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龍神が待つ部屋に通されると、見たくないものがそこにはあった。大きな広間の中心に盃が一つ。龍神はその向こうに正座していた。
先ほどの嫌な光景が蘇り、苦々しい感情に喉が詰まる。龍神はそんな私を手招きすると、「無理矢理飲ませはしない。これは水だ。安心しろ」と微かにくちびるの端を上げた。
態度は少々尊大だが、行動だけを振り返ると龍神は確かにやさしい。そして、意味のないことをさせたりはしないだろう。
私は意を決し、盃を挟んで龍神の正面に腰を下ろした。滑らかな手触りの漆器を掬い上げ、口元に近づける。
喉はカラカラで、体は水分を求めている。だけど、怖い。せめて盃じゃなくて、ペットボトルに入った水だったらよかったのに。頭では理解しているのに、心が追い付かない。
水がくちびるに触れた瞬間、不安が爆発し反射的に盃を遠ざけた。それでも彼は私を咎めなかった。彼は何も言わずに私を待っている。
膝に下した盃の中には、泣きだしそうな私の顔が映っている。
「この行為には、どういう意味があるのですか?」
知ることができれば、少しは恐怖が紛れるだろうか。
「婚礼の儀だ。随分簡略化しているがな。そうでもしなければ、お前の体はここに馴染まない。ここは人間にとって清浄過ぎる」
「そうですか」
物理的に無理強いはしないけれど、結局は同じことか。この水を飲まなければ、私は命を落とすのだろう。
裏切られた訳ではない。けれど、私は残念な思いを抱きながら、盃を呷った。
澄んだ水が喉元を通ると、途端に顔が熱くなった。悲しくもないのに、ぽろぽろと大粒の涙が溢れる。
「なんで」
「不浄なものを体内から排出しているんだ。あやつらの造る酒は不味い」
不味い、か。
あの時は必死で味なんて感じる余裕もなかった。気持ち悪かったことしか思い出せない。あんなに一生懸命祈りを捧げて清めたお酒が神様に不味いと一蹴されるなんて、誰が想像していただろう。
「ふふ」
おかしくて思わず笑うと、龍神は目を細めた。不意打ちのやさしい表情に胸が高鳴る。
それでもなお零れ続ける涙に困惑していると、龍神は私を引き寄せた。
「これでお前はこちら側に属する者になった。お前の体は変質していくだろう」
龍神の大きな手が、しゃくり上げる私の背中を撫でる。せっかく桜と橘が綺麗に化粧してくれたのに、龍神の着物に顔を埋める形になり、私は慌てて彼を押し戻そうとした。
けれど、当たり前だが力は龍神の方が強い。龍神は着物が汚れることも厭わず、声を上げて泣く私を抱きしめた。
「恐ろしいか?」
「……っ、いいえ」
首を振り、神の与える途轍もない安心感に身を委ねた。熱を持った心と体が、軽くなっていくのを感じる。
これは私が選んだことだ。彼は最初に戻れないことを教えてくれた。急に手の平を返した村人達よりもずっと誠実。彼に仕える桜も橘も、真心を込めて私に接してくれた。
他に選択肢がなかったのは事実だが、自分の意志でここで生きていこう。龍神と共に、龍神の花嫁として。
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