狭く、一度妙な噂が立つと、すぐさま広まってしまう。家の外は少し息苦しかった。  だけど家に帰ると父と母がいた。暮らしは質素だったけれど、家の中はほっとして、家族で過ごす日々は満ち足りていた。  穏やかな毎日がずっと続くのなら、村長の屋敷のような大きな家でなくても、友達の由良(ゆら)のように綺麗な着物を沢山持っていなくても構わなかった。 「七つまでは神のうちって言われているの。幸い、ひよりは幼い時分に天に召されることはなかった。もう人の子なの」  七歳になってしばらくした頃、母にそう言われた。 「この狭い村で、変わり者扱いされ続けて生きていくのは大変よ。だから、見えているとしてもそれを表に出しては駄目」  その助言は、これから先、家族が護ってあげられなくなっても一人でやっていけるように、と言っているかのようだった。  ひよりが八歳になる頃、両親は死んだ。両親を亡くして他に身寄りがない娘は、村長の親戚の家に引き取られることになった。  緑の匂いがする大きな屋敷。村のみなに頼りにされている猪俣(いのまた)の家の一室が、ひよりの新たな住処となった。  当主の妻である牡丹(ぼたん)が、屋敷を取り仕切っていた。多くの下男下女を従え、薬師である夫や見習いの息子を支えていた。  幼い頃、怪我をしたひよりは薬師に診てもらった。そのときに顔を合わせたことがあった牡丹は、引き取ることになった娘に冷たい視線を向けた。 「小鳥谷の娘。あなたになぜ両親の他に身寄りがないか、わかりますか」 「いいえ……」 「ずっと前に小鳥谷の家もあなたの母の家も、ごく一部の者を残して、村を去ったのです」  忌々しそうに、牡丹はそう言った。 「故郷である三廻部(みくるべ)村を捨てたのですよ。その昔、村を去った獅子堂(ししどう)鰐渕(わにぶち)と同罪。あなたはそうした罪人の子孫なのだということを、忘れないように」  質のいい着物をまとい髪を結い上げた、ひよりの母よりも年上の女性は、幼い子供に呪いの言葉を突きつけた。  他の人には見えないものが見える。そのことを知られなければ、異端視されることはないと思っていた。  そうした特性などなくても、この家の者には歓迎されていないのだと、わかってしまった。  猪俣の家に引き取られてから、一年ほど経った。  村外れの森の中にある神社の掃除をするのが、牡丹から仰せつかったひよりの役目だった。いつものように古びた神社の敷地を箒で掃き、落ち葉を集めながら、一緒に掃除をしている男の子と他愛ない話をする。 「あのね、あと何年かして年頃になったら、わたし、村長様と結婚するの」 「……え」  青葉(あおば)は目を丸くさせて唖然とした。普段、あまり表情を崩すことがない男の子のびっくりした顔を見ることができて、牡丹から言い渡されたことを話題に出した甲斐があったと思った。 「村長の伴侶は」 「奥方様はもう何年も前に亡くなっていて、後妻に入るんだって」 「村長はもう結構な年だったはずだが」 「滋養になるものを沢山召し上がっているから長生きだよね」  辺境の村を治める志熊(しぐま)登作(とうさく)。村長のおかげで村の民は生きていける、三廻部村はうまく回っていっている。  ――あなたがこうして生活できているのも、村長の慈悲なのですよ。  牡丹はたびたびそう言った。 「それで、村長様もそろそろ身体に不調が出てきているから、村長様とその家の方のお世話をするんだって」 「世話なら下男下女にさせればよかろう」 「わたしがやらないと意味がないの。恩返しのためだから」 「引き取って世話してやったのだから恩を返せと?」 「うん。それから、お父さんとお母さんの葬式を挙げてもらって、お墓を作ってもらった恩も返さないと」  青葉は箒の柄を握りしめ、眉根を寄せた。 「……死者のために生きている者が犠牲になるなど、なにが恩返しだ」  青葉はたまにおかしなことを言う。牡丹の言葉はあの屋敷では絶対だ。恩は返さなければならない。猪俣の家に世話になった分、村長に還元しなければならない。それが当然の摂理だ。そう教わってきた。  牡丹の言いつけを破ったら罰を受ける。世話をしてもらえなくなる。食事を出されなくなり、冬の土蔵に閉じ込められる。大切にしていたものを燃やされる。いくつか持って来た両親の形見は、屋敷で暮らすうちにだんだん少なくなっていった。  ――親がいないあなたは、一人で生きていくことはできません。  だから逆らってはいけない。あの屋敷のやり方に疑問を持ってはいけない。この村はもっと貧しい生活をしている者ばかりだ。それに比べたら、ひよりは恵まれているのだから。  本来なら、こうして神社の子供に自分のことを話すことすら、牡丹はいい顔をしないだろう。だが、牡丹も猪俣の屋敷の者も、この古びた神社にまでは来なかった。  村の神事や祭りを執り行い、村人が集まる神社は他にある。ひよりも掃除の役目を振られるまでは、村外れにこんな神社がひっそりと建っていることを知らなかった。建物が傷んでいるところがあっても直される気配はなく、村人から忘れられているかのような神社だ。  だが、この場所は猪俣の屋敷にいるよりも心が安らいだ。静謐な空気、緑の匂い。言葉が少ない男の子との交流。  ここで掃除をしている時間は、ひよりにとって息をつけるひと時だった。 「あと、罪滅ぼしのために」 「罪?」  不可解そうに青葉の眉が顰められる。 「実はね」  牡丹から聞かされたこと、村を捨てた者の子孫だということを、青葉に打ち明けた。 「……村長の一族に連なる者が、そのような些細なことを罪だと断じたのか」  ひよりの耳には断片的にしか届かなかった声。だからひよりは、そのとき青葉がなにを考えていたのかわからなかった。  しばらくした頃、屋敷の大人たちが騒然としているのがひよりの耳に入った。猪俣の当主と牡丹は村長の屋敷へ急ぎ、残された下男下女は、廊下ですれ違うとちらちらとひよりに視線を向けた。  その日の夜。帰宅した牡丹に呼ばれ、滅多に顔を合わせたことがなかった猪俣の当主に告げられた。 「小鳥谷ひより。お前はこの村の神に見初められた」  思いも寄らないことで、咄嗟に理解できなかった。 「六年後、神のもとへ嫁ぐことが決まった」  村長の後妻になると言われたときも驚いたが、このときの驚愕はそのときの比ではなかった。  