理想の世界への誘い

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 カチカチとキーボードを打つ音が聞こえ、安井は我に返った。  グレーの事務机が六台、向かい合わせに並んでいる。  驚いたことに安井は職場にいた。ただ、違うところもある。  昨年、改築したはずの職場が、改築前に戻っている。  つまり、安井は過去に戻っているのだ。  安井はパソコンに向かって受注した商品の入力作業をしているところだった。視線を巡らすと、いまは在籍しない上司と目が合った。 「おい、安井。コーヒーを淹れろ」  上司は安井と目が合うと、つまらぬ用事を頼んできた。 「は、はい。すぐにお持ちします」  安井は条件反射で立ち上がると給湯室に向かった。  西側に位置する給湯室の窓から茜色の光が差し込んでいる。  給湯室から覗く職場の風景がリアルすぎる。過去であるという点をのぞけば、現実とちっとも変わらない。  安井は苦笑いした。  これが胸の奥底に眠っていた理想の世界なのか。  安井の向かいに女性が座っている。しかし、その彼女も今はいない。  彼女の名前は夏美。安井は彼女とつき合っていた。  横柄な上司がいて、夏実も存在する世界。  日中、彼女は上司とどんな会話を交わしていたのだろうか。いつから心変わりしたのだろうか。何度となく考えたことだ。  どんどんあのころの記憶が鮮明になっていく。それはずっと胸の奥底にしまっていた。痛みを伴うものだった。  そうだ。これはあの日だ。だとすれば、このあと忘れることのできない衝撃的なことが起こる。  安井の胸は締めつけられた。  いったいこれのどこが理想の世界なんだ。もとの世界に戻ったら店長に文句を言ってやる。  安井は憤りを感じた。
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