偽りし暦姫の末路

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偽りし暦姫の末路

 あっという間のもので、ここまで早く感じられた一年は初めてだった。  池には氷がはり、雪がちらつき始めた冬の始まり。  暖めた部屋でうとうとと微睡んでいると、私の鼻に湿った何かが触れた。そしてべろりと私の唇を濡れた生暖かいものが撫でていく。  ぱちりと目を覚ませば、牛の無垢でつぶらな瞳と目が合った。 『こんなところで寝ると風邪をひきますよ』 「ん、起こしてくれてありがとう」  私は甘えるように目の前の牛の額と自分の額をこすり合わせる。もう植物も育ちにくくなった四季の庭の手入れもほどほどに、部屋のなかで牛の腹にもたれながら編み物をしていたのだけれど、どうやら寝てしまったみたい。  私は鉤針と編みかけのそれを横に置くと、ぽふりと牛に再びもたれて目を閉じる。うりうりとその腹に自分の顔を押しつければ、牛の暖かさに再び微睡みたくなってくる。 『どうしました、私の暦姫。今日はやけに甘えん坊ですね』 「うん……もう冬なんだなって」 『そうですね。もうすぐ一年が終わります』  しみじみと呟く牛に、私は切なくなる。  どうしてだろう。  ここに来たときは、自分が偽物であることの罪悪感と、もし生きて帰れたとしてもあの毒父の手を逃れられるかの不安さから、来年のことが考えられなかったのに……。  今は、この牛が隣にいない来年を考えられなくて不安になる。  私は獣臭くない、日だまりのような牛の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 「ねぇ、歳神様」 『はい、なんでしょう。私の暦姫』 「名前を呼んで? 飛燕って」  小さな我が儘だ。  それなのに牛は困ったように鳴く。 『私の暦姫。それはまた来年。貴女がこのお役目を終えたあとに』 「どうして? 名前くらい呼んでくれたって良いじゃない」 『そういう決まりなのです。今年一年は私は歳神、貴女は暦姫としての役目があるのです。だからどうか、そんな拗ねた顔をしないでください』  また牛が私の鼻に自らの鼻をくっつけて、べろりと唇を舐めてくる。  最近増えたその触れあいだけでは物足りなくて、私も同じように鼻と鼻を合わせて、ぺろりと牛の口を舐めた。  つぶらな黒い瞳が驚きつつも、嬉しそうに細められる。  私もつられてへらりと笑った。  冬が来た。  ひととせの終わりを告げる、冬が来た。  ◇  初めて千載府にやってきた時のように、お宮の外は雪化粧で染まっていた。  しんしんと降り積もる雪の中、私はここに来た時と同様の白い衣に身を包み、目の前の牛へと最後の挨拶を交わす。 「歳神様。今年一年、良き恵みをありがとうございました。私はひと足早く、人里へと戻らせていただきます」 『私の暦姫。縁があれば再び逢えるでしょう。残りひと月、我らの代替わりを経て貴女のお役目は終わります。皇宮でのお役目もどうか立派にお務めください』  いつもと変わらず、慈愛に満ちた柔らかな声で話す牛にこれがお別れだなんて実感は薄くて、私はこくりと頷くだけ。  なんとも呆気ない別れを告げた私は、源順様に促されて輿へと乗り込む。  皇宮に向かう輿は私を乗せてゆっくりと動き出した。  しん、しん、しん。  しん、しん、しん。  行きと同じ、まるで音のない世界のような匣の中で、私は一人膝を抱える。  皇宮に行った私はどうすれば良いんだろう。養父にも言われたけど、貴族の振る舞いなんて分からないから、そういった貴族らしい場面が必要にならないことだけを願ってる。  でもそんな甘いことは言っていられないよなぁと思って、一人でつらつら考えていると、長い時間をかけてゆったりと進んでいた輿が止まった。  無音だった世界に細々とした人の声が聞こえた。  一人は源順様で、もう一人は聞き覚えのあるような、ないような声だった。  耳を澄ませていれば、千載府の宮のある山を下り、皇宮の区画へと入ったらしく、ここからは皇宮の人間が私の輿を運んでくれるらしい。  他人事のようにそれを聞いていたら、再び輿は動き出す。そして幾ばくの間も無くすぐに輿は止まった。  