もっとも驚こうがどうしようが、村長や猪俣の当主、そして牡丹に言われたことなら、受け入れるしかないのだが。  辺境の地にいる荒ぶる神は、時折大雨を降らし、川を氾濫させ、飢饉を起こす。三廻部村では神を鎮めるために神社を建てて神を敬い、捧げものをしてきた。  常葉(ときわ)と呼ばれる荒ぶる神を祀っていたのがあの古びた神社――和守谷(わかみや)神社で、神社の管理をしていたのが村長の親戚である猪俣の家だった。  もっとも近年では和守谷神社のことを顧みる村人は少なく、宮司や巫女すら置かれていない有様で、たまに猪俣の屋敷の下男下女が掃除をしていた他は放置されているようなものだった。  その神社の神から、娘を捧げるよう要求があった。名指しされたのは、親を亡くして猪俣の家に引き取られ、神社の掃除をしていた娘だった。  村人たちは娘に同情するとともに、自分の娘や孫ではなくてよかった、と安堵したという。  神のもとへ嫁ぐことが決まってから、ひよりは花嫁修業のために料理や裁縫、行儀作法を叩き込まれることになった。朝から晩まで忙しく立ち回り、神社からは足が遠のいていった。  村長の一族の娘が着るような、華やかな着物を与えられた。髪を伸ばすように言われ、屋敷の下女が丁寧に梳かしてくれた。  ただの村娘を神に捧げるために、みなが躍起になって飾り立てているように思えた。そこにひよりの意思など存在しなかった。  十二歳になった頃から、屋敷の離れがひよりの住む場所となった。  神に捧げるのだから清廉潔白でなければならない。夫以外の異性とのかかわりを禁ずる、とのことだった。これまでもあまり会話をすることがなかった猪俣の当主やその息子とは、それ以降会っていない。  自由に出歩くこともできなくなった。猪俣の家に引き取られてからも、道で会った村人と挨拶や世間話をしていたが、それすらも禁じられた。  両親が生きていた頃が懐かしかった。由良はどんな娘に成長しただろうか。子供の頃、近所に住んでいたひよりのことを憶えてくれているだろうか。  青葉に会いたかった。会いたいはずなのに、神社にいた男の子の面影は一年経ち、二年三年経つうちに薄れていった。声を、姿を忘れていく。 「あなたも子供の頃は、近所の男の子と遊んだでしょう。その子たちのことは、忘れなさい」  牡丹の言葉が頭の中で反響する。神社で男の子と会っていたことは言っていないはずなのに、責められているように思えた。 「あなたが神のもとへ嫁げば、この村は救われるでしょう」  何度も牡丹はそう繰り返した。 「あなたが失敗したら、この村はまた、大雨や川の氾濫、飢饉が――」  ――ああ、これはきっと、失敗したらわたしのせいになる。  また背負う罪が増える。どれだけ罪滅ぼしをしようとしても、赦されることはないのだろう。  神に嫁いだ者がどうなるのか、誰も教えてくれなかった。神域の民となって神に仕える。新たな神を産み落とす。そうした話の他に、神に喰われる、魂を取られる、という噂もあった。  恐ろしかった。猪俣の屋敷から、三廻部村から、この状況から逃げ出したかった。それができるはずなどないと、わかっているのに。  だったらなにも感じなくなればいい。役目をこなすだけ。なにも考えなければ、怖くなどない。  そう必死に自分に言い聞かせた結果、やがて恐怖も苦痛も薄れていった。  白い掛下を白い帯で締め、打掛を羽織る。綿帽子を被ると、顔に影が落ちて視界が狭くなった。手には末広という扇子を持ち、掛下の胸元からは筥迫が覗く。  鏡に映った顔も見下ろした花嫁装束をまとった姿も、自分ではないかのようだった。  雪が溶け、厳しい寒さも和らいできて、春の息吹を感じられるようになってきた頃。ひよりは十五歳になり、神のもとへと嫁ぐ日がやってきた。  駕籠に乗せられ、神社へと運ばれて行く。子供の頃に見かけた花嫁行列はもっと幸せそうな雰囲気があったように思うが、聞こえるのは足音のみで、外の様子も見えない。参列してくれる家族もいない。  神に見初められてからは、屋敷の離れで幽閉されるように暮らしていたので、墓参りをして両親に神のもとへ嫁ぐことを報告することもできなかった。  花嫁行列よりも前もって行うという、花嫁道具を運び入れる道具入れはしないという。ひよりは身一つで神社へと向かう。  神のもとへ嫁いでから、普通に暮らしていく未来などないと言われているかのようだった。  ――神社に着いてからは、神や神社の者に従いなさい。  牡丹からそう言われてきた。  ――余計なことは言わず、命じられたことだけをこなせばいいのです。逃げようなどとは思わないことですよ。  ずっとそうしてきた。それがこれからも続くだけだ。いや、神に喰われて唐突に終わるのかもしれないが。  駕籠が下ろされ、足音が去って行った。運ばれている間に感じていた揺れがなくなり、静かになった。  それからしばらく待っていると、駕籠の外から声をかけられた。 「小鳥谷ひより様ですね」 「……はい」 「開けてよろしいでしょうか」 「どうぞ」  引き戸を開けられた。外はすっかり薄暗くなってきていて、黄昏時から夜になろうとしていた。青い空気が満ちている。どこかから虫や鳥の鳴き声が聞こえる。よく知っているはずの神社を囲む森は、見知らぬ地かのようだった。  駕籠の外にいたのは、ひよりよりも少し年下に見える少年だった。瞳の色素が薄く、瞳孔が縦に長い。猫のような目だ。狩衣をまとい、黒髪を肩口で切り揃えている。青い空気の中だからだろうか、髪が若干緑がかって見えた。 「……あなたが神様ですか」 「いいえ。常葉様は本殿でお待ちです」  穏やかな笑みとともに、そう答えられた。牡丹が客に対して浮かべる笑みのようだと思った。 「祝言を行います。こちらへ」  駕籠から出て、自分と同じくらいの背丈の少年について行く。石段を上がり、子供の頃に何度も掃除をするために通った神社の鳥居をくぐる。境内の参道を進んで行く。  風が神社を囲む森の葉をざわめかせ、空中を舞う蛍のような光が周囲を照らしていた。こんな時間に神社に来たことはなかったが、夜はこんな景色だったのか、と息を呑んだ。  心なしか、古びてろくに手入れされていない様子だった建物も、綺麗に整備されているように見えた。