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二章 山の神
神社ではじめて青葉と会ったのは、いつのことだったか。
猪俣の家に引き取られ、牡丹に神社の掃除を言い渡されたひよりは、箒を手にして神社に向かった。
広い古びた神社を一人で掃除しなければならない。けれど人が寄り付かない場所なら一人になれると思うと、少し気が楽になった。
猪俣の屋敷では、泣くと叱られる。暗い顔をしていると叱られる。両親の死を哀しむのはいけないことだと、感情を表に出すのは幼稚な行いだと言われているかのようだった。
ここでなら泣いても叱られない。最初に神社に来た日、思いきり泣いたら少しすっきりした。宮司らしき大人の人に見られて、慌ててお辞儀をして取り繕ったが。
その翌日。神社で掃除をしていたら、知らない男の子が箒を持ってひよりの傍にやって来た。
「手伝おう」
「いえ、掃除はわたしの役目で……」
「この神社は私の領域だ」
神社の子だろうか。この子も神社の掃除をするのが役目なのかもしれない。だったら協力してやれば、一人でやるよりも早く終わるだろう。
「そう、じゃあ一緒にやろう。わたしは小鳥谷ひより。あなたは?」
「常葉」
「それはこの神社に祀られている神様の名前でしょ」
「名前……」
しばし考え込む仕草を見せてから、男の子は顔を上げた。
「そなたはなんだと思う?」
「え? ええと……」
男の子をじっと見つめる。神社は森に囲まれているからというだけではなく、彼から緑の匂いが漂ってきたように思えた。いま暮らしている家でもよくかぐ匂いだ。
「青葉、とか」
「ではそれで」
「それでって……」
「呼び名があればそれでよかろう。神社の子供としての名は青葉。悪くない」
男の子はうむ、と頷いた。その直後、これまで朧気だった男の子の姿がはっきりとした形をなしたかのように見えた。
髪を一つに結い、白い単衣に浅葱色の差袴という出で立ち。さっきまでは、宮司が着ているようなもっと立派な装束だったような気がしたが、そしてこの村の子供とは一線を画す雰囲気に思えたが、最初に感じた異質感は薄れていた。
第一印象を思い出そうとしても、思い出せない。神社で下働きをしていそうな子供の姿に、記憶は上書きされた。
「神社の子供としての姿に変じたか」
自分の姿を見下ろしてから、青葉はひよりに向き直った。
「では、これからよろしく頼むぞ、ひより」
猪俣の屋敷は、親が生きていた頃に住んでいた家から離れた場所にあった。実家の近所にいた友達と気軽に会えなくなり、寂しく思っていた。
新しい出会い。期待と不安。
――青葉と仲良くなれたらいいな。
そう思い、ひよりは頷いた。
子供の頃の夢を見て、ひよりは目を覚ました。障子の外から朝日がぼんやりと部屋を照らしている中、思い切って布団から身体を起こした。
「……青葉」
幼馴染の名前をつぶやく。幼い頃親しかった男の子が、いまは伴侶となっている。その事実をどう受け止めたらいいのかわからないが――祝言を行った日の夜のような不安や心細さは感じなくなっていた。
「よし」
小袖に着替え、気合を入れて袖をたすき掛けにする。
伴侶としての役割は期待されていない。だが、それ以外にもできることはあるはずだ。ひよりは常葉に恩返しをすると決めた。家事だろうが雑用だろうが、常葉の役に立つことならなんでもするつもりだった。
真心を込めて朝食を作り、膳に並べて居間へと持って行く。昨日よりは和やかに、常葉とともに朝食を食べだした。
常葉が黙々と山菜を食べているのを見て、ふと思ったことがあった。
「お好きなものや苦手なものがあるなら教えてください。味つけの好みなどもありましたら」
「食べ物の好き嫌いか……なんだったか」
過去を思い返すようにする常葉を見て、ひよりも小首を傾げた。
「そもそも人が食べるような料理は、祝言の夜に久々に食べたな」
それを聞いて、ひよりは血の気が引いていくのを感じた。
「……もしかして、神様に人が食べるような料理を振る舞うのはいけないことでしたか」
「まさか。そもそも祝言のときの料理を用意したのは睡蓮だ」
