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「理想の世界を体験する前に注意事項を言っときますね。えっと、お客さんは、これからやばいぐらいバーチャルなリアリティを体験することになります。体験中まれに事件や事故に巻き込まれることがあります。もし巻き込まれてケガしたり死んだりしたらこっちの世界でもそうなってますから。それを承知でサービスを受ける、ってことに同意してくださいね~」
「え、死ぬこともあるのか」
「ないとは言い切れないっす」
ずいぶんいい加減な話だ。
「わかった」
それでも安井は同意した。
もはやこの世に未練はない。どうせ会社もクビになるだろうし。腹はくくっている。この店長の胡散臭い話に乗ってやろうじゃないか。
「あざっす。それじゃ理想の世界を体験する前に、お客さんの個人情報をまるごとぜんぶ教えてください。隠しごとはなしっすよ」
「おいおい、そんなの必要ないだろ」
「いえいえ、そんなの必要なんすよ。ま、アンケートみたいなもんすから」
「アンケートか」
「そうっす。簡単な質問なのでお願いしゃっす」
店長が二枚目の用紙を取り出す。
「いまの生活に不満をお持ちっすか」
「むちゃくちゃ持ってる。聞いてくれ。いまから十年前、俺はいまの会社で働くようになった。朝は早くから、夜は遅くまで文句も言わずに働いてきた。ところが先日。とつぜん花音が死んで……。俺は悲しみに暮れながら埋葬まで済ませた。もちろん会社には連絡した。花音が死んだから休みますって。ところが喪に服して久しぶりに会社に行ったら、そのあいだの休みを欠勤扱いすると言われたんだ。お悔みの言葉もなく、この仕打ちだ」
安井は花音との思い出が甦り、込み上がる涙を堪えることができない。
「それはご愁傷さまっす」
軽い口調で店長がお悔やみの言葉を口にする。
「すまん。取り乱した。会社なんか正直どうでもいい。本当はもっと違うことが言いたかったんだ……」
安井はこれまで誰にも語ることのなかった過去に経験した地獄のような苦しみを吐きだした。
それは、かつて愛した女との悲しい別れ。
苦しみは年月をかけて彼の胸の奥底に降り積もっていた。
「女なんて、女なんて……」
いったん口からこぼれると堰を切ったように涙が溢れ出した。
「その気持ちわかるっす」
「だから……理想の世界が……どんなものか……見てみた……い……ふぁあ」
延々とつづきそうだった安井の泣き言が途切れはじめる。
安井は大きなあくびをひとつした。勇気を出して内部告発した疲れが出たようだ。
「オッケーっす。そろそろ理想の世界へ誘いましょう」
店長はフルフェイスのヘルメットを安井に被せた。
意外と簡単な装置だった。被るだけでいいらしく、安井はその場に腰掛けたまま、身をまかせた。
パチパチと店長がヘルメットを指先で弾く音がする。
「いまから理想の世界にトリップしま~す。イヒヒ」
薄気味悪い店長の笑い声が聞こえる。
その声もだんだん遠のいていく。安井はたまらなく眠くなった。
視界がぐらりと揺れた。安井は何か途方もなく嫌な予感がした。だがすでに遅い。そのまま後ろ向きに倒れる感覚のあと、強い衝撃を後頭部に受けた。
ヘルメットが床を打つ音を最後に、目の前が暗くなった。
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