祝言を行うのだからと、念入りに掃除され整えられたのだろうか。  それともひよりがよく知る神社とは違う領域に、足を踏み入れたのかもしれない。ここは子供の頃に出入りしていた神社と同じようで異なる地、神が住まう場所だ。そう実感するには十分な光景が、視界に広がっていた。  本殿に入り、お辞儀をして顔を上げると、綿帽子の下から白い袍を着た青年が見えた。白い髪を一つに結っている。金色の瞳がひよりを捉えた。  整った容姿、立派な装束。神々しいと表現するに相応しい、人間離れした雰囲気。だが、どこか懐かしい感覚が込み上げてきた。 「……あの」 「それではこれより、常葉様と小鳥谷ひより様の祝言を行います」  少年の言葉で我に返った。そうだ、質問など赦されてはいないのだった。  宮司のような身なりの少年が大幣を振るって二人の穢れを祓い、神社に祀られた神と村から来た娘が結婚したことが宣言される。三つの盃で御神酒を交わし合い、夫婦の契りを結ぶ。披露する者が存在しない祝言は、粛々と執り行われた。  盃に口をつける直前、わずかに躊躇した。異界のものを口にするということは、異界の存在になるということ。神が住む神域の食べ物も同様だ。もう村には戻れない。もとより戻る家も居場所も、ひよりにはなかったが。  婚礼の儀礼の後、膳に乗せられた料理が運ばれきて、少年は一礼してから去って行った。  常葉が食事をし出したので、ひよりも箸を手にして料理を口に運ぶ。猪俣の屋敷にいたときでさえ滅多に食べられなかったような豪勢な料理だが、この状況で味などわかるはずもなかった。  牡丹に言いつけられたことが頭の中で反復される。  ――あなたのことは、どこに出しても恥ずかしくない娘となるよう育ててきました。くれぐれも猪俣の家に泥を塗るようなことはしないように。  村で行う祝言の後のことは教えられてきた。しかしそれは神との婚姻でも当てはまるものなのか。  相手は神だ。人としての当たり前が通じるはずがない。取って喰われるのが正解なのか。ひよりがなにか粗相をしたら、大雨と洪水と飢饉が起きて三廻部村は滅びるのか。  鼓動の音が絶え間なく響く。箸が滑り、煮物が膳の上で跳ねて床に転がっていった。ひよりは血の気が引いた。 「す、すみません……!」  床に手をつき、頭を下げる。ああ、これでもう駄目だ。この六年の花嫁修業は無駄だった。終わりを覚悟し、そのときが来るのを待った。しかしいつまで待っても取って喰われることはなく、 「そう緊張せずともよい」  と声をかけられた。  恐る恐る顔を上げると、常葉は気分を損ねた様子もなく、汁物をすすっていた。 「そなたが引き取られた家では、失敗したら土下座するよう教えられたのか?」 「土下座で済まなければ自害して詫びろと」 「そうか」  淡々とした返事だが、常葉の眉が顰められた。 「それにしても、よくもまあていのいい人柱にされたものだな」 「人柱……」 「村のために神のもとへ嫁がされるなど、生贄以外のなにがある」  この六年間、頭の中から追い出そうとしていたことを、娘を要求してきた神はあっさりと口した。  だが人柱だろうが生贄だろうが、構わなかった。それがひよりの役目なのだから。 「嫁いできて祝言を行った以上、今日からわたしは神様の嫁です。ふつつかものですが、精一杯お仕えさせていただきます。なんなりとご命令を」  常葉のほうを向いて正座して三つ指を揃え、そう告げた。だが、相手からの反応は芳しいものではなかった。顔を上げると、呆れたような視線を向けられていた。 「従者を寄越せと要求したつもりなどないし、そなたに命じることなどない」 「ですが――嫁として、妻としてやるべきことが」 「子供を作らねばならぬ義務などないし、神社のことも神使がやってくれる」  ひよりが例に挙げようとしたことを、先回りして打ち消されてしまった。 「神使……?」 「神の眷属だ」  先程の祝言で、本来なら神社の宮司がやるようなことを一手に引き受けていた少年が頭に浮かんだ。 「……それではわたしはなにをすれば?」 「対外的に妻として振る舞ってくれたら、それ以外はなにをしようと自由だ」  自由とはなんだろう。これまでずっと束縛された生活を送ってきた。屋敷の離れで暮らしていたときは、外に出たい、友達と会いたいと思っていたが、そんな要求すらどこかへ行ってしまっていた。  友達。そうだ、この神社には友達がいたはず――。 「それとも、そなたに犠牲を強いた三廻部村に復讐でもするか?」 「そんな……いけません」 「なぜ?」  荒ぶる神が、じっと見つめてくる。金色の瞳はひよりの本心を推し量っているかのようだった。 「わたしが神様に嫁ぐことで村が救われると、ずっと言われてきたんです」 「村長もそなたを引き取った家の者も、そなたがどうなろうが構わないという想いで送り出したのだろう。村の住人にとって、そなたはもはや死んだも同然。気を遣う必要がどこにある?」  わからなかった。牡丹の言うことに異を唱えるなど、あってはならなかったから。村長が決めたことを疑うなど、してはいけなかったのだから。  ひよりが答えられずにいると、常葉は溜息を吐き出した。失望されたのだろうか。  だが常葉の前で失敗をしても、彼が望む答えを口にできなくても、叱責されることも取って喰われることもなかった。それがわかっただけでも成果はあったかもしれない。  食べた気がまるでしなかった食事が終わり、灯りを手にした少年の案内で本殿から東側へ移動した。木々が生えている場所を抜けると、敷地の奥まった場所にひっそりと屋敷が建っていた。  子供の頃に神社を掃除した際、境内を隅々まで行き来したと思ったが、見覚えのない建物だった。屋敷の中を進んだ先に、ひよりが寝起きするための部屋があった。  文机の上には和紙と筆と墨。壁際に箪笥や行李。障子は張り替えたばかりのように真っ白で、部屋の奥には既に布団が敷かれている。  飾り気はないが必要なものが揃っている部屋を見て、祝言が終わっても生きていること、これからここで生活していくことをじわじわと実感していった。  祝言のために着ていた白一色の着物を脱いで寝巻に着替え、やっと一息ついた。  荒ぶる神を鎮めるために、神に嫁いだはずだった。だが、神の嫁としての振る舞いは期待されていないようだ。