理想の世界への誘い

1/10
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
 安井慎一は賃貸マンションの駐車場に車を止めた。  単身者用のワンルームマンションの前に数台分の駐車場がある。家賃とは別に毎月五千円も支払っている。営業職でなかったらとっくに車は手放していたことだろう。  自前の車で営業をさせるような会社だ。おまけに安月給ときている。それでも必死に耐えてしがみついてきた。安井に抜きんでた才能はない。転職などもってのほか。いまの道から別の道に踏み出す勇気もなかった。  車から降りると地面に影が伸びた。  太陽は西に傾いているとはいえまだ明るい。いつもならこの時間、外回りで仕事をしている。  早めに退社できたのには理由がある。先日、会社に労働基準監督署が立入調査に入った。サービス残業による不当な労働を強いられていると匿名で内部告発があったというのがその理由だ。  監督官には個室が用意された。その個室にひとりずつ従業員が呼び出され、労働基準法に照らして質問をされた。もちろん安井もだ。 「タイムカードは定時で打たれていますが、間違いありませんか?」 「その打刻は上からの指示で事務員がまとめて押しているものです。じっさいはその打刻とは関係なく、毎晩遅くまで仕事をしています」  監督官の質問に安井はハッキリと不当な労働を強いられていることを告げた。  そもそも内部告発したのは彼だ。他の従業員がどう答えるか、それは彼にもわからない。ただ安井は会社に対してキレていた。  全従業員からの聞き取り調査は丸二日間にも及んだ。労働基準監督署から調査結果が届くまで、従業員は定時に帰れるようになった。  早く帰れるのも今だけだろう。今ごろ会社のお偉いさんたちは、内部告発した人間を血眼(ちまなこ)になって捜しているはずだ。  バレたらどうなるだろうか。イジメのような業務を与えられ、辞めるまでいびられつづけるのだろうか。  もしバレたら……。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!