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糸屋「えん」
十二月を師走というが、「師」を「教師」に限定すれば、四月も同じくらい慌ただしいものだと、端から見ていて思う。
一年でやらなければならないカリキュラムは決まっていて、それなのに、健康診断やら歓迎会やらで、授業時間は限られる。五月末の中間テストは、範囲が狭くなりそうだともっぱらの噂だった。
連休でほっと一息ついたのもつかの間、中学の知識を前提として、ガンガン進んでいく授業に、ちらほらと離脱者が現れ始めた。
あてられても「わかりません」、授業中にスマホをいじり始めて、先生の話を聞いていない。僕の席は前方だが、そういうのは気配でわかるものだ。
ちんぷんかんぷんで、勉強を放り出す、その筆頭が我が親友。
小学校のときから野球一筋だった篤久が、入試のときに詰め込んだ知識は、春休みの間にすべて失われていた。
今も部活に打ち込んでいたならばマシだったのだろうが、篤久はすでに退部して、今は僕と同じ帰宅部である。
曰く、先輩がえらそうでどうとかこうとか。甲子園に行けるわけでもねぇのにさぁ、と、彼は唇を尖らせて、スマホを弄っていた。
そんな篤久が、放課後にまっすぐ僕の席にやってきたものだから、てっきり、「ノート貸して」「今日の宿題、一緒にやろうぜ」という類だと思っていた。
高校三年間、そしてその後の進路を考えたときに、すべてを他人任せにするのはよくない。「お願い」と両手を合わせ、下から覗く形で頼まれると、僕は断れない。
情けは人のためならず。回り回って、自分のためになるということわざが、僕の座右の銘だ。
実際、誰かを助けたことで自分にも利益があった……という具体的な実績があるわけではないが、そのうちきっと、いいことがあるに違いない。
僕にその言葉を教えてくれた人は、「相手の弱みを握っておくことで、いずれ確実に返してもらえるわよ」と、笑っていたっけ。
一応の苦言を呈する準備はした。写すんじゃなくて、まずは自分で一回考えろよ、と。
けれど、肩すかしに終わる。今日の篤久の頼み事は、勉強についてではなかった。
野球部をやめてから、長年のトレードマークの坊主頭は、変わりつつある。ツンツンと硬く、はやしっぱなしの芝生みたいな頭はいまだ、見慣れない。
「なあ紡。一緒に来てくんね?」
下げられた頭、短髪が目を突き刺しそうな距離に、腰が引けた。思わず「いいよ」と言いかけてしまう。
まあ、言ってもよかった。結局のところ、僕は親友の助けになれるのなら、全部を受け入れてしまうんだし。
一応僕は、抜けている目的語について尋ねた。
「どこへ?」
篤久は僕の問いに、あたりをキョロキョロと見回す。部活だの塾だので散ってしまったクラスメイトたち、教室に残っているのは一部の生徒で、彼はその一点に、目を留めた。
最初、視線は彼自身の席に向けられているのかと思った。でも、目を細めて頬を赤らめて見つめる理由がないな、と思い直す。僕はさりげなく、彼の視線の先を探る。
「ふーん。なるほどね?」
篤久が熱視線を送っていたのは、彼の隣の席の女子だった。あまり人の顔と名前を一致させるのが得意ではない(だから歴史は嫌いだった)僕ですら、入学してすぐに覚えた生徒だ。
何かを悟ったような僕の相づちに、篤久は「馬鹿、ちげぇよ!」と、否定する。その表情は嘘がつけない。
加えて彼は、声が大きく、ボリュームを調節する機能も壊れている。
大声に、残っていたクラスメイトたちの注目が集まる。もちろん、その中には彼女も含まれているわけで。
少し離れた僕の席からでも、表情がよくわかる、大きな目。怪訝な色を浮かべて、けれど何事もなかったかのように、友人との会話に戻っていく。
篤久は違うと叫んだが、絶対に彼の頼みには、彼女――濱屋美希が関わっているに違いない。
「と、とりあえず行くぞ!」
うろたえた彼は、僕の背中を叩いた。この親友は、声だけじゃなくて力のコントロールもできない男だった。
「ぐっ……」
小さなうめき声を上げ、息を詰める。
僕の苦しみは、しかし、「ほら!」と急かす篤久の勢いに飲み込まれ、誰にも気づかれることはなかったのだった。
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