なにをしようと自由だと言われたものの、これからどうしたらいいのだろう。  考え事に沈みながらしばらく布団の前で正座して待機していたが、夜に常葉が部屋を訪ねて来ることはなかった。部屋でじっとしていると、真冬よりは温かくなってきたとはいえ、夜の寒さが身に沁みて来る。  緊張の糸が切れて疲れが出たひよりは布団に潜り込み、やがて眠りに落ちていった。  翌日。早起きしたひよりは着物の袖をたすき掛けにし、台所へ行った。井戸の水を汲み、米を炊き、出汁を取り、野菜を切り、料理を作る。  膳に椀や皿を並べていると、台所に顔を出して声をかける者がいた。 「なにをしている」  常葉だ。相変わらず神々しい姿だが、白い狩衣に差袴をまとっていて、祝言のときよりも普段使いの服装に見えた。 「おはようございます、神様。朝食を作っています」 「そうか、だが」  料理すらも神使の役目だと言われそうな気配を感じ、ひよりは矢継ぎ早に続けた。 「ここに嫁いできた以上、あなたのお世話をします」  なにか言わなければ。役立たずだと思われたら、ここにいる意味がなくなってしまう。 「花嫁修業ならしてきました。料理も掃除も洗濯も、なんなりとお任せください。それに、最初は村長様のお世話をする予定だったんですから」  そう言うひよりに、常葉はわずかに眉を顰めた。 「……用意してくれたというなら頂こうか」 「はい、いますぐ運びます」  広々とした居間に膳を運び、二人は朝食を食べだした。しばし無言で食べ物を口に運んでいたが、ふとひよりの頭に過ぎったことがあった。 「そういえば、昨日案内してくれた方は……」 「睡蓮(すいれん)のことなら気にすることはない」  神と神に仕える者との差を感じた。 「……そもそもわたしも、神様と食事をご一緒できる身分ではないのでは」 「そなたは私の嫁だろう」  昨日の夜に嫁いできたばかりで、嫁らしいことなどまだしていない娘に、常葉はそう言い切った。 「それよりも言っておきたいことがある」 「は、はい。なんでしょう」  神の世界や神社で暮らす上での決まり事を教えられるのか、とひよりは居住まいを正したが、常葉の話は予想とは異なった。 「そなたは三廻部村の大人の都合に振り回されてきた。もっと広い世界を見て、村の住人とは別の者とかかわったほうがいい」 「広い世界……つまり神様がいらっしゃる神域や、妖怪が住まう異界に詳しくなればいいんですね」 「いや、そうではなく」  ひよりのほうを一瞥してから、常葉は汁物をすすった。 「……説明するよりも実行に移したほうが早いか」  食事を終えた二人は、神社の鳥居の前まで出て来た。常葉はどこからか連れてきた馬の手綱を引いていた。白い鬣と体毛の立派な馬だ。その馬の鞍に跨った常葉は、ひよりに手を差し伸べてきた。  息を呑んだひよりがその手を取ると、馬の背に引き上げられた。一気に視界が高くなる。だがそれよりもさらに、ふわりと身体が浮き上がった。常葉とひよりを背に乗せた馬が、鳥居をくぐって空へと駆けだした。 「と、飛んだ……!」  すぐ前にある常葉の背に、ひよりはしがみついた。 「この天馬も神使だ。風の力で空を駆ける」  説明が耳に入って抜けていく。神社や森、村がみるみるうちに小さくなっていく。神に取って喰われる覚悟はしていたはずだったが、落ちたら死ぬ状況を突きつけられると恐怖が込み上げてきた。  久方ぶりに怖いなどと感じたように思う。いつからその感情を忘れていたのだろう。 「そ、それで行き先は……?」  遠方にいる妖怪の住処へ行くのか、はたまた天の上におわす神に会いに行くのかと思ったが、答えはまったく違うものだった。 「八武崎(やぶさき)町だ」  三廻部村から一番近い町の名を、常葉は口にした。  近いと言っても三廻部村は辺境の地にある村で、八武崎町まで徒歩で一日かかる距離だ。馬に乗れない村の住人が気軽に行ける場所ではなく、六年ほど幽閉されるように暮らしていたひよりが行ったことがあるはずがなかった。 「ひより」 「は、はい」 「景色が見えるか?」  恐怖を覚えて思わず目を閉じていたことに気づき、そっと開いた。 「あ……」  眼下の風景が目に飛び込んできた。森、山、川。こうして見ると、人が寄り集まって暮らしている村など、ちっぽけな存在かのようだった。  視線を上げると、青い空と白い雲が視界に広がっていた。ここ数年ほど、空を見上げることも忘れていたことを思い出した。 「綺麗……」 「そうか」  髪を風になびかせながらつぶやいた言葉に、返事があった。  そういえば、と昨日の祝言のことが頭を過ぎった。もう村には戻れないと思った。猪俣の家の離れで六年暮らしたように、今度は神社から出ることなく、ずっと同じ毎日を繰り返すのかと思った。  だが神域である神社からは常葉が出してくれた。そして、三廻部村から飛び出してさらに遠くの町へと行こうとしている。  恐怖や不安は薄れてきて、期待と高揚で胸が高鳴った。  ふと思った。勝手に離れの外に出てはならない、母屋へ行ってはいけないと牡丹に言われていたが、牢屋に閉じ込められていたわけではない。意思と実行力さえあれば、出て行くこともできたのかもしれない、と。  八武崎町は賑やかな町だった。民家と田畑と小さな店しかない三廻部村とはまるで違う。町の入り口からでも多くの建物や店が建ち並び、何人もの人が行き交っているのが見えた。  村にいた頃とは視界に入ってくる物量が違い過ぎて、くらくらした。 「すごい人ですね……」 「そうだな」 「神様はこの町にいらしたことは――」  思わず会話を継続しそうになり、ひよりは口を押えた。 「どうかしたか?」 「いえ、その、神様と話をしていたら、わたしは誰もいない場所に向かって話しかけているということに……」  子供の頃、妖怪や幽霊などの人ならざりし者たちにそうと知らずに話しかけてしまい、近所の子供たちに気味悪がられたことを思い出した。だから話を打ち切って、周囲を見渡しつつ、小声で理由を説明したのだが。 「心配せずともよい。いまの私は、人の目からは町人に見えるようにしてある」 「そうなんですか?」 「うむ」 「でも、白い髪の若い方はあまりいらっしゃらないんじゃ……」 「姿も服装も、他者からは普通の人間のように見えているだろう」  それなら安心だ、とひよりは胸を撫で下ろした。 