通じる言葉、読めない文

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通じる言葉、読めない文

 歳神様とお話ができるようになると、さらに一日があっという間に過ぎるようになった。  千載府のいたるところに自生する木々に緑の新芽が芽吹き、花を咲かせ、実をつけると、神官の目を盗み、それをもいで歳神様と一緒にこっそり食べたりした。四季の庭に植えた夏野菜も丁寧に育てているお陰で大きく育ってきているけど、収穫はもうちょっと先になりそう。  お天道様がご機嫌な時は歳神様が私を散歩に誘い、千載府より奥まった場所にある神域の、美しい景色を見せてくれる。  たまに暦姫としてのお勤めがあるけれどなんの苦もない。私はのびのびとした日々を過ごしていた。  歳神様の過ごす時間は、今までに感じたことのないほどの多幸感にあふれていて、この時間が永遠に続くことを願ってしまうほど。  柔らかい土の匂いの混じる春風の季節が通りすぎ、燦々とお天道様が照る夏の季節になってもこんな生活が続いているなんて最初は考えてもいなかった。  でも幸せな時間を過ごせば過ごすほど、歳神様の思いとは裏腹に、私の中には不安ばかりが積み重なっていく。  この幸せな日々が終わった私は、果たして元の生活に戻れるのだろうかという不安。  私をただの身代わりとして石牢に放り込んだ父のことだ。きっとただでは私を帰してくれないに決まっている。  鬱々とそんなことばかり考えていれば、目をそらしたい現実から目をそらせることもできない。  歳神様との憩いの時間に影を差すように、今日もまた源順様から一通の文を渡された。  私はそれを読みもしないで懐にしまった。いつものように部屋の片隅に置いた櫃の中に適当にしおうと考えていれば、何を思ってか、今日に限って歳神様がその文に興味を示した。 『暦姫。いつも文を読まずに仕舞いこんでいるようですが、読まなくて良いのですか』  庭で牛の腹を背もたれにして日向ぼっこをしている時だった。  手紙を受け取り、源順様が千載府のお宮の建物に戻っていくのを見届けると、牛が不思議そうな声で鳴く。  私はそれに苦く笑った。 「読みません。というかそもそも読めません。私、字が読めないので」  こてん、と牛がさらに不思議そうに首を傾ける。 『文字が読めないのですか?』  私は頷く。  歳神様は私が文字を読めないことが意外なようで、つぶらな瞳を真ん丸にさせた。 「以前言いましたが、私は双子として生まれました。妹は両親の元に置かれて可愛がられたようですが、私は都から遠く離れた農村に捨てられたのです。村では野良仕事や手仕事ばかりで、文字なんて必要なかったんです。私が知っている文字といえば自分の名前と数くらいですよ」  首をすくめながら本当のことを告げれば、牛が私の手にある文を見つめる。 『文字を読めないことを、手紙の主は知っているのでしょうか』 「さぁ……知らないんじゃないですか? だから懲りもせず文を送るのかと」  文の主は父の皮を被った鬼であることは、文を届けに来てくれる源順様が教えてくれる。  どうして私に文を送ってくるのか、きっと読んでみれば分かることなのだろうけれど、あいにく私には無理なこと。  忌々しい年の瀬のことを思い出したくもないから、私はこの文を見て見ぬふりをする。  何事も無かったかのように文を懐に仕舞おうとすれば、その袖を牛が咥えて押し止めた。 『その文、私に読ませていただくことはできますか?』 「歳神様に? いいですけど……」  文を読みたがる牛に、別に減るものでもないからと思って文を広げて見せた。  黒くてつやつやした瞳が、上から下へと流れていく。くりくり動く牛の瞳はなんだか可愛らしくて、牛が文を読む間、私はその瞳を見つめていた。  そんなに長い時間をかけずに文を読み終えたらしい牛の瞳が私に向けられる。私は首をかしげながら言葉を待った。  牛は首を巡らせると、私の膝にぽすんとその頭を乗せる。 『……人とは実に欲深いものですね』 「どうしましたか? 何が書いてあったんですか?」 『いえ、たいしたことは。ただの季節の便りですよ』 「本当に?」 『おや、仮にも神の端くれである私の言葉を疑うのですか?』 「そんなことはないですけど……でもあの人が季節の便りを送るなんて筆まめな人とは思わなかっただけです」  思ったことをそのまま言えば、牛は苦笑いをするかのように小さく鳴く。 『ところで暦姫。貴女の願いはなんでしょうか』 「唐突ですね。どういう風の吹きまわしです?」 『唐突ではありませんよ。もうそろそろ夏至も近い。貴女との日々がようやく半分過ぎようとしているのです。暦姫は一年のお勤めの褒美として、主神より一つだけ願いを叶えてもらえるのです。その願いは決まっているのですか?』  寝耳に水とはまさにこの事で、私はぶんぶん首を横に振る。 「初めて聞きました。願い事って、なんでも叶えてもらえるの?」 『主神に可能なことであれば』 「そう……」  なんでも、と言われると難しい。  