膳に乗った豪勢な料理が思い出される。それに昨日も常葉は町の食事処で昼食を食べていた。
「神や妖怪が訪ねてくればもてなしのためにご馳走を並べ、儀式の際も口にするが、食べても糧になることはなく、食べずとも人のように飢えることはない。儀礼的な要素であり、嗜好品でもあり――人からしたら酒や甘味のようなものか」
「そうなんですか。……あの、ではこれからのお食事はどうしましょう」
「早起きして作るのは大変だろう」
「い、いえ。わたしにできることはそれくらいですから。食べていただけるなら作りたいです」
そうか、と常葉は頷いて、汁物をすすった。
「ならよかった。そなたの作る料理はほっとする」
わずかに目を細めてそう言われ、ひよりの鼓動が高鳴った。
「そ、そうですか。ではこれからも振る舞わせていただきます」
動揺を押し殺しつつ、そう応じる。受け入れてもらえて嬉しかった。ただそれだけ。そう、自分に言い聞かせながら。
食事の後片付けをして、食器を台所の棚に仕舞おうと振り返ると、同じ室内にいつの間にか睡蓮が立っていた。確かに片付けをしていて音を立てていたが、足音に気づかなかった。
驚いて食器を落としそうになったがなんとか支え、ひよりは頭を下げた。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
睡蓮は祝言の夜に着ていた狩衣ではなく、水干を着て指貫袴を履いていた。
「ご挨拶が遅れました。わたくしは神使の睡蓮と申します」
深く腰を折り、頭を下げられた。
昨日神社に帰ってから、この少年と顔を合わせていなかったことを思い出した。
「そ、それはご丁寧に……わたしは小鳥谷ひよりです」
「存じております。常葉様の奥方」
奥方。呼ばれ慣れていない響きにどきりとし、ひよりは居住まいを正した。
それでなんの用だろうと思っていると、睡蓮は用件を切り出した。
「明日、柄須賀山の神である空閑様が常葉様を訪ねて来ます。お客様を迎える準備をします。ひより様も手伝っていただけますか」
「はい、もちろんです」
「それはよかった。神のもとへ嫁いで来て、毎日町へ出かけていくだけかと思いましたが」
「す、すみません。昨日は神社のことをやりもせず……」
「ここは人の住む世界ではないのですから、人の世界の奥方らしいことをせずとも結構です。神社の掃除や整備、管理をするために、神使がいますから」
「や、やります! 掃除や整備ですね」
そこまで宣言して、これでは幼い頃とやっていることが変わらないのでは、と思った。
牡丹にあなたの役目だと言われて、猪俣の家に引き取られてから一年ほど、神社の外の掃除をしていた。今度は神域の神社の管理をするらしい。神が住まう地とはいえ、建物は手入れをしないと傷んでいくものなのだろうか。
「それではぜひとも、貴方の手腕を見せていただきましょうか」
なんだろう。睡蓮の言葉遣いは丁寧で、表情も一見にこやかだが、ものすごく小言や皮肉を言われている気がする。
この神社にはいわゆるお姑さんはいないから油断していた。睡蓮は常葉の眷属だが、神の妻に敬意を払う気はさらさらないらしい。
両親が亡くなり、猪俣の家に引き取られた頃のことを思い出した。既に形成されている集団の中に新入りが入って行くのは難しい。そのことは理解している。
その場所にはその場所ならではのやり方があるし、神が住まう地ならなおさら、人には理解できないこともあるのだろう。
それでも、少しずつでも馴染んでいかなければ。ここで生きていくことを決めたのだから。
「神楽殿で宴会を開きます。まずは掃除をしましょう」
睡蓮に先導され、拝殿の西側にある神楽殿へとついて行った。
神楽殿は壁のない高床式の開放的な建物だ。祭りの際に巫女が神楽を舞い、祭りに参加した村人からよく見えるようになっている。ひよりも両親が生きていた頃は、こことは違う神社の祭りに行って、他の村人に混じって舞を見たことがあった。
「神楽殿で宴会ということは……お客様を舞でおもてなしするんですか」
「今日一日で、掃除と会場の支度と料理の他に、奥方が舞の練習をして完璧に仕上げていただけるなら」
「い、一日……で、できる限り努力は」