「知らない町を一人で歩かせるのは心配だからな」  もしかして、常葉がわざわざ人の目に映る姿を取っているのは、ひよりのためなのだろうか。  まさか、と打ち消す。村から出たことがない世間知らずを一人で行動させるべきではない、と思っただけだろう。常葉からしたら、手がかかる子供のようなものだ。だから、ただそれだけ。そう、自分に言い聞かせた。 「人に見えているなら、神様と呼ぶと不自然ですね」 「そうだな。なんと呼ぶ?」 「そうですね……」  常葉様、でいいのだろうか。だが、この町に三廻部村の神の名を知っている者がいるかもしれない。 「主様とか――あ、旦那様でよろしいでしょうか」 「旦那様……」 「はっ、神様に対して不敬でしょうか」 「不敬など気にしないでいいが」  そこまで言ってから無言で歩みを進められ、ひよりは置いて行かれないように早足でついて行った。 「そう呼びたいなら呼べばいい」  しばらく進んでから、そんな答えがあった。  町の入り口付近は遠方から訪れた者が泊まる宿や茶屋が多かったが、そこから進んで行くと店が減り、ひっそりとした道が伸びていた。  ひと気がなくなった道を進んで行くと、柱に囲まれ切妻屋根が備えられた祠が目に入った。  紙垂が吊るされた奥に、ひよりの腰ほどまである平べったい石が鎮座していた。紙垂の合間から、石に末広がりの文字らしきものが書かれているのが見えた。 「『八』と書かれているのでしょうか」 「経年で埋まってきているが、右上に点があるな」 「それでは、『バ』……?」  一文字だけ記されていても、なにを表しているのかよくわからなかった。しかしこうして町の中にある以上、なにか由来やご利益があるのだろうか。  そう思っていたら、通りかかった女性が祠に近づき、膝をついて手を合わせた。目を閉じて祈る女性のつぶやきが聞こえてくる。 「どうか、あの子を返してください……」  真剣に祈っていた女性が立ち上がって去ろうとした際、持っていた風呂敷の結び目がほどけて、荷物が散らばった。  ひよりは近くに転がってきた野菜を拾い、女性に差し出した。 「どうぞ」 「ありがとう。ごめんなさいね」  荷物を受け取ってそそくさと立ち去ろうとしている女性に、ひよりは勇気を出して声をかけた。 「あ、あの。さっきのお祈りが聞こえて……なにかあったんですか?」 「あら、恥ずかしい。他人様に聞かせるつもりは……」  余所行き用の愛想のよさでそう答えかけた女性の顔が、不意に曇った。 「子供がいなくなってしまったの。人攫いに遭ったと夫は言っていたけれど……もしかしたら人買いに売られてしまったのかも」 「そうなんですか……」 「ずっと捜しているのだけれど、この町のすべてを捜すことは不可能だから、どうしたらいいのか――いえ、あなたに言っても仕方がないことよね」  憂い顔の女性と別れてから、ひよりは高揚した気分が沈んでいくのを感じた。  賑やかな町にも他者を傷つける者は存在し、哀しい想いをしても必死に耐えるしかない弱者がいる。それを目の当たりにしてしまった。 「どうかしたか」 「いえ」  ひよりは笑顔を浮かべて首を振った。  町の入り口付近を見て回った後、ひと気のない場所で天馬の神使を呼び出して、町の中心部へ向かった。  天馬に乗って移動している間は、常葉や天馬だけでなく、ひよりも普通の人間には見えないようにしているという。八武崎町に空を飛ぶ馬が現れたという噂が立つ心配はしなくていいようだ。  徒歩だと半刻ほどかかりそうな距離を瞬く間に移動し、中心部にある建物の裏手に降り立った。天馬から降りて、大通りのほうへと歩いて行く。 「この辺りになにか用があるんですか?」 「そなたは身一つで嫁入りしただろう。着物や履物などが入用なのではないか」 「い、いえ。部屋の行李に着物が入っていましたし」  白い小袖に緋袴といった巫女装束の他に、普段使いできる着物や浴衣が入っていた。ひとまず着るものに困ることはなさそうだと安堵したものだ。 「道具の類は」 「神社にあるものを使わせていただきます」 「白粉や紅は」 「神様はそうした俗なものは嫌うだろうと猪俣の家で教えられましたが……お化粧したほうがいいでしょうか」 「……いや、そなたが必要でなければ無理強いはせぬが」  常葉は困ったように嘆息した。 「ここまで足を延ばしてきたのだから、必要なものは入手して帰ればいいと思ったのだが。そなたは無欲なのだな」 「いえ、必要なものが咄嗟に思いつかないだけで……それにお金も持っていませんし」  嫁入りするのに金の類は持たされていなかった。神に取って喰われるのかもしれない、と噂されていたのだから当然だ。  ふと思った。目の前の神は、人の間でやり取りされている金銭を持っているのだろうか。 「こうしたときのために金子を溜めていたのだが」 「どうやって……」  三廻部村には神社に金を納める風習などなかったはずだ。そもそも和守谷神社は村人から忘れられ、放置された神社ではなかったか。 「知り合いの神が各地を渡り歩くことを趣味としていて、たまに各地の土産を携えてやって来る。人の世で流通している金が入用のときに売ればいい、と教えられたのを思い出し、そなたが嫁いで来るまでに町で換金しておいた」  神のわりに地味な手段で金を得ていたようだ。 「だから金の心配はせずともよい」 「それは頼もしいです」  金の心配というよりも、本当に欲しいものがないだけなのだが。  猪俣の屋敷にいたときは神に嫁ぐ娘なのだからと、高価なもの高品質なものを与えられたことはあったが、自分からなにかを欲したことはなかった。牡丹になにか言えば、我がままだ、甘えだ、欲深い、と叱責されて終わりだろうと諦めていたから。  だから欲しいものがあったのかもしれないが、忘れてしまった。いまも特に思いつかない。それで構わない。  ただ、常葉が残念そうな顔をしているのを見るのは、わずかに胸が痛んだ。  ひとまず手近な店に入り、反物を眺めた。店内には色とりどりの反物が並んでいた。 「どれも綺麗ですね」 「気に入ったものはあったか?」 「……わたしには分不相応ですよ。与えられた部屋に着物があったので、それで十分です」 「そうか」  ふと、反物が並んだ店の中心部の隅に、帯締め紐や髪紐、かんざしなどの小物類が置かれているのが目に留まった。  