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上司に濃い目のインスタントコーヒーを淹れてやると、安井は向かいの席に座る夏美に声をかけた。
「夏美」
ずいぶん久しぶりだ。
名前を呼ばれた夏美が安井のほうに顔を向けたが、すぐに伏せた。
当然だろう。いまから辛い別れが待っている。この先に待ち受ける未来がわかるだけに、安井の胸は張り裂けそうだった。
午後五時。終業時刻を報せるベルが鳴った。
つき合っていた当時、こんなに早く事務所に戻ることはなかった。外回りで遅くまで走り回る日々だった。だけど、この日は虫の知らせか、早く事務所に戻っていた。
「ほかに好きな人ができたの。ごめんなさい」
夏美は、安井と職場の玄関を出たところでとつぜん別れを告げた。
二度目なのにやはり胸が張り裂けそうだった。
目の前には駐車場があり、その向こうに国道が走っている。彼女がいつも利用するバス停が見えた。
あのとき安井はこう叫んだ。
「うそだろ。俺と結婚するって約束したじゃないか。考え直してくれよ。なあ夏美」
安井の言葉に、彼女は首を振り、「ごめんなさい。わたしが悪いの」そう言い残し、バス停に向かって走り出した。
安井は、彼女の背中をただ見送っただけだった。
だけど今の安井は未来から来ている。
どうしても確かめたいことがあった。
「花音は? 花音のことも嫌いになったのか」
花音は、安井が夏美とつき合い始めたころ、ペットショップで見かけたウサギだ。まだ幼い花音を迎え、ふたりはまるで子どもができたかのように可愛がった。
「花音? 花音は可愛いけど……。でも、あなたが飼うことにしたウサギでしょ」
夏美は涙を浮かべ、安井を見つめた。
「その花音が死んだ。死んじゃったんだよ」
とにかく伝えたかった。なぜならもう彼女には伝えることができないから。
「花音が死んだ? うそでしょ」
「本当だ。いまから五年後。俺が仕事から帰ったら死んでたんだ」
「は? おかしなこと言わないで。悪いけど、もうあなたとは終わったの。さよなら」
夏美が、帰宅ラッシュで車が行き交う国道のほうに駆け出した。その国道に向かって、上司の車が駐車場から発進するのがわかった。
それはまさにあの日の再現だった。
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