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糸屋に行ってから、一週間が経った。
放課後、僕の近くに寄ってきた篤久は、頭がお花畑状態らしい。ふわふわと夢見心地の目がとろんとしていて、言葉を選ばずに言うと、気持ち悪かった。
だが、どれほど気味が悪くても、彼は僕の親友だ。
「なぁなぁ、紡」
と、声をかけてくるが、自分から話をしようとしないのは、「何かあったのか?」と、僕に聞いてもらいたい心理の表れ。
期待には応えてあげてしまうのが、僕だ。
溜息交じりに彼の望む言葉を口にすれば、「よくぞ聞いてくれました!」
喜色満面の笑みを浮かべた篤久は、大声を張り上げかけて、ぴしりと閉ざした。
そして僕の耳元に、ぐいと顔を接近させる。唇が触れそうで、僕は身震いしてしまった。彼の声量のボリュームつまみは、珍しく正常に機能した。絞って絞って、僕の耳にしか入らない声で、篤久は言った。
「みみみ、美希ちゃんと付き合うことになった!」
!
本当に?
驚きのあまり、言葉を失った僕をよそに、彼は背中をバシバシと叩いてくる。声の調整はできるようになっても、馬鹿力は直らない。息が詰まった。
「この糸、すげえ効果あるぜ! お前も好きな子できたら、買ってみろよ! 一発だ、一発!」
篤久はいまだに、包帯の下に赤い糸を巻きつけている。ひらひらと見せつけられて、僕は忌々しく彼の指を見つめる。
僕はそれでも、糸屋にまつわる都市伝説のことなんて、信じられなかった。結局、篤久が美希の前でいい格好ができたのは偶然で、それが自信となってさらに好循環になった、というのが真相だと僕は思っている。
だが、篤久はそうじゃない。赤い糸を心の底から信じている。
それは、後日の彼の言動にもよく表れていた。
「なぁ、またあの店行こうぜ」
一瞬、「あの店」がどこを指すのかわからなかった。よく行くファストフード店なら、そのまま言うだろう。
そういえば、あの店でアルバイトをしている大学生らしい女の子にも、篤久は「可愛い」と言っていたっけ。スマイルください、と冗談でも言えなかった。
隣の席の美希にすら、話しかけられないへたれなのだから。
「あの店って……」
「糸屋だよ、糸屋」
途端に僕は、篤久がなんだか気味の悪い存在に感じられた。手芸趣味に目覚めたわけでもないだろう。
糸屋に行くということはすなわち、縁結びか