子供の頃は、親に与えられた着物をなにも疑問に思わずに着ていた。猪俣の家に引き取られて、神の嫁に選ばれてからは、牡丹が高価な着物や装具を選び、それを身に着けていた。  こうした小物一つすら、自分で選んだことはなかったかもしれない。  陳列された装具をじっと見つめていると、店主に声をかけられた。 「娘さん、どれにしようか迷っているならつけてみるといい」  ひよりは肩を跳ねさせた。心臓をつかまれたような感覚、罪悪感のようなものが込み上げてきた。 「い、いえ。すみません」  首を振り、店から出て行く。  ――必要なものは与えているのに、それ以上を欲しがるのは我がままですよ。慎みを持ちなさい。  以前、牡丹に言われた言葉が頭の中で反響した。ここは猪俣の屋敷ではないのに。  店を出てからさらに歩き、同行者を置いてきてしまったことに気づいて振り返ると、道の向こうから常葉が追いかけて来るのが見えた。 「どうかしたのか」 「いいえ。勝手に出てきてしまい、申し訳ありませんでした」 「そうか。なら次は――」 「あ、あの。町のお店はどうにも不慣れで……少し早いですが、先にお昼にしませんか?」 「見知らぬ町を歩き回って疲れたか。ではそうしよう」  ひよりの提案はあっさりと受け入れられた。  周辺の店を見渡しながら歩いていたひよりは、重そうな荷物をいくつも抱えた男の子が目に入った。  駕籠を背負い、両手に包みを携えている。ふらふらとした足取りで進む姿をなんとはなしに見ていたら、少年は足を取られて躓いた。  けたたましい音が鳴り響いた。荷物は鍋や包丁といった金物や、食器の類だったらしい。幸い割れてはいないようだが、散らばった小さな木箱から包丁や皿が零れ落ちていた。  ひよりは少年に近づいて、声をかけた。 「大丈夫ですか?」 「は、はい……すみません」  弱々しい返事をされた。皿を木箱に戻して荷物にまとめるのを手伝っていると、少年の着物から伸びた腕に、あざや切り傷があることに気づいた。 「その怪我……」 「な、なんでもないです」  袖を引き下げて怪我を隠された。 「この重さのものを子供一人で持っていくのは大変ですよ。手伝います」 「い、いえ。結構です」 「遠慮せずに」 「遠慮じゃありません。……誰かに手伝わせたことを知られたら――」 「え?」 「いえ、これを運ぶのが役目なので。拾ってくれてありがとうございました」  若干無理やり会話を打ち切り、少年はお辞儀をして去って行った。 「村の人たちは、町の子供は畑仕事の手伝いなんてしていない軟弱者だ、と言っていましたが。町の子も大変そうですね」  小さな後ろ姿が群衆の中に消えてから、ひよりはそうつぶやいた。 「『誰かに手伝わせたことを知られたらなにをされるか』。さっきの少年は、そうした独り言を口にしていたな」 「じゃあ、袖から覗いていた怪我は……」 「もっとも、町の住人ですらない我らが口を出したところで、どうにかなるものではないのだろう」  我関せずの姿勢を示されてしまった。ここは三廻部村ではなく、常葉の管轄ではないのかもしれないが。 「そう……ですね」  やはり神は困っている人を助けてなどくれのだろう、と思ってしまった。  食事をした後、ひよりたちが町を見て回っていると、大通りから脇道に逸れた先のひと気のない薄暗い路地で、話をしている声が聞こえてきた。 「お前のせいでうちの店に多大な損害が出たってわかってんのか」 「ほら、言ってみろよ。お前がなにをしたか」  十代前半の少年たちが、少し年下に見える小柄な男の子を取り囲み、抑え気味の声で罵声を浴びせていた。みな似たような着物を着て、前掛けをかけていた。同じ店で働いているようだ。  囲まれた子供は、俯きがちになりながらも返事をした。 「大事な商品を地面に落として傷だらけにしました……」 「それだけじゃねえだろ」 「荷物を時間通りに運んで来られませんでした……」  か細い声による返事に、嘲笑が被さった。 「うちの店主も寛容だよなあ。こんな使えない愚図に仕事を振って、食わせてやってるんだから」 「さすが鮫島(さめじま)の父親だな」  鮫島と呼ばれた集団の中心らしき少年が、満足そうに頷いた。 「でも失敗したやつは罰しないと、一向に反省しねえんだよ。なあ、枯太(かれた)」  鮫島は枯太と呼んだ子供を蹴りつけた。小さな身体が壁に激突し、地面に倒れた。 「お前は借金のかたに売られてきたんだ。もとは俺たち商人より偉い立場だったからって、でかい顔してんじゃねえよ」 「そんなことは……」 「口答えすんじゃねえ!」  大声で叫ばれ、起き上がろうとしていた子供の肩が跳ねた。 「お前は家族に捨てられた。お前の味方なんて、この店にも町にもいねえ。俺の親父もお前のことを心底迷惑に思ってるんだ」 「だから俺たちが代わりに粛清してやらねえとな」  それを見ていたひよりは、思った。食事を抜かれたり土蔵に閉じ込められたりしたことはあったものの、直接的な暴力を振るわれなかっただけ、まだよかったのかもしれない、と。 「そもそもお前、名前に枯れるなんて字を使われてる時点ですぐ死ぬと思われてたんだよ」 「それは――」 「武士の子だから大人になったら名前が変わる? そんな日は、もう一生来ねえよ」 「鬼に目をつけられないよう、あえて不吉な名前をつけるんだったか。武士じゃなくなったから、ずっとその縁起悪ぃ名前のままだ」  嘲りの声はやまない。心が冷めていく。人間は所詮こんなものだという想いが増していく。 「ひより。なにか思うところはないか」 「可哀想ですね」  常葉の問いかけに、乾いた心でそう答える。 「ですが上の立場の者の言葉は絶対です。下々の者は、従うしかないんです」 「……それがそなたの意思か?」 「わたしに意思などありません。命令されたら従うのみです」  だから神のもとへだって嫁いできたのだ。  少年たちは子供の腹を殴りだした。相手が悲鳴を上げないよう、わざわざ口を塞いでまで暴力を振るっている。  助けては駄目だ。そうしたら、周囲の者の不興を買う。それに子供一人助けたところでどうなるというのだろう。この地には、どうにもできない不幸などいくらでも転がっている。  ――わたしの両親は、死んでしまった。誰も助けてくれなかった。  