理想の世界への誘い

7/10

18人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
 上司に濃い目のインスタントコーヒーを淹れてやると、安井は向かいの席に座る夏美に声をかけた。 「夏美」  ずいぶん久しぶりだ。  名前を呼ばれた夏美が安井のほうに顔を向けたが、すぐに伏せた。  当然だろう。いまから辛い別れが待っている。この先に待ち受ける未来がわかるだけに、安井の胸は張り裂けそうだった。  午後五時。終業時刻を報せるベルが鳴った。  つき合っていた当時、こんなに早く事務所に戻ることはなかった。外回りで遅くまで走り回る日々だった。だけど、この日は虫の知らせか、早く事務所に戻っていた。 「ほかに好きな人ができたの。ごめんなさい」  夏美は、安井と職場の玄関を出たところでとつぜん別れを告げた。  二度目なのにやはり胸が張り裂けそうだった。  目の前には駐車場があり、その向こうに国道が走っている。彼女がいつも利用するバス停が見えた。  あのとき安井はこう叫んだ。 「うそだろ。俺と結婚するって約束したじゃないか。考え直してくれよ。なあ夏美」  安井の言葉に、彼女は首を振り、「ごめんなさい。わたしが悪いの」そう言い残し、バス停に向かって走り出した。  安井は、彼女の背中をただ見送っただけだった。  だけど今の安井は未来から来ている。  どうしても確かめたいことがあった。 「花音は? 花音のことも嫌いになったのか」  花音は、安井が夏美とつき合い始めたころ、ペットショップで見かけたウサギだ。まだ幼い花音を迎え、ふたりはまるで子どもができたかのように可愛がった。 「花音? 花音は可愛いけど……。でも、あなたが飼うことにしたウサギでしょ」  夏美は涙を浮かべ、安井を見つめた。 「その花音が死んだ。死んじゃったんだよ」  とにかく伝えたかった。なぜならもう彼女には伝えることができないから。 「花音が死んだ? うそでしょ」 「本当だ。いまから五年後。俺が仕事から帰ったら死んでたんだ」 「は? おかしなこと言わないで。悪いけど、もうあなたとは終わったの。さよなら」  夏美が、帰宅ラッシュで車が行き交う国道のほうに駆け出した。その国道に向かって、上司の車が駐車場から発進するのがわかった。  それはまさにあの日の再現だった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加