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水墨画から抜け出してきたかのような黒光りする鱗、見るものを凍らせる威圧的な瞳。鋭く尖った爪は、ほんの少し掠っただけでも私の命を散らしてしまうのだろう。
俯いた私の目に映る村人達は豆粒のように遠く、村も世界も苦しみも全部、ミニチュアで作られたまがい物のように思えた。
「願いを叶えてやろう」
重厚感のある声に視線を上げると、龍神はゆらゆらと髭を揺らして私を見つめていた。
不思議なことに、龍神の言葉は何の違和感もなく響き、その意味が理解できた。キオとの会話のように、聞き取れなかった音を想像して補完する必要もない。
信じられないことだが、龍神が発した言語は日本語だった。
ふと、急にばかばかしい疑問が湧き上がる。
私が認識したものは、本当に声だったのか?
ここは異世界で、相手は神様だ。何が起きても不思議ではない。神が日本語を話したと考えるよりも、神には言語すら必要なかったと考える方が自然だ。
もしかして、言語を超越した思念のようなものが送られている?
確かめたくて耳をふさぐと、龍神はケラケラと笑った。
「何をしておる」
見ると、龍神の口は動いていなかった。なのに、龍神の言葉ははっきりと聞こえる。さきほどよりも小馬鹿にしたような声で。
「お前の常識で俺を測ろうとするな」
龍神は牙を見せつけるように、顔を私に近付けた。意図は読めない。けれど、害意は感じなかった。
「確かに、あなたは超常的な存在のようです」
しばらく片言で話していたせいか、言葉が思うようにない。苛立ちから、私は顔を顰めた。
「わかっているなら良い」
龍神は言葉の細かいニュアンスも理解しているようだった。敬意が伝わったのか、心なしか態度が和らいだ。
「して、お前の願いはなんだ」
「どうして私に聞くのですか? あなたは村の人達に呼び出された。村の人達の願いを叶えるのではないのですか?」
「いいや、俺はお前に聞いている。その命を捧げる、お前の願いだけを叶えてやる」
きっぱりと言い切るさまが清々しい。言葉の壁がなく、憶測を挟まないやりとりがこんなに心地いいものだとは考えたことがなかった。
それだけに、新しい疑問が心の中に芽生える。
「だったら、どうして今まで雨は降ったのですか?」
龍神の態度は一貫している。仮に私が不遜な態度をとっていたとしても、彼は命を差し出す生贄に願いを問いかけただろう。
けれど、伝承の中の神は生贄と引き換えに雨降らせている。
「みな、口をそろえて雨を降らせてくれと願ったからだ」
「どうして」
龍神は首をうねらせ、雲の向こうにあるだろう太陽を見上げた。その横顔が悲しげに見えるのは気のせいだろうか。
「自分の死を無意味なものにしたくなかったのだろう」
息を吐くように、龍神はつぶやいた。
「私は嫌です。死にたくなんてありません。私を食べないでください」
「それがお前の願いか?」
「あなたが聞き届けてくれるなら、そうなります」
「雨を降らせなくて良いのか?」
ガラス玉のように澄んだ瞳に私の姿が映る。白装束を身に纏った、生贄としての私。
脳裏を過ぎったのはキオだけだった。彼女にだけは苦しい思いをして欲しくない。
「できることなら」
「願いを二つ叶えるというのは道理に合わん」
「そうです、よね。
そうなれば、もう一人生贄が必要になるのですか?」
「お前がいるのに、なぜもう一人要求せねばならんのだ。差し出されたとて受け取りはせん」
私はその言葉に胸を撫で下ろした。
少なくとも、このまま雨が降らなかったからと言って、キオが生贄になることはない。干ばつは自然現象だ。今日雨を降らせることができなくても、いずれまた雨は降るはず。どうか、それまで耐えてほしい。
「私は生贄になどなりたくない。どうかこの願いを叶えてください」
迷いを振り切るように、私は深く頷いた。
「めずらしく我の強い娘だ。わかった。約束しよう。俺はお前を食わぬ。だが、このまま村に帰せばお前の命はないだろう。生贄としてではなく、嫁としてこちら側に迎えよう」
「え……? 嫁?」
「お前の願い、聞き届けた」
そう言うと同時に、龍神は私を手の内に納めた。あっという間に天に昇る。
そして、私は龍神の花嫁になった。
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