道行く人々は、時折路地の様子に視線を向けたが、構うことなく先を急いでいた。  猪俣の屋敷で暮らしていた頃のことを思い出す。冷え切った空気の土蔵から出してと叫んでも、扉が開いたことはなかった。  だからあの子供も、救われることはない。 「私はそなたに言ったはずだ。自由にしろ、と」  その言葉に、はっとした。 「命令ではない。そなたが選べ。そしてそなた自身では無理だと思うなら――」  常葉の言葉を最後まで聞かず、ひよりは路地に向かって叫んだ。 「その子を傷つけないでください!」  暗がりにいる少年たちが、一斉に声がしたほうを向いた。 「なんだ、てめえ」 「俺たち、新入りをしつけてるだけなんで。他人が口を出すことじゃねえよ」 「姉さんだって武士の横暴さに困ったことくらいあるだろ。こいつは落ちぶれた武士の家の子供だったんだよ。俺らにはやり返す権利があると思わねえ?」  にやにや笑いながら、少年たちはそう口にする。自分たちの正当性を信じて疑っていない態度だ。 「じゃあさ、姉さん、いま着てる着物を脱いで置いてけよ。そうしたらこいつを殴らないでいてやるよ」 「そりゃいい。流行りから外れた柄だけど、売りゃあ二束三文にはなるだろ」 「そもそもその恰好、町の人間じゃねえだろ。どこの田舎から出てきたのか知らねえけど、こっちの流儀も知らん癖によくまあ意見できたもんだ」  侮辱の言葉が突き刺さる。幼い頃、近所の子供に嫌がらせをされていたことを思い出した。  彼らと話が通じることはなさそうだ。いまやめさせたところで、他者の目がなくなれば同じことが繰り返されるのだろう。 「聞いてんのかよ、ああ!?」  ひよりに近づいて手を伸ばした少年の腕が、途中で止まった。二人の間に割って入った常葉が少年の腕をつかみ、ひよりを振り返った。 「自分ではどうにもできない事態なら、身近にいる神に願うなり、夫を頼るなりすればいい。そう伝えようとしたのだがな」  この神は、民が問題を抱えていても我関せずなのではなかったのか。それとも――伴侶が願えば、頼みを聞いてくれないこともないということか。だとしたら。 「この子を助けてください!」 「心得た」  風が巻き起こり、少年たちは目元を庇った。 「な、なんだ!?」 「砂埃が、目に」  その隙に、少年たちの脇を抜けて二人は子供に駆け寄った。常葉が子供を抱え上げ、路地の向こう側に抜け、その場から離れた。  少年たちから距離を取り、ひと気のない道で、ひよりは地面に下ろされた子供と向き合った。 「……あなたは」  暗がりで年上の少年たちに囲まれていたから気づかなかったが、助けた子は午前中に重い荷物を運んでいた少年だった。  蹴られてついた砂埃を払おうとすると、一歩後ずさりされた。 「あの、助けてくれたことは感謝します。でも、こんなことをして、後でなにをされるか……」  そう言われ、ひよりの胸が重くなった。  当然のように弱者を攻撃する連中から一時的に逃げたところで、どうにもならない。ならばどうすればいいのだろう。  神社に連れ帰る。いや、無理だ。この子の生活や将来に責任など持てないし、普通の子供が神域の神社で暮らしていけるのだろうか。 「ええと、枯太さん、ですよね」 「草鹿(くさか)枯太と申します。ですが、できれば名前ではなく……」  あれだけ名前を侮辱されていては、初対面の人間に下の名前で呼ばれたくなくなるだろう。 「では、草鹿さん。売られたと聞きましたが、家に帰ろうとはしなかったのですか?」 「ぼくが帰ったら、家にもお店にも迷惑がかかります」 「迷惑、か。勝手に売られて迷惑を被ったのはそなただろうに」  常葉が嘆息した。  ひよりは草鹿の気持ちがよくわかった。猪俣の家で、もとの家があった場所へは行ってはいけない、近所の友達に会いに行くなど言語道断、と言われてきた。そうなると、例え徒歩で行き来できる距離だとしても行けなくなる。 「しかし、家に帰る、か。それもいいかもしれん」 「でも……」 「もとは立派な家の出だったのだろう? 売られた先の店でこれだけの怪我を負わされた、と訴えれば、なにか行動を起こしてくれるかもしれぬ」  常葉の提案で、草鹿がもともと住んでいた家を目指した。しばらく歩いた先に立派な武家屋敷が見えてきた。  こうした家に住む者が子供を借金のかたに売るだろうか、とひよりが不思議に思っていると、門から紋付羽織をまとった中年の男が出てきた。近くの建物の陰から様子を窺う。 「あ、あの人がお父さんですか?」 「……いえ。知らない人です」 「客か、あるいは――」 「あの振る舞いは、この屋敷に住む者です。……草鹿の家は、お金に困っていました。屋敷の維持管理ができなくなり、屋敷を売って引っ越したのかも」  草鹿は震える声で予想を語った。顔が青ざめている。衝撃を受けているようだ。  子供を売るほどなら、屋敷だって売るだろう。納得はできたが、これでは家族の行方はわからず、会えないままだ。 「……仕方ないです。帰る場所も、もうとっくになくなってたようですし、店に帰らないと」  草鹿は自分に言い聞かせるように、そう口にした。  このままでは、もとの境遇に戻るだけだ。売られたのだから、それが当たり前。逃げることなど赦されない。――そんなこと、認めたくなかった。  じりじりとした思いで草鹿を見つめていると、ふとひよりの頭に浮かぶものがあった。草鹿の顔立ちは、誰かに似ている。それも馴染みがある人ではなく、今日目にした人に。 「……あ」 「どうかしたか、ひより」 「草鹿さん、祠で会った女性に似ていませんか?」  しばし考える素振りを見せてから、常葉は答えた。 「あの者は、いなくなった子供を捜していたな」  二人は顔を見合わせて、頷き合った。  移動時間を短縮するために呼び出された天馬が空に浮かび上がり、その背に乗った草鹿は目を丸くした。 「な、なんなんですか、これ。あなたたちは……」 「この方は実は神様です」 「神様!? どうしてそんなお方がぼくを」 「余計な詮索はするな」 「は、はい。すみません……」 「謝らなくていいですよ。その代わり、他の人にあまり吹聴しないでいただけると助かります」 「わかりました。誰にも言いません」  草鹿を両側から抱えるようにして常葉が手綱を握り、ひよりは常葉の後ろに乗って胴体に腕を回していた。  