18人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
安井は夏美の背中を見つめながら胸の奥に広がる苦しみを噛みしめた。
ずっとあの日のことが忘れられないでいた。
それは意識するわけでもなく、花音を抱きしめたとき、名前を呼んだとき、ふとした瞬間に甦った。そのことが安井を苦しめてきた。
彼女の背中がどんどん小さくなっていく。
安井は夏美のあとを追って走った。
彼女が国道に踏み出そうとする寸前、安井は彼女の腕を引いた。入れ替わるように安井は道路に投げ出される。
耳元でタイヤの鳴る音が響く。
強い衝撃を感じ、視界が反転した。
地面に横たわったとき、車のドアの開く音がして、上司の絶望する声が聞こえた。同時に彼女の声も聞こえたような気がした。
これで彼女を行き先もわからない恋路から守ることができたはずだ。
安井の体は動かない。
店長に言われたとおりなら理想の世界で負ったケガは現実につながるらしい。つまり安井の命はここで尽きるのだ。安井はそれでいいと思った。
あの日から、ないに等しい人生だった。
あの日。彼女は、バス停に車を滑り込ませた上司の車に飛び乗り、行方知れずになった。
いわゆる駆け落ちだ。上司には妻と娘がいた。
夏美が他の男を愛したとしても仕方がない。だけど、それは誰かを悲しませるものではなく、誰からも祝福されるものであってほしかった。
それこそが安井の求める理想の世界だった。
安井は目を閉じる。
やがて暗く光のない世界へと静かに沈んでいった。
最初のコメントを投稿しよう!