糸屋「えん」

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 篤久はそのまま入院した。母の方は、数日ですぐに出てこられたが、彼はいつになったら退院できることか、わからない。身体も心もボロボロになった親友を、僕は直視できなかった。  美希との縁がつながった段階で、やめておけば幸福だったのに。二兎を追うものは一兎も、とはよく言うが、彼は実際、何人の女性を狙っていたのか。僕もすべてを聞いたわけじゃない。  篤久が悪いのは、重々承知している。それでも大切な親友の、あんな姿は見たくなかった。哀れだった。  だから、その怒りは本人ではなく、別へと向かう。  僕は初めて、ひとりで店の扉に手をかけた。前回までは、篤久と一緒にくぐった、古い店だ。 「いらっしゃいませ」  全国区のニュースにも取り上げられるほどの大事件だった。細められた目は、何も見ていないようで、実はすべてを見透かしている。  高校で起きた事件の当事者が、自分の店で糸を買っていった少年であることを、彼女は知っているはず。  なのに、その連れであった僕がひとりで姿を現しても、店主は一切、顔色を変えなかった。含んだような微笑で、歓迎の意を一応表すと、それっきり黙って、カウンターの中で座って、刺繍をしている。依然と同じ、白い布に白い糸で。  僕は衝動のまま、カウンターに乱暴に手をついた。  けっこうな音がしたが、彼女は動じなかった。針仕事を止めて、僕を見上げる。  目が合った。黒目がちな、不思議な瞳。普通に見える範囲を超越しているかのような、その光彩に吸い込まれそうになる。凝視してくる彼女に圧倒されそうになりつつも、僕はなんとか、篤久のことを話した。 「あなたが売った赤い糸のせいで、僕の友人は大変な目に遭った。身体の傷だけじゃない。精神を病んで、今も入院している」  言ったところで、彼女は医者ではない。ただ糸を売る店の主人だというだけの存在だ。責任を取ることができるわけではない。  それでも、謝罪だけは。  変な噂のある糸を、何の注意もなく売りつけたことだけは、謝ってほしかった。  もしも彼女が最初から篤久に、複数人相手には使ってはいけないと忠告していれば、今のこの状況には、陥っていなかったはずだから。  僕の剣幕に、店主は涼しい顔を崩さなかった。それどころか、「それで?」と、謝る気は毛頭ないことがわかる。 「それで……って、責任とか、感じないんですか?」  女は恐ろしい。包丁を持ち出した聡子や、篤久とのことをなかったことにしている美希から、僕は学んでいた。 「それが、彼の選んだ縁の因果でしょう」 「でも」と言いつのる僕を、彼女は止めた。縫いさしの白い糸を巻きつけた、人差し指をつきつけて。 「あなたの親友のような道をたどる人を出したくないのなら、あなたがここで見張ればいいわ」  人知を超えて美しい女は、ただ微笑んでいるだけで、恐ろしい。 「あなたはここで働くべき。そういう縁に縛られている人」  訳のわからないことを言う女――黒島(くろしま)糸子(いとこ)の妖艶さは、僕に絡みつく糸になる。  僕は反発もできずに、頷いていた。  糸子に逆らえないんじゃない。篤久のためだと、自分に言い聞かせながら。
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