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一日中気を張っていたせいで、今日は食事がほとんど喉を通らなかった。昨日の今日なので、両親は僕のことを心配していた。
もともと、高校生男子にしては食が進まない方であるということは自負しているが、一切受け付けなかったのは、胃腸炎で苦しんだとき以来だった。
「大丈夫なの?」
「うん……大丈夫」
空元気で宣言をして、僕はそそくさと風呂に入り、その後は自室に籠もった。隣にある姉の部屋のことは、意識からはずそうとしても、なかなかいなくなってくれない。内側から嫌な気が漏れてきている気がしてしまい、どうにもそわそわする。
返してもらったスマートフォンには、何度も何度も、大輔たちからのメッセージが着信する。少し既読になるのが遅いからと言って、電話をかけてくるあたり、本当に過保護な人たちだと思う。同時に、とてもありがたいとも。
俺んちに泊まるか? と、大輔は提案してくれた。あんな気味の悪い部屋がすぐ傍にあったのでは、眠るに眠れないだろう、と。
僕は断った。今夜、ここで決着をつけなければ、ずるずるとこの、腹の奥にわだかまる具合の悪さを引きずってしまう。
引き出しにしまった、白い糸を左手の指に巻く。運命の赤い糸は小指に、とはよくいうが、縁切りのための糸をどうするというのは、聞かない話だった。今は、指に巻きつけることで、姉の黒い意志を防ぐことができればいい。
根元が鬱血しない程度に、でもしっかりと。何度も落ち着かずに確認して、まんじりともせずに、夜は更けていく。やることもなく、僕はただぼんやりと、虚空を見つめていた。右手には、すでに糸切りを握りしめている。
時折、大輔や渚に返信をしながら、僕はそのときを待っていた。
……いつの間にか、うとうとしていたようだ。今日も熱帯夜で、常時クーラーで部屋を冷やしているから、窓は開けていない。なのに僕は、エアコンから吹いてくるのではない、生温い自然の風を頬に感じて、覚醒した。
窓。開いていない。閉まっている。カーテンすら、開いていなかった。今日はくしくも新月で、悪夢の夜よりも暗い。
じゃあどこから風が吹いてくるのか。僕は窓から視線をはずし、ゆっくりと振り返る。
……いる。
黒い塊だった。もぞもぞと動き、僕の傍に這い寄ってくる。手も足も、骨と皮だけのように細い。なのに、身体全体は大きい。ハァハァという、荒く、獣じみた息づかいに、僕は悲鳴をあげそうになる。
醜い。なんて、醜いんだ。
化け物は顔を上げた。顔とおぼしき部分には、目、らしいものや鼻と思われるもの、息を吐き出す口的なものが、人間と同じ数だけくっついている。吐く息が臭い。これが死臭だ。はっきりとわかり、嘔吐しそうになる。
胃からせり上がってくるものを無理矢理飲み下して、僕はどうにか動かなければならない、と、自身を奮い立たせる。
立ち上がった肉塊は……姉さんの腹は、膨れていた。地獄絵図で見たことがある、餓鬼を彷彿とさせる姿だった。彼女の場合はもしかすると、妊娠を夢見ていた結果が、コレなのかもしれない。
当然、腹の中にいるのは、彼女の妄想の中では、僕との間の子である。
『つうううううむううううううぐうううううううう』
強い風が吹いたような、轟音。耳を塞いでも、音は消えてなくならない。
息子の部屋から不審な爆音が聞こえたら、普通の親なら、様子を見に来るだろう。うちの親は、いたって普通の、子どものことを心配してやまない親だ。姉のことも、僕のことも、愛してくれている。
けれど、一切やってこないということは、姉と思わしきこの化け物が立てる音は、周りには聞こえていないということ。僕が喋る声も、願わくは、眠っているはずの両親のところに届きませんように。
「姉さん、もうやめてくれ!」
叫ぶと、うねうねと不思議な動きを続けていた姉は、ぴたりと止まった。そして咆哮。
きゃああああああああ、という甲高い嬌声に似た叫び声は、僕に認識されたことを喜ぶ、女の愉悦の声だ。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
けれどそれを隠して、僕は姉を説得する。はさみは最終手段だ。本当に、彼女が成仏できない、自分の命が危ないと判断したときに、使う。
なんだかんだいって、僕は姉のことを、きょうだいとしてちゃんと愛している。
「姉さん。姉さんは死んでるんだよ」
姉が動きを止めても、彼女の長く伸びた髪は、うねうねと重力に逆らって、うごめいている。きょとんとした姉は、間延びした声で、「知ってる」と言った。