「できないことを安請け合いするものではありませんよ。準備を念入りにやればそれだけで一日が潰れます」
ぴしゃりとそう言われてしまった。
「そもそも神楽殿は本来宴会をする場所ではありませんし、神社に嫁いできたばかりの方に神楽を舞っていただこうとも思っていません」
「ではなぜ……」
神楽殿が近づいてきて、風に乗って薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちるのが見えた。
「この風景を見ながら酒盛りをするため。それが理由では不服ですか?」
「いえ。素晴らしいおもてなしです」
神楽殿の周囲には桜の木があった。まだ春先なので満開でこそないが、神楽殿からは綺麗な桜が見えることだろう。
掃除をして、奥のほうにあった神具を磨き上げ、客を迎え入れる準備をする。敷物を取りに行くため、ひよりは睡蓮とともに屋敷の裏手にある蔵を目指した。
手前にある蔵から敷物や神楽殿に持って行く雑多な品物を運び出してから、睡蓮は奥にある蔵に視線をやった。
「そういえば、伝えておかねばならないことがありました。奥の蔵には絶対に入ってはなりませんよ」
「は、はい……」
ごくりと唾を飲み込む。神や妖怪との約束は絶対。口にする禁止事項を破ったらどうなるかわかったものではない、と猪俣の家で教えられてきた。
きっとあの蔵には重大な秘密があるのだろう。人間の娘にはやすやすと教えられないような。気にならないと言われると嘘になるが、伝え聞いた話に語られる者たちのように不幸になるくらいなら、絶対に入ってなるものか、と心に誓った。
「それから、明日いらっしゃるお客様は礼儀作法にうるさい方ではありませんが――常葉様の顔を潰さない振る舞いをお願いしますよ」
「もちろんです」
「そうですか。妻として相応しい行動ができるというなら、それで結構ですが」
祝言の後、対外的に妻として振る舞ってくれたら、と常葉も言っていた。そうだ、これこそひよりがやるべきことだ。俄然気合が入り、こぶしを握り締めた。
昼食後、台所で睡蓮とともに明日の宴会の料理を作ることになった。野菜の皮を剥き、種類ごとに決まった大きさに切って、皿に分けていく。野菜の下処理を進める中で、見慣れないものが視界に入った。
「ところで睡蓮さん、こちらは鶏や魚の肉には見えませんが……」
「これは猪肉、あちらは鹿肉ですが」
「御神饌に肉類はいけないと教わりましたが」
「それは人が定めた決まりでしょう。それに神饌は、人が神に供えるもの。神使と神の妻が作っている料理は、果たして神饌と言えるのでしょうか」
神に嫁いだ以上、もはや人間の範疇ではないと言われた気がした。
「それに、明日いらっしゃるのは山の神ですよ。山の獣を自分で狩って召し上がっているような方です。そうした神に肉料理を出すのに、なにか問題でも?」
「……ありません」
「では、次は肉の下ごしらえを」
「あ、あの。明日、わたしもこの料理を食べていいのでしょうか」
「宴会に同席するのでしょう。お好きにどうぞ」
「でも、神に仕える神職は肉やにおいの強い野菜は食べてはいけないと教えられて……」
「それ、貴方に肉を食べさせないための方便ではないのですか」
「ええっ!」
衝撃が走り、睡蓮の前だとわかっていても驚きの声を上げた。
神の嫁になると決まってから、六年ほど獣の肉を食べていなかったことを思い出した。子供の頃もたびたび食べていたわけではないが、たまに食べるからこそのご馳走だった。
自分が特異な立場になってしまったから、仕方がないと言い聞かせてきた。それなのに、なんということだ。
「それに貴方は神に嫁いできただけで、巫女ではないでしょう」
「そ、そうですね……」
「とにかく、人が勝手に定めた決まりを持ち込まれても困ります。そうした決まりは時代とともに移り変わり、地域により差異があるもの。その状態で、長く存在している神が人が定めた決まりに従う義理がありますか?」
「いいえ……」
「わかっていただけでなによりです」
「はい。料理、手間暇かけて作ります。そして明日は六年ぶりのお肉を食べさせていただきます……」