ようやく最後のお勤めか――そう、思ったけれど。 「降りろ」  冷たく降りかかる声と共に、輿の乗り口の戸が上がる。  言われるがままに降りた私の目の前には、氷のように冷ややかな目をした毒父と、鼻高々に私を見下している妹がいた。  私がどういうことかと首を傾げる間もなく有無をも言わせぬ暴力で私を輿から引きずり下ろした父は、私がそれまで乗っていた輿に妹を乗せると、輿と共に去っていく。  取り残された私はと言えば、兵士のような人達に乱暴に引きずられて、いつかのような冷えきった石牢の中へと閉じ込められた。  連れて行かれる時に騒ごうとして殴られたせいで、体のあちこちが痛む。石牢では手当てをされることも、これから本格的な冬が始まるというのに防寒具が与えられることもなかった。  せめて熱を逃がさないように膝を抱えて、部屋の隅でまんじりと時間が経つのを耐えるしかない。底冷えする石牢は待てども待てども誰もやって来なくて、明かり取りの小さな窓から月明かりがわずかに入り込むのを見て、食事すら与えられない事実に愕然とした。  水だけは水瓶に入っていたからそれを汲んで飲むけれど、あまり飲みすぎても体が冷えるだけでよろしくないなと、どこか他人事のように思う。  結局今年の年末も牢屋の中で過ごすことが決まって、私は面白くもないのに笑ってしまった。笑う声に紛れて、喉の奥につまる何かがこぼれでる。  昨日まで一緒にいた牛の温もりがとても恋しくてしょうがなかった。  ひとりぼっちの寂しい牢の中で、昨日までの日々を目蓋の裏で反芻する。  実の家族からは疎まれ、土まみれで小汚なかった私に不釣り合いな、幸せな日々だったなぁ……なんて。  来年を迎えられる希望の見えないまま、私は幸せだった日々を思い返して、一人の孤独感と先の見えない人生から目をそらした。  ――私が牢に入ってからどれほど経ったのだろう。  とっくに寒さで手足の感覚はなく、水で空腹をまぎらわせるのも限界で、果てのない飢餓感に支配されていた。  目を閉じるごとに鈍っていく思考は、おそらく自分の死が近づいていることを予感させた。  ふわふわとした闇のなかに溶けていくようで、悲しいけど怖いとは感じなかった。  死んだらどこに行くのかな。  悪い魂は地の底へ、良き魂は天へと上るというけれど、私の魂は歳神様を騙そうとする蔡家の悪党の血が流れているから、地の底に行くのかな。  でも叶うならば、地の底に行く前にもう一度だけ、あの牛の温もりを感じてみたかった。  とろりとした微睡みのなかで、私はそう願う。  あの牛の側はとても居心地が良かったから。  温かくて、優しくて、まるで穏やかな日だまりのなかにいるような、あの感覚。  そんなことを、途切れがちな思考のなかで延々と思っていたからだろうか。  不意に体にじんわりとした熱が伝わってきた。  全身を包むようなその熱は、温かくて、優しくて、まるで切望していた日だまりのなかのようで、私は重たい目蓋をぐっと持ち上げる。  定まらない視界の中で、大柄で逞しい体躯の男の人の腕に抱かれていることだけを、なんとなく理解した。  その顔にどこか見覚えがあるけれど、どこで見たのかは思い出せない。  誰何しようと口を開く前に、ガシャンと大きな音がした。 「暦姫がいるのはここか!?」 「騒がしいですよ、皇帝陛下。姫君の体調に障ります」  視線だけを音のする方に動かすと、石牢に似つかわしい、見たこともないくらい豪奢で重たそうな衣装を着た男の人が、ぞろぞろと沢山の人を引き連れてやってきた。  大男の言葉から先頭に立つ豪華な衣装に身を包んだ人が皇帝陛下なのだと理解した。皇帝は石牢の格子を越えると、私を抱いてる大男に気がついて驚いたように目を見開く。 「そなたは……!?」  声をあげて動揺する身なりの良い人を一瞥すると、大男はまるで宝物のように私の体を丁寧に抱き上げた。  ふわりと浮き上がる感覚。  足先が宙に揺れる。  それを見た身なりの良い人が、慌てたように私たちの前を遮り制止する。 「待て、暦姫を連れてどこへ行くつもりだ!」 「姫君の望む場所に行くだけです。それが私の暦姫の願いですので」  私の暦姫。  