主神といえば国の守護神だ。そんな存在に直接お願いを聞いてもらえるなんて畏れ多くて、そうすぐには思いつかない。 「んー……そうだね。来年からも今みたいに平和に過ごせたらなとは思うかな」  結局出てくるのは無難な言葉だ。 『暦姫、貴女の思う平和とは?』  牛が私の言葉を掘り下げるように尋ねてくる。  私は指を折りながら、前までの生活と今の生活を比較して満足していることを挙げていく。 「ご飯が毎日食べられて飢えがないこと。温かい場所で眠れること。綺麗な服が着れること……野良仕事は大変だけど、せっかく育てた野菜が駄目にならないこともそうね。あとはそう……やっぱり命の危険がないことかしら」 『命の危険……ですか?』  想像がつかないのか、牛が私の顔を見上げてくる。  私はそんな彼の頭をゆっくりと撫でた。 「日照りや大雨で作物が採れなければ飢えてしまうし、嵐が来れば脆い家なんて吹き飛んでしまって怪我をする。山菜や木の実を採りに山に入れば獣に襲われるし……なにより、税が払えなければ役人に笞で打たれて、当たり所が悪ければ死んでしまう。国の端の村なんてどこもそんなものです。目が届かないからか、横柄な領主が多くて貧しくなりやすいの」 『そんなにも酷いのですか、この国は』 「全部じゃないけれど、そういう場所もあるっていう話です」 『ですが、暦姫はそういう場所で過ごされていたのでしょう』  じぃっと黒い眼が私を捉える。  私はやんわりと笑って見せた。 「そうね……でもなんとか暮らせるくらいにはゆとりはあったし、今はとても穏やかです。この一年がたとえ私にとって幻のようなものだとしても、この幻のような幸せで穏やかな時間を過ごせない人は沢山いるの。そんな中で当たりくじを引かせてもらえた私はとても運が良かったと思うんです」 『では、主神に今と同じような生活がしたいと願えばいい』 「それは……贅沢です。歳神様、人には身分相応という言葉があります。私は所詮、今ここに居ることすら烏滸がましい最下層の人間なのだから」  何気なく言った牛の言葉を受けて、言い聞かせるように伝えれば、牛はよくよく何かを考えるように目をつむる。  そして目を開いたときには、今度は私が諭されるように言葉をかけられた。 『……この国の加護は、神の血を引く者が多い場所ほど、その加護が届きやすいのです。あまり知られておりませんが、初代皇帝と暦姫の血筋には主神の血も流れています。だから彼らの血を引く者が多い都では神の怒りを買わない限り、大地の災いなどは無縁です。おそらく辺境のほうが荒れやすいのは、神の血を引く者が少ないからなのでしょう。であるならば、神の血を引くものを増やせば良いのです』  簡単なことですよと言う牛に、私はいやいやと首をする。 「そんなほいほい神様の血を増やせられないですよ。貴族は辺境の田舎になんて来たがらないのですから」 『直接、神を降ろせば良いではありませんか』 「それこそ難しいでしょう」 『簡単ですよ。私が行きましょう。暦姫、私とのんびり田舎暮らしをするのはどうです?』 「歳神様と?」  まさかの提案に私は目を丸くする。  そして牛の言った言葉を脳内で反芻した。  えぇと、神様の血を増やせば、辺境の田舎でも豊かになるということだったはず。  それは、人ではなくて、牛でも良いってこと?  目の前にいる牛が、私の育った村でのんびり農耕に勤しみ、それに相応しい牝牛とつがい、繁殖していくのを想像した。  ……人間よりも早く繁殖しそうで、それはそれは頼もしい申し出かもしれない。  でも人語を解する目の前の牛が他の牝牛とつがうことに、ちょっとだけ疎外感を覚える。この半年、常に私と一緒にいたのに、ポッと出の牝牛にあっさりと取られてしまうのはなんだか胸の辺りがもやっとしてしまった。  それでもこの牛の申し出で村が飢えることなく豊かになれるのであれば、この牛のためにお嫁さんを探すことこそ私の唯一の恩返しなのかもしれない。  私は一人拳を握って、牛に、宣言する。 「歳神様が降臨される際は、素晴らしい牝牛をお迎えしないとですね! 私も伝をたどって良いお乳の出る牝牛を探します!」 『そうですね、良い牝牛は何頭いても困らないものですからね』 「……歳神様、大胆です! でも沢山歳神様の御子様を生むには確かに沢山牝牛がいた方がいいですよね!」 『え?』 「どーんと任せておいてください。私が生きて村に帰れたら、沢山牝牛を用意しますので! もし私が帰れなくても、私の養父に話せば牝牛をいくらでも用意してくださいますよ」 『………………………何か多大な誤解を受けているような気がするのですが、暦姫?』  不安そうな声音で牛が鳴いてるけど、大丈夫です。  私が責任もって歳神様のお嫁さんを探しますので、安心してうちの村に来てくださいな。 『私の伴侶は貴女のつもりなのですが……これは聞いていないですね』
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