牡丹の言うことには唯々諾々と従ってきたが、いまになって哀しさと悔しさが襲ってきた。
意気消沈しているひよりを、睡蓮は呆れた様子で一瞥した。
「ああ、あと、先程貴方は巫女ではないと言いましたが。明日は部屋の行李に入っている小袖に緋袴、千早という装いに着替えていただきます」
「……巫女装束ですね」
「神社にいる神のもとへ嫁いで来たのですから、それが正装かと」
昨日今日と、起きてからどの着物を着ようかと迷ったものだが、悩む時間をかけるくらいなら、神社にいるときはいつも巫女装束でいいのではないか。溜息とともに、ひよりはそう思った。
明日、客が来る直前に仕上げをする料理の仕込みがあらかた終わり、ひよりは神楽殿の周辺の落ち葉を掃いて来るよう頼まれ、箒を手にして神楽殿へと向かった。
地面に落ちた落ち葉と花びらを掃き集めながら、桜の木を見上げる。ここ六年ほど、春になっても桜の花を見ることがない生活をしていたことを、改めて思い知った。
ぼんやりと桜を眺めていると背後から足音が聞こえてきて、我に返った。
「す、すみません。夕方までには終わらせますから――」
睡蓮かと思って振り返ったが、近づいて来たのは常葉だった。
「すまない。今日はずっと睡蓮に引き回されていたようだな」
謝罪されてしまった。あまり変わらない表情だが、ひよりを気遣うような、あるいは申し訳なさそうな感情が滲んでいるように見えた。
互いに第一声で似たようなことを言ったことになり、ひよりはおかしくなった。
「大丈夫です。猪俣の屋敷にいた頃のほうが忙しかったですから」
「そもそもそなたは神社のことはしなくとも――」
「お客様がいらっしゃるのに準備をしなくてどうします」
常葉は若干眉根を寄せた。
「明日来る神は、そう大層な客というわけではない」
「神様のお知り合いなら、どなたも大事なお客様ですよ」
「そうか。して、いまは掃除をしているのか?」
「はい。神楽殿にお客様をお招きして花見をするそうなので、その周辺を」
「私もやろう」
その言葉に、ひよりは驚いた。
「睡蓮さんに止められるのではないですか」
「私がそなたと一緒にやりたいのだ」
なにをしようと自由だと嫁に告げた神は、その言葉を自ら実践するつもりらしい。それを言うなら嫁とともに町まで行くのも、大分村の神社の神の領分からは外れていそうだ。
「……なぜ笑っている?」
「いえ。では、手伝ってください」
箒を取ってきた常葉とともに、神楽殿周辺の掃除をした。
ふと、子供の頃に青葉と一緒に神社を掃除していたことを思い出した。
「……奥方。常葉様になにをさせているのですか」
適当なところで掃除を切り上げようとしていたが、その前に睡蓮が神楽殿近くまでやって来てしまった。そして主とその伴侶を見つけ、笑顔のまま額に青筋を立てた。
ひい、とひよりは声にならない悲鳴を上げる。怖い。蛇ににらまれた蛙の気分を味わった。箒を握りしめて縮こまるひよりの前で、主従の会話が交わされる。
「私がやりたくてやっているのだが」
「常葉様。貴方がそうだから、神としての威厳が足りないとよく空閑様にからかわれるのです」
「言いたい者には言わせておけばいい」
「貴方が隙を見せるから好き勝手なことを言われるのですよ」
神使が神に対して説教していた。この二人が会話しているところをはじめて見たが、常葉のほうが偉いから神使は平身低頭、というわけでもなさそうだった。
常葉の危機をなんとかしないと、とひよりは口を挟んで謝罪した。
「次からは気をつけます。すみません、お義母様!」
「わたくしは奥方の義母になったつもりはさらさらありません!」
怒られてしまった。そんな睡蓮の態度も、嫁に対する姑かのようだった。
翌日。早起きをしたひよりは睡蓮とともに料理の仕上げをし、神楽殿へ運んだ。料理が載った膳が並べられ、春の花や植物が飾られた神楽殿は、最初に足を踏み入れたときとは様変わりしていた。
それからひよりは白い小袖に緋袴、千早を羽織った姿に着替えた。最後になにか見落としがないか調べるため神楽殿へ向かおうとして、屋敷の外で空閑と行き会った。
「その姿は」
「神に仕える者、神社に嫁いで来た嫁の正装です」