他の人間に見えないよう隠形した天馬は、空を駆けて、祠の近くまで一気に進んで行った。建物の屋根が後方に流れていき、人々が胡麻粒のように見えた。  祠の近くの道に降り立ち、周辺で聞き込みをした。道行く人や近くの店の者に訊いてみると、子供を捜している女性のことを知っている者がいた。  茶屋を営む夫婦が、合点がいった様子で説明してくれた。 「一月ほど前にこの辺りに越してきた人だな。子供を捜している、行き先を知らないか、と訊かれたときは、昼間から幽霊と遭遇したかと思ったもんだが――」 「最近見かけた姿は、引っ越しの挨拶に来たときほどやつれてなかったねえ。夫を亡くしたからもっと小さい家に住むことにしたって言ってたけど、余程酷い旦那だったんだろうさ」  おかみさんの言葉に、草鹿は息を呑んだ。 「父上が亡くなった……?」  少年の蒼白になった顔を見て、ひよりも胸が痛んだ。しかし草鹿は衝撃を受けても意気消沈したわけではないようで、夫婦の話の続きを熱心に聞いていた。  女性の家を教えてもらい、店を出てその家を目指した。日が落ちて来て、道行く者の影が伸びて来た中で、女性の後ろ姿が道の先に見えた。 「あの方は……」 「母上!」  草鹿が声を上げ、駆け出した。  女性は肩を跳ねさせて振り返った。少年の姿を捉えて目を見開き、足が地面を蹴った。なりふり構わずに走る母親は、懐に飛び込んできた我が子に手を伸ばし、抱きしめた。 「枯太、やっと見つけた……生きていてくれてよかった」  抱擁のあと、女性は草鹿の肩をつかんで膝を折り、子供と視線を合わせた。 「あなたの父上は酒に溺れて亡くなりました。枯太が帰って来ても、また売り払おうとする者はあの家にはいません。借金返済のために屋敷は手放し、下男下女には暇を出しました。これまでのような暮らしはできませんが、帰って来ますか?」 「……はい!」  草鹿が元気に返事をする。  再会できた親子を見守るひよりの胸が、温かくなった。草鹿を助けられてよかった、と心から思った。  親子が手を取り合って帰って行くのを見送り、二人の姿が見えなくなってから、ひよりは常葉に向き直った。 「ありがとうございました。神様のおかげであの子を助けることができました」 「そうか。そなたの望み通りになったのならば、それに越したことはない」 「望み……そうですね。親子はやっぱり一緒に暮らさないと……」  不意に、いまはもういない両親のことを思い出してしまった。一緒に暮らせなくなった家族。ここ数年、墓参りすらできていなかった。懐かしさが胸を衝く。会いたい、と思ってしまった。  目頭が熱くなる。まずい、と思ったが、瞳が潤むのを制御できず、目元に溜まった涙がこぼれ落ちる。 「す、すみません。なんでもないんです」  猪俣の家では泣くな、喚くな、反論するな、と教えられてきた。怒りや哀しみ、寂しさなどの負の感情を表に出してはいけない。他人様に迷惑がかかるから。  涙を拭い、なんとかして止めようとしたひよりの肩が、そっと支えられた。顔を上げると、眉を下げた常葉と目が合った。 「哀しいことを思い出してしまったか」 「いえ、そういうわけでは……」 「そういうときは、泣いたほうがすっきりするだろう」  その言葉は、すとんとひよりの胸の奥に落ちた。これまですり込まれていた、泣いてはいけないという言いつけが、その一言で粉微塵になったかに思えた。  ――そうか。わたしはずっと、泣きたかったんだ。  それを自覚すると同時に、子供の頃のことが思い出された。  神社で男の子と知り合って何日かした頃、ひよりは自分の事情を教えた。 「お父さんとお母さんは亡くなったの」 「なぜそれを笑いながら言う?」 「泣いていると、他人様に迷惑がかかるから。だから、寂しがったらいけないの」  そう告げると、眉を顰められた。 「子供が泣いているのを迷惑に思う人間など、なぜ存在しているのだろう」  心底不思議そうにそう言った男の子は、目の前にいる神と同じ白い髪をしていなかったか。 「そなたが引き取られた家では泣けぬか。なら、いつかそこから連れ出してやろう」  表情をあまり変えないままそう口にした姿が、目の前の神に重なった。連想がつながって、薄れていた記憶が鮮明になった。 「もしかして神様は――子供の頃、神社で会った男の子ですか?」 「今頃気づいたのか?」  呆れたような反応があった。気づいていたなら教えて欲しかった。 「その、お久しぶりです……」 「あの頃は敬語など使っていなかっただろう」 「神様だなんて知らなかったからですよ」  あの子は神社の子供だと思っていた。だから気安くかかわることができたのだ。混乱気味の中で、頭に浮かんだことがそのまま出てきた。 「どうしてわたしを」  見初めたのか。嫁にすることを決めたのか。そこまで言おうとして、改めてそうした言葉を口にするのはなんだか躊躇われた。  得体の知れない荒ぶる神の嫁になる覚悟はしてきたはずなのに、幼い頃の友達が、ひよりを伴侶として選んでいた。その事実が、うまく受け入れられない。確かに仲はよかったし、ひよりとしては青葉を心の拠り所にしていたが――。 「引き取られた家の者の言いなりになっているのが癪だった。それだけだ」 「そうだったんですか……」  動揺したひよりとは対照的に、淡々とそう告げられた。  尊厳を削り取られていく場所、望まない未来から救い出してくれたのは、常葉だった。そのことに胸が熱くなる。  だが、同時に思う。この分では常葉は本当にただ単に、猪俣の屋敷からひよりを連れ出したかっただけなのかもしれない。  伴侶を選んだつもりがないのなら、祝言の後の言葉も納得がいく。納得はしたが――なぜか少し、残念だった。  しかし常葉の本心を聞いたことで、これまで気張っていたひよりは安堵し、笑みをこぼした。 「どうした?」 「いえ。では、恩返しをしないといけませんね」 「……だから、そうやって自分を犠牲にするようなことはせぬようにと」 「犠牲じゃありません。わたしがやりたいから、やるんです」  昨日の夜、常葉に言われたことが頭に浮かんだ。橙色の夕日に照らされながら、ひよりはこう口にした。 「なにをしようと自由なんでしょう?」
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