エピローグ

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エピローグ

 その日を境に、僕のスマートフォンは、姉からの着信を告げることがなくなった。頻繁にやりとりをする友人は学校にはいないから、大輔や渚からの着信があるくらいのもので、静かな毎日を送ることになった。  夏休みは平穏無事に終わり、九月。  新学期になっても、人数の減ったクラスに増員があるわけではなかった。  篤久は夏休みの間に退学届を出し、通信制の学校に編入した。  事件から日は経っていても、篤久の愚行は、忘れられていない。彼の毒牙にかかった女子生徒は、決して彼のことを許さない。周囲の人間も同じだ。                                                                  そんな場所に戻るよりも、逃げることを選ぶのは、賢明だ。  美希の座っていた席は、新学期を機に、撤去された。花を用意するのも、最初は持ち回りだったのに、最終的には遠藤がすべて負担をしていたっけ。                                                                                                                                                   彼女もいない今、「席がある方が、美希のことを思い出してしまって悲しい」という、通るようで通らない理屈が、なぜか満場一致で可決されてしまった。  遠藤からは、やっぱり何の音沙汰もないらしい。兄妹ふたりきりでの楽園をどこかで築いているのだと思うと、やっぱり喉に酸っぱいものが上がってくるので、彼女のことを考えるのは金輪際やめにしたい。  青山と渡瀬も、始業式から欠席していた。何もなかった素振りで登校できるほど、彼らも図太くなかったらしい。ふたりとも、別の学校に転校するんだろうな。僕はぼんやりと思った。  そしていなくなったのは、彼らだけではなく――……。  放課後、糸屋に向かう僕を呼び止めたのは、大輔だった。まだまだ夏休みらしい、渚の姿も横にある。  商店街のおばさんたちの間では、ふたりがいつの間にか恋人になったと持ちきりで、先日は、とうとう魚屋の親父さんのところに、大輔が挨拶にいって吹っ飛ばされただとかなんとか。おばさんネットワークとは、かくも恐ろしいものであった。 「よぉ」 「こんにちは」 「今日も行くのか?」  僕はかすかに頷いた。糸屋へ、通い慣れた道を三人で歩く。  わいわい言いながら先を行くふたりの後ろを歩き、こっそりと、ポケットの中に入れた糸切りばさみを握った。  姉に対抗するための武器として、糸子から借りた、例のはさみである。  自分に絡みつく黒い糸は、一度も見ることがなかった。姉の消滅とともに、本当に切れてなくなったのかは、わからない。  だが、もはやどうでもいい気分になっていた。黒い糸は、ひょっとすると姉からではなく、僕から出ていたものかもしれない。  篤久が、美希を求め続けていたのと同じように。  僕が姉の死を信じられず、彼女を敬愛し、求め続けるがゆえに、真っ黒な糸になってしまったということも、考えられるのではないか。 「ごめんくださーい」  古民家然とした店の前に着くと、大輔が扉を叩いた。反応はない。鍵がかかっていて、人の気配がない。  消えてしまったのは、糸子も同じだった。  僕が死闘を演じた次の日、糸切りばさみを返そうと訪れたときには、もう誰もいなかった。  関係の糸が切れるようにぷっつりと、彼女は行方をくらました。  彼女はいったい、なんだったんだろう。  僕は最近、毎日のように考える。  人間離れした女は、さようならすら言わせてくれなかった。貸してもらった糸切りばさみは、いつでも返せるように持ち歩いていたら、すっかり自分の持ち物のようになじむようになっていた。  このはさみを握っているときに限り、僕には見えるようになっていた。  大輔と渚の間に、輝く赤い糸が。  人と人との間に、関係性の糸が見えるようになったのは、このはさみを通じて、糸子の力を分け与えられているからだろうか。 「なんだったんだろうなあ、あの人」 「さあ」  人間が縁を繋ぎ、切り、関係性を育んでいく過程を見ることしかできないと言った彼女は、きっとどこへ行っても、同じことをするだろう。  諦めた大輔と渚は、一緒に行こうと誘ったけれど、丁重にお断りした。 「せっかくのデートなんだから、僕みたいなおまけはいらないでしょ」  言えば、真っ赤になったふたりの顔を拝むことができる。怒っているけれど、本気じゃない。照れ隠しなのがわかるから、僕はバイバイと手を振った。  少し離れたところで、どちらからともなく繋がれる手を、僕はまぶしい思いで見つめる。赤い糸がより合わさって、太く、強くなる。  いろんなことがあった。本当に。傷ついたし、傷つけた。命すら、危うかった。  それでも最後に、大輔と渚が相思相愛結ばれた結果だけを見れば、じゅうぶんにハッピーエンドだった。  人生というのは、そういうものなのかもしれない。  僕は歩き出す。自分自身の生活へ。  一度だけ、店を振り返った。  このはさみがある限り、僕は糸子と繋がっている。  そんな気がした。  いつかは店をやろう。糸子のことを忘れないように。  僕は彼女みたいに偏執なタイプじゃないから、糸だけじゃない、他の裁縫道具もちゃんと揃えて。  ああ、売るだけじゃ芸がないな。僕はもっと、このはさみをはじめとして、ちゃんと道具を活かせる人間にならなければ、店主は務まらない。  何せ僕は、糸子のようにカリスマ的な美貌だけで、人を惹きつけるような人間ではない。  そして、赤い糸をドキドキしながら買いに来た人には、心から、前向きな気持ちでこう言うのだ。 「ごえんのお返しでございます」  と。  僕は糸を切っては紡ぐ、そういう星のもとに生まれついた男なのだから。  (了)
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