「……睡蓮がなにか言ったのか」
「はい。あ、神様のご希望があるなら着替えますが」
「いや、着替えるのも手間だろうから」
「ではこのままで」
「ああ。……しかし私は、そなたに仕えて欲しいわけではないのだが」
祝言の夜に言われたようなことを、困り顔で繰り返された。
「そうでしたね。ですが、お客様相手なら話は別です。この装いは、神の嫁の象徴ですから」
「……私の嫁だと客に大々的に見せつけるような姿でいいのか?」
「見せつけるもなにも、わたしは神様の嫁でしょう。そのことをわかりやすく示していかなければ」
自分の胸に手を当てて、ひよりはそう主張する。
「いや……しかし」
「お二人とも。そろそろ空閑様がいらっしゃいますよ」
なにか言おうとした空閑の言葉を遮るように、睡蓮が後ろから声をかけてきた。話し込んでいたら、神楽殿を見に行く暇がなくなってしまったようだ。
「……そうか。では出迎えに参ろう」
「はい」
話を打ち切って歩き出した空閑に続く。歩きながら、常葉はなにを言いたかったのだろう、とふと思った。
神社の鳥居近くで待っていると、よく晴れた空の上からなにかが近づいてきた。やがて、羽根が羽ばたく音とともに、人影が降りて来た。
地面に降り立った者を見て、ひよりは息を呑んだ。
来客は灰色の長い髪を覆うように頭襟を被り、山伏の装束を着込み、高下駄を履いた修験者の姿だ。そういえば柄須賀山の神は天狗だと聞いたことがあった。しかし山の神や天狗というと老人の印象だったが、空閑は精々二十代の若者に見えた。
高下駄を履いている分、ひよりを見下ろす形になった空閑は、ひよりをまじまじと凝視してから巫女装束の娘に問いかけた。
「おぬしが常葉の嫁か」
「は、はい。小鳥谷ひよりと申します」
「わしは空閑という。柄須賀山に住む天狗であり、山の神じゃ」
空閑は名乗りを上げた。
「結婚祝いを贈ろう。受け取るがいい」
空閑が手を掲げると、葛籠が出現した。
「わ、わざわざありがとうございます」
ひよりは礼を言い頭を下げた。その頭上で会話が交わされる。
「それにしても、祝言は三日前だったというではないか。なぜ呼んでくれなんだのじゃ」
「そなただけでなく、誰も呼んでいない」
「この辺りの神や妖怪は、知り合いを祝うという名目で酒を飲み羽目を外したい者ばかりだというのに」
「だから呼ばなかった」
「そうか、嫁のことはしばらく他言せず、一人占めしたかったと」
「……そういうことでいい」
顔を上げて隣を見ると、常葉が眉を顰めていた。空閑はおかしそうに笑っている。対照的な二人だった。
神楽殿に移動し、客をもてなしながらの花見が始まった。空閑は神楽殿の外に視線をやり、上機嫌で盃を傾けた。
「桜を見ながら酒を飲めるとは。面白い趣向じゃのう」
「楽しんでいただけたようでなによりです」
ひよりの言葉に頷いた空閑は、料理に舌鼓を打った。
「そもそもこやつは、睡蓮を眷属にする前は、訪ねて行っても手の込んだ料理はもとより、飲み物すら出さないようなやつでな。仕方がないから酒や肴を持参して行ったものじゃ」
客を出迎えたときのことを思い出す。空閑はひよりに渡した葛籠の他にも、睡蓮に酒を渡していた。常葉に贈ったというよりも、この場で二人で飲むためだろう。
そういえば結婚祝いに贈られた葛籠を一度屋敷に置いてきたが、ずしりと重かった。液体や食べ物の重さではなさそうだが、なにが入っているのだろうか。
「神様とは長い付き合いなのですね」
「うむ。こやつは若い神でのう。由緒ある神々からしたら下っ端の上に、他の神や妖怪との付き合いも最低限でな。わしくらいしか酒を飲み交わす相手はおらぬのじゃ」
「以前より夫を気にかけていただいたようで、ありがとうございます」
礼を言うひよりの視界の端で、常葉が渋面になったのが見えた。
「ひより」
「あ、はい。お酒ですか? それとも料理のお代わりですか?」
「そうではなく――いや、一杯もらおうか」
常葉に呼ばれ、ひよりはいそいそと徳利を手にして酒を注いだ。
「よかったのう。甲斐甲斐しい嫁をもらって」
空閑が大げさに感涙にむせぶふりをするのを、常葉は盃に視線を落としながら無視した。