『つむぐはぁ、生きてるあたしを、受け入れなかったぁ。だから、死んだのぉ。死んだら、自由! つむぐもいっしょに、イこ?』
「姉さん……」
『ねぇ、イこうよぉ。つむぐぅぅ、アイしてるのおおお』
木霊する声に、頭痛がしてきた。この人は、僕と心中しようとしている。不変なる死へと、僕を導こうとしている。
僕の周囲がそれぞれ破滅していった運命は、すべて、僕を絶望の淵に立たせることが目的だった。すべては姉の呪いだったのだ。絶望と死は、近い場所にあるから。
姉の髪が僕に向かってくる。太い縄状になり、襲いかかる。
だが、触れることができないのは、白い糸の力だった。僕は強く心をもって、祈りを捧げる。
僕は死にたくない。僕を死に導こうとするこの女の魂と、きれいさっぱりお別れさせてくれ。
化け物と化した彼女は、姉であって姉ではない。姉とは思いたくない。生前の、僕に夜這いをかけてくる前までの、ちょっとおかしいけれど、愉快な姉のまま、思い出にさせてほしい。
最初は手を出せないことを不思議に思っていた様子の姉は、しかし、次第にいらつき始める。実際の肉体を持たない存在ということは、本能だけで、理性がない状態と言える。怒りを制御する頭がないものだから、いきなり沸騰するのだ。
『つむぐううううううううころすうううううううううう』
目を真っ赤に光らせ、口からは唾液がずるずると床に落ちていく。ひどい臭いに、めまいがしたところを、姉は見逃さない。
『つむぐううおおおねええええお姉ちゃんと、ずうううっといっしょにいよおねええええええ』
「っ!」
長い髪が、僕の首に絡みついてくる。しまった、と思ったときにはすでに遅く、がっちりとホールドされる。息ができない。苦しい。見れば、白い糸は姉の負の感情によって、黒く染まり始めている。
もう、限界だった。
僕の脳裏に、篤久のことが浮かぶ。初めての彼女に浮かれていた、篤久。調子に乗らなければ、あのまま美希と一緒に楽しい高校生活を送れていたはず。
美空のことも思い出した。病弱で、移植をしないと助からないと言われていた彼女。美希の大切なものを奪い尽くした彼女は、満たされた生活を送っているのだろうか。それとも、奪う相手自身を本当は大切に思っていたのだと改心し、途方に暮れているだろうか。後者ならいいな、と、切に思う。
遠い土地に逃れていった遠藤と、その兄。彼らの関係を、僕は自分自身の経験から、容認することはできない。きょうだい愛の枠を超えた、性欲を伴う恋愛感情は、やはり気持ち悪いと感じるし、許されないと思う。
でも、もう彼らは僕に関係ない。見知らぬ場所で、僕の知らない土地で好き勝手に生きていてほしい。
青山と渡瀬には、巻き込まれて迷惑をしたけれども、最後は少し可哀想だったようにも思う。
僕がもっと口がうまくて、自分の意見を言うタイプの人間だったのならば、彼らともきちんと和解できたのかもしれない。今の僕はまだ幼稚で、そこまで大人にはなれないけれど。
大輔と渚。僕が巻き込んでしまった、姉の幼なじみたち。ふたりが糸の力に操られていないのは、もしかして、姉にとっても彼らが、大切な友人たちだったからじゃないだろうか。
そして最後に、糸子。得体の知れない彼女だけれど、いつの間にか僕は、信頼していた。
そうじゃなきゃ、この武器は効果を発揮しない。
苦しさにもうろうとする頭で、僕は最後の力を振り絞った。握りしめた糸切りはさみを、力一杯、突き出した。
不意に首を絞める力がゆるむ。力を入れて、はさみを押し込む。
『あ、ぎ、ああああああああああ』
本当に、これは実態を伴わない魂の姿なのか。
だって、こんなにも、肉を刺している感触がするのに。人殺しの手になっていく気がするのに。
化け物は、断末魔のおたけびを上げている。僕はそんな彼女の姿を見たくなくて、目を瞑ったまま。
『つ、む、ぐ、』
遠くかき消えていく声を耳にして、僕は恐る恐る、目を開けた。
「姉さん?」
姉の姿はなかった。かき消えていた。
はさみを握っていた手は、力が入りすぎていて、開くのに苦心した。指先がひどく冷たい。
手のひらに残った糸切りばさみには、血のような生温い液体が付着している。そこで僕は、耐えきれなくなって、吐いた。幸い、ゴミ箱が近くにあって助かった。
すべてを吐き戻してから、僕は左の指を見る。
巻きつけていた白い糸は、すべてきれいに切れてしまっていた。
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