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「ただいま」
商店街を抜けたところで、篤久とは左右に分かれた。あの不思議な店以外に寄り道はしなかったから、まだ日は高い。
僕の帰宅の報に、返事はなかった。再放送の刑事ドラマだろう音は聞こえるから、母は在宅のはずだ。
案の定、リビングに顔を出せば、母はいた。ソファに座ってドラマを見ているが、頭が規則的に上下しているから、うとうと居眠りをしていることが、後ろから見て取れた。
「ただいま」
小さな声のつもりだったのに、母はびくん、と肩を揺らして起きた。意識が現実に戻ってきたのを確認し、僕は三度、「ただいま」を言う。
「あ、ああ……お帰りなさい、紡」
言ったきり黙りこくって、曖昧に微笑んだ母に、僕は何も言わず、そのまま二階の自室へと向かった。カーテンで閉ざされたリビングは、さっきまで訪れていた店と同じように、薄暗かった。
自室へ着いてすぐ、鞄を放り出して、カーテンを開けた。西日というには、まだ白い光が青空から降り注ぎ、ようやく僕は、人心地つく。息が正しくできるようになった気がする。
制服のまま、ベッドに寝転んだ。
母が……いや、両親が、僕に対してなんだかぎこちない態度になったのは、最近のことだった。
中学までは、帰宅すればすぐに「おかえり」と言ってくれたし、「おやつあるけどいる?」「早く宿題やっちゃいなさい」と、家族ならば当たり前の言葉をかけてくれた。
仲良し家族が気恥ずかしくもあったが、今思えば、声かけはありがたいことであった。
高校に入ってから、僕らは最低限の会話しかしていない。きっかけがなんだったのかは覚えていないし、そもそもそんなものは、なかったのかもしれない。
理由は特になく、ぬるりと変化して、それが恒常化していく。ただそれだけの話なのかもしれない。
ポケットに入れっぱなしにしていたスマホを取り出した。いつ登録したのかも忘れた、いろんな宣伝メッセージを既読にするのも面倒で、そのまま放置する。
そして、僕はある人に電話をかけた。
今日あったことを、誰かに聞いてほしい。できるだけ、身近な人で。
両親には気恥ずかしいし、今の関係では気まずい。かといって、今日一緒にくだんの店を訪れた篤久とは、話すことでもない。
そんなとき、僕が選ぶのはひとりだ。
ワンコール、ツーコール。三回目が鳴り終わる前に、プツ、という音とともに、相手が出てくれる。
どうしたの、紡。
電話の向こうにいるのは、姉の結だ。
今年二十一歳になる姉さんは、別に一人暮らしをしているわけじゃない。同じ家にいるのだが、彼女は引きこもりで、弟の僕とも電話を通じてしか話をしない。トークアプリを使えない、旧型のガラケーをいまだに使っているし、メールはちまちまと打つのが嫌らしい。
「姉さん、糸屋って知ってる?」
糸屋って、糸だけ売っているお店?
「知ってるの?」
話に聞いたことがあるだけよ。
「へえ。じゃあ、縁結びや縁切りができるっていう噂は……」
今日の出来事、糸屋の印象を一生懸命に話す僕に、姉さんは適度に相づちを打つ。淡々とした声は、感情の起伏を気取らせない。昔はもっと、表情豊かな人だったように思うけれど、引きこもるようになってから、変わってしまった。
ああ、両親にもやもやするのは、姉のことを放置しているから、というのもあるな。
部屋から出てこない、誰と交流しているわけでもない娘を放っておいて、僕だけが姉さんの相手をする。その状態に、やきもきしている。
「その店の女の人がさ、めちゃくちゃ美人だったんだけど」
ぞわり。
首の後ろを、冷たいものが撫でた。驚いて振り向くと、窓が開いて、風が吹き込んでいるだけだった。カーテンを開けるときに、一緒に空気の入れ替えをしようとして、開けたんだっけ?
部屋にはひとりしかいないのに、風なんかにびっくりしたのが恥ずかしくて、電話の向こうの姉にばれないように、立ち上がって窓を閉めにいった。
耳元では、姉の囁き声がする。
もしかして、その女の人のことが気になる……とか?
僕は誰も見ていないのに、首を全力で横に振った。気になるは気になるけれど、言葉どおりの意味で使われていないことは、いくら僕であっても、わかる。
「あんな、得体の知れない感じの人のことは、好きになれないよ」
どっちかといえば、美希みたいな可愛い美少女系が好きだし。
とは、続けなかった。
機嫌よく、そっかそっか、と笑う姉に水を差したくなかった。
なんとなく、美希の話題を出したら、この和やかな初夏の空気は、一瞬のうちに消え去ってしまうように思われた。
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