「しかし、おぬしらにはどうにも新婚の夫婦らしさがないのう」
その指摘にひよりはぎくりとした。
「わ、わたしは誠心誠意、神様に尽くしています」
「ほう。ならばこやつの子供を拝める日も近いか」
空閑の言葉に目を瞬かせた。
神に嫁いだ娘は新たな神を産み落とすという話も聞かされていたが、正直それよりも喰われるという説のほうが信憑性が高かった。
それに昨日、神は食べ物を食べずとも存在していられるという話を聞き、人とは違うのだと改めて思い知った。常葉が人間離れした雰囲気なのも、俗な印象がないのも、そうした超常的な存在だからだと納得がいく話だった。
その後に、人間の新婚夫婦に茶々を入れるような話を振られるとは思っていなかった。
「……人と神との間に子供はできるのですか?」
「異類婚姻譚の話など、各地に伝わっておるだろう。人と妖怪の間に子供がなせるのなら、人と神との間に子供ができずしてどうする」
「そうですか……」
そう返しつつ、頬が熱くなった。
「さて、嫁がこうしたことを言っておるが」
常葉は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「おぬしは神だろうが、嫁は人間の娘じゃろう。結婚したならば子供を望むのもまた必然。人として生きていたら普通に得られるはずだった幸せくらい、味わわせてやっても――」
「わたしは子供がいなくても、常葉様といられるだけで十分幸せです」
思わずひよりが口を出すと、常葉と空閑がひよりのほうを見て、驚いたような顔になった。常葉までそんな顔をするとは心外だ。弱り切った顔をしているようだから、助け船を出そうとしたのだが。
「それならよかったのう、ひよりよ。して、夫のほうは?」
「……私もひよりがいてくれて、嬉しく思う」
困った様子を見せながらも、常葉はそう言った。
膳の上の料理は大分減ってきた。空閑は自分で持ち込んだ酒を傾けながら、話を続ける。
「それにしても、おぬしもやるものよのう。以前より見初めていた娘を嫁にもらうとは」
確かに神の嫁に見初められたというていで、ここに嫁入りしたわけだが。いやしかし、妻として相応しい振る舞いを期待されているなら、肯定したほうがいいのだろうか。
ひよりが悩んでいると、常葉が返答した。
「見初めていたというのは語弊がある。この娘の村での境遇を不憫に思ったまでのこと」
「待遇を改善したいなら、他にいくらでもやりようがあったじゃろうに」
盃の酒を一気に飲み干してから、空閑は続ける。
「それともなにか。ひよりが村から離れられてそれでよかったというなら、わしがもらい受けても構わぬと?」
山の神と村の神の視線が交錯する。空気がぴりぴりと震える。
不穏な雰囲気になってきたことを察し、ひよりは冷や汗をかきながら空閑と常葉の様子を交互に窺った。
「駄目だ」
常葉はきっぱりとそう返した。
それを聞き、ひよりの鼓動が跳ねた。
「ほう。そうか、この娘を好いておるわけではないが、手放すのは嫌だと。わしに渡したくはないと」
「……そもそも他者の嫁を奪おうなどという道理が通るとでも」
「それは人の世の決まり事なれば」
互いに声を荒げてこそいないものの、言い争っているような気配だ。空閑はなぜこうも挑発的なことを言ってくるのだろう。
神に逆らうなど、人の身に過ぎた所業。客の主張は否定すべきではない。そうだとしても、ひよりは常葉の妻だ。常葉の味方でいたかった。
勇気を振り絞って、ひよりは口を挟んだ。
「わ、わたしはここに嫁いで来たのです! 他の誰のものにもなりません!」
「では、この神のものになるのはよいと?」
「神に捧げられたのですから、もうこの方のものです!」
そう叫ぶように言ってから目を開くと、空閑は肩を震わせていて、常葉は俯いて顔を手で覆っていた。
「く、空閑様? どうかしましたか」
すると空閑は顔を上げ、大口を開けて盛大に笑った。
「いや、実に面白いものを見せてもらった」
あまりの空気の変わりように、ひよりは呆気にとられた。
なんだろう、この反応は。ひょっとして、からかわれたのだろうか。困り顔になったひよりとは対照的に、常葉は眉をつり上げた。