少し前まで聞いていたのに懐かしさすら感じるその響きに、私は沈みそうになる意識をもう少しだけ持ち上げた。 「……歳神よ。暦姫の望みとはどのようなものか教えてもらっても?」  厳かな声音で皇帝が大男に尋ねる。  大男はふっと笑うと、落ち着いた声で皇帝の疑問に答えた。 「喜ぶと良いですよ、皇帝陛下。私の暦姫の願いは護国豊穣です。それも古より続く契約の地のみではなく、今の国の大きさに見合うほどの。すぐには難しいでしょうが、末端にまで神の血を巡らせられれば、主神の約定のもと、また千年の栄華が見込めましょう」 「それは主神が叶える願いであると?」 「是。私のこの姿こそが、主神が暦姫の望みを叶えた形でございます」 「そうか……」 「お待ちくだされ、主上!」  声が増えた。  荒く、怒気をはらんだ声が石牢の中で響いて反響する。 「一年もの間、お勤めを果たした我が娘を偽物と断じるとはあんまりにもございませぬか! 労われこそすれ、断罪されるなど、あってはならぬことでございます!」  石牢の外側でひしめく人波を選り分け、怒りで顔を赤くした男が石牢に入ってくる。  耳障りな声をあげるその人を、皇帝が冷えた視線を向けた。 「どの口でそれを言うのか蔡尚書。そこな娘が真の暦姫であると主神は託けた。そなたこそ、これは皇帝たる余だけならず、神をも裏切る手酷い行為であることを理解しておらぬのではないか?」 「これは異なことを。そこの娘こそ偽の暦姫でございます。双子の片割れである玉環を羨むあまりに愚行を犯そうとした愚女であり、こうして折檻しておるのです。誉められこそすれ、私が諌められる理由にはなりますまい。主上こそ、主神の託宣を読み違えたのではないのですか?」 「人の世の理では埒が明かぬな……歳神よ、そなたからも何か言え」  尊大な言葉を区切りに、場が唐突に静まった。  その頃になってようやく、私もこの状況をようやく飲み込めてきた。  皇帝陛下と私の実父が、私が偽物の暦姫かどうかで言い争ってる。  そして私をまるで宝物のように腕に包んでくれている人こそ―― 「どうやら私の暦姫は家族の縁と薄いようです。可哀想にとも思いますが、重畳とも言えましょう。私が娘をさらっても誰も文句は言わないのですから。皇帝陛下、どうぞ語り継ぐと良い。私は主神の御使いの中で一等温厚な性質であるけれど、愛し子を虐げられても許せるほど、できてはいない」 「それはつまり?」 「御使いではありますが、歳神たる私には末端の神として神の権能一部の使用が許されています。その権能を行使し、偽の暦姫を名乗った蔡家の姫に祟りを下しましょう。この縛りはその親、子、その子、の四代に渡るものとします。偽の暦姫であれば、その胸に祟りの証たるアザが浮かびあがります。その痣の有無で、真贋を見極めれば良い」  大男の言葉に、顔を真っ赤にしていた父がみるみるうちに青ざめていくのを見た。  それを見て多少の溜飲が下がったのか、大男は私をしっかりと抱き直すと皇帝へと視線を向け直す。 「皇帝陛下よ。どちらにせよ歳神たる私はこの娘こそが本物の暦姫であると確信していますので、この娘の身はいただきます。私の暦姫が衰弱死でもしたら、その責は皇帝にまで及びましょう」  ゆっくりと身体が揺れて冷えた風が頬を撫でた。  大男が私を抱いて歩きだし、石牢の格子をくぐる。  だんだんと遠ざかる人々のざわめきの向こうから、「至急、蔡玉環の胸を調べろ!」と「ご無体な! 主上!」と叫ぶ声が聞こえたけれど、私が意識を保っていられたのはそこまでだった。  何度目か分からない闇が私を誘ってる。  本当は私を抱く人の顔をよく見たいのに、それも叶わなくて。  くたりと体を預ければ、子守唄のようにとくとくと私を抱く人の心音が聞こえてくる。  温かい。  優しい匂い。  お天道様の下で日向ぼっこをしているような柔らかな気持ち。  どうしてかな、安心する。  もう大丈夫だと思った。  歳神様は私にちゃんとご褒美をくれたんだ。  それも私が望んでいた以上の形でくれたようで。  こんなにも胸の内を満たす感情があること。それを知る機会を与えてくれたことだけは、あの父と妹に感謝すべきかな。
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