30人が本棚に入れています
本棚に追加
『感謝』
石上と里子が通っていた屋台の
店主の 名前は 江崎武蔵
以前は、料亭の調理場を
任されていた料理人。
そして、妻逸子は武蔵と一緒に
働いていた女中頭を務めていたそうだ。
独立をするため料亭を円満退職した武蔵は、
昼間は、定食屋で働き、夜は屋台を出し、
妻、逸子も夫を助けるために、旅館の仲居
として働き開業資金を貯めていた。
ふたりのことを聞いた石上と里子。
「そうだったんですね。
ここまでくるまで、苦労されたんですね」
里子が武蔵に言った。
「ところで、武蔵さん、
『お店の名前』は何てゆうのですか?」
石上が聞いた。
「店の名前は『朝露』っていうんですよ……」
と武蔵が言った。
「『朝露』……」石上が呟いた。
すると、逸子が石上を見ると、
「この人、こう見えて小説が大好きで、
暇な時間によく小説を読んでるんですけど、
彼の大好きな作家さんが世に出た代表作を
どうしても、『店名』にするんだ!って
言って……。
この人があんまり言うから、私もその小説を読んだら、もう感動しちゃって、だから即答でこれにしちゃおう……って」
「俺の大好きな作家『石上徹』この人の
作品にどれだけ、心救われたか……
『片陰』って作品も、まさに
『男の生きざま』
が描かれて……落ち込んでた俺を
支えてくれた小説なんですよ……」と武蔵が語った。
武蔵と逸子の話を聞いていた石上と里子の瞳から涙が流れた。
「え?旦那……石上さん、どうしたんですか?山辺さんも……」慌てる武蔵に逸子が……
「石上さん……石上、もしかして……
石上さんって『作家の石上徹』さん
なんですか?」
「ちゃんと、人の心に刺さってるんですよ
あなたの作品は……」そう呟く里子。
驚いて椅子から立ち上がる武蔵に、
石上が涙を拭くと
「武蔵さん、ありがとう。
僕の小説を愛してくれて、
僕の小説が誰かの心を揺さぶる……
誰かの支えになってたなんて……
心からあなた方に感謝します」と言うと
深々と頭を下げた。
「え~、旦那が石上徹さんだったなんて……」
そう言うと、武蔵は荷物の中から、
二冊の本を取り出すと
マジックと一緒に石上の前に差し出した。
「石上先生……これにサインをしてください」
差し出された二冊の本。
何度も何度も読み込まれたと思われる
ページについたしわと
油のしみついた。
小説 『朝露の君』と『片陰』
石上は優しく微笑むとマジックを受け取り、
台の上に本を置くとページを開く。
『江崎武蔵さんへ
心から感謝します。ありがとう
昭和五十九年三月 石上徹』
と記すと頬をつたう涙をそっと拭いた。
最初のコメントを投稿しよう!