「貴様、とっくに酔っているな。私を困らせて楽しいか」
「ああ、実に楽しいのう」
それからしばらくしてようやく笑いを収めてから、空閑は常葉に向き直った。
「それでどうなのじゃ。この娘は、おぬしのものだと言っておるぞ」
「……それは」
「い、いえ、それは売り言葉に買い言葉といいますか……」
頬を赤く染めながら、ひよりはなんとか軌道修正しようとしたが、空閑には届かないようだった。
「それなのにおぬしの態度が素っ気ないようでは、気の毒だのう」
それすらもからかいの一つなのか。ひよりの混乱気味の頭では、判別がつかなかった。
日も暮れて来た頃、酔い潰れた空閑を屋敷の客間に運び、布団に寝かせた。障子を閉めて息を吐くと、常葉が声をかけてきた。
「すまなかったな。この者は昔から迷惑千万な言動で」
「い、いえ。そんなことは……」
確かに困ったこともあったが、少し嬉しかった。常葉の本音を聞けた気がしたから。
「そういえば、空閑はなにを贈ってきたのだったか」
「あ、確認していませんでした」
屋敷の一室にひとまず置いておいた葛籠を開けると、皿や器が入っていた。
「わあ、すごいですね。村では見たことがないような柄や模様で……」
常葉を振り返ると、首を傾げている神と目が合った。
「こうしたものを贈られると、そなたは喜ぶのか」
「いただけるのならなんでも嬉しいですよ」
そうか、と常葉は頷いた。そして懐からなにかを取り出し、ひよりの手に載せた。
「では、これを」
小さな花と羽根の飾りがついたかんざしだった。
「え、あ、ありがとうございます」
「ああ」
それだけ言って、常葉は去って行った。
ひよりは常葉の姿が見えなくなってから、かんざしをまじまじと見つめた。もしかして先日、八武崎町に行ったときに買ったのだろうか。それから今日まで、渡す機会を窺っていたのだろうか。
ひよりの口元に笑みが浮かんだ。真実はどうであれ、嬉しいなどという一言では収まらない気分だった。
翌日。空閑を送り出すため、ひよりと常葉は鳥居の前まで来ていた。
背に羽根を生やした空閑は、飛び立つ前に常葉のほうを振り返った。
「それにしても、十年ほど前に様子を見に来たときは、このままでは村人に忘れ去られて消え去るかと思ったものだが。確固たる存在を取り戻したのみならず、めんこい嫁をもらうまでになるとはのう」
めんこいと言われて顔が熱くなりかけたが、それ以上に聞き流せないことがあった。
「……待ってください。なんですか、消え去るって」
「おぬしは三廻部村の娘じゃろう。かの村で、いまでも和守谷神社の常葉という名の神を熱心に信仰している村人が何人いる?」
「それは……」
宮司も巫女も置かれず、朽ちるに任せて放置されていた神社の様子を思い出した。猪俣の家が管理していたが、神を敬っていたかと言われると疑問が残る。
村にある他の神社のように祭りを行うわけでもなく、村人たちの寄り合いの場所となるでもなく、森の中にある神社はひっそりと存在しているだけだった。
村人だけではなくひより自身も、和守谷神社の神のことは、神に見初められるまでよく知らなかった。
「神は人からどう扱われるかによってありようを変えるものじゃ。信仰をなくし忘れられた神は、存在が薄れて消え去るか、零落して妖怪となるか。こやつも存在が薄れた状態のまま時間が経過すれば、どうなっていたことやら」
「そうだったんですか……」
そうなっていたら、常葉とは会えなかった。嫁になることもなかっただろう。そこまで考えて、ふと思った。神社で男の子と会ったのは、何年前のことだったか。
「おぬしのおかげかもしれぬのう、ひよりよ」
「えっ」
「そなたが神社で常葉とかかわっていたから、こやつはあれ以上存在が薄れることなく、村人に認識されたという結果を得られたのじゃ」
「わたしは――神様を信仰していたわけでは」
「ふむ。もしや、こやつを荒ぶる神だと思っていなかったことこそが、よい方向に働いたのかもしれぬのう」
そう言い残し、空閑は羽根をはばたかせて、神社から去って行った。
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