糸屋「えん」

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「おはよう」  約束をしているわけではないが、部活をやめた篤久とは、登校時間もよくかぶるため、一緒に学校へ行く日も多い。開店準備中の店前を、他愛のない話をしながら抜けていく。糸屋の前は、あえて素通りした。 「ところで、ずっと気になってたんだけど」 「おう」 「その手、どうしたの?」  篤久の手、右の小指には、包帯が巻かれていた。  突き指? 骨折? 昨日別れてから、何かあったのだろうか。  篤久は、「よくぞ聞いてくれました!」と鼻息も荒く、包帯をぐるぐるほどき始めた。  そういえば、病院で巻いたにしては汚かったけれど、風呂に入ったあとにでも、自分で巻き直したか? 篤久、右利きだし。利き手の怪我に自分で包帯を巻くのは、大変だろう。  純粋に心配していた僕の目に入ってきたのは、しかし、痛々しく腫れた小指ではなかった。  いや、安心すべきなのだろうが、うろんな顔で篤久を見上げてしまうのも、仕方がない。 「あのさぁ……」  呆れた僕の反応を、篤久は笑い飛ばした。 「そりゃあ、運命の赤い糸なんだから、当然小指に巻くだろ」  昨日購入した糸の使い道。篤久に裁縫の趣味はないし、特にどうしろという指定はないようだった。  てっきり家の引き出しに大切にしまっておくのだろうと思っていたが、こいつの思考回路は、僕の斜め上をいく。  包帯を取り去った彼の指は、赤かった。糸でぐるぐる巻きにされていた。一見して、きつく巻いていそうなことがわかったから、そのうち指先に血がいかなくて、大変んなことになるぞ。 「馬鹿じゃん」 「うるせー。美希ちゃんと仲良くなるためなら、俺はなんでもするぜっ!」  なんでもする、という割に、周りをガードするナイト気取りたちには、手も足もでないくせに。  歩きながら包帯を巻き直すのは大変らしく、僕は溜息をついて、「貸して」と代わりに巻いてやった。  馬鹿だと突き放せればよかったんだが、こんなでも篤久は、僕の親友だから。  教室に到着すると、すでに美希は登校していた。当然のように、男子がふたり、付き従っている。  僕は篤久を横目で見上げた。赤い糸を味方にして、意気込んでいた彼は、しゅるしゅるとやる気をなくしたのが目に見えてわかった。丸まった背中を、ぽんぽんと叩いて促すが、彼はじと目で指をさす。  あそこに入っていけって?  声なき声でそう問う篤久に、僕はうんうん頷く。  信じられない目でこちらを見てしばらくのち、篤久は、「よし」と気合いを入れて、ずんずんと立ち向かう。  ただ単に、自分の席に座るだけのことだが、実際、美希の友人である男子たちは、彼女の席を取り囲んでいるため、乗り越えなければならない壁なのだ。  横歩きをして自席に座ろうとした篤久を、眼鏡をかけた方が、ぎろりと睨みつけた。さすがの篤久も、かちんとした様子で、口をへの字にして、「なんだよ」と言った。  眼鏡は青山(あおやま)甲斐(かい)と言って、入学式で首席として挨拶をした秀才だった。  化学の先生が、学生時代のめちゃくちゃな失敗談を鉄板話として話したとき、クラスメイトは全員爆笑している中でも、彼は冷笑しか浮かべていなかった。  クールといえば褒め言葉だけど、感じのいい笑顔は一度も見たことがないから、単純に性格が悪い。そうに決まっている。 「なんだよ、じゃないな。俺たちが楽しく話しているんだから、君はそっちの、自分の友達と話していればいいだろう」  そっちの、で僕を指すのはやめてくれ。  彼らと目が合うと面倒なことになりそうなので、篤久には悪いが、僕は何も聞こえなかったふりで、鞄の中身を机に放り込んでいく。  すると、生来の陰キャである僕の存在を、篤久ですら忘れる。そうなってから、僕はそっと、親友の戦いを見守る態勢に戻った。  彼らは教室中の注目を集めていた。 「はぁ?」 「大声を出さないでくれ。美希が怖がるだろう」  すると、相方の渡瀬(わたせ)大夢(ひろむ)がすっくと立ち上がる。  彼は篤久よりも背が高いが、篤久と違ってゴリラではない。サッカー部に入部直後から頭角を現した、爽やかでシュッとしたイケメンである。 「だいたい、出席番号順で隣になったからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ」  ……前言撤回。爽やかイケメンは、こんなドスのきいた脅し文句は使わない。眉根を寄せて顔を作っていると、迫力がある。篤久の睨みが、街を歩くチンピラだとしたら、渡瀬のは本物のヤクザみたいな凄みすら感じられた。 「ちょっと、ふたりとも!」   一触即発の空気を切り裂いたのは、まさに天女の声だった。自席に座ったままの美希が、青山と渡瀬にぷりぷりと唇を尖らせている。自然と上目遣いになる彼女に、ふたりはへらへらと頬を緩めている。 「邪魔になってるのは私たちの方なんだから、茂木くんが悪いんじゃないでしょ? ねぇ、サーヤ」  美希たちのグループは、実は三人ではなく、四人組だ。秀才・青山とオラオラ・渡瀬が女王様・美希の寵愛を取り合っている構図の中で、ひとりだけ目立たない。  なんなら僕は、今彼女の下の名前が「サーヤ」に類するものだということを、初めて知った。遠藤(えんどう)さん。彼女のことを、下の名前で(しかもニックネームで)呼ぶ人は、おそらく美希ひとりだろう。  背が低くて、一般的な女子高生という感じ。ギャルっぽい美希と並ぶと、野暮ったく見える、特筆することのない顔立ち。とにかく地味だ。  例えるなら、女王様にかしずく侍女。  男ふたりは、彼女のことは眼中にない。美希が大事にしているから、という理由で一目置いてはいるようだ。遠藤の言葉を、ふたりはおとなしく待っている。 「う、うん。茂木くん、ごめんね?」  謝るのは彼女の役目らしく、美希はその横で、ニコニコ微笑んでいるだけだった。その笑顔が向けられただけで、篤久はすべてを許したようで、「いいよ。俺、あっち行ってるからさあ!」と、頭を掻いてニヤニヤしていた。  ……あ、そのままこっちに来るんだ。荷物くらい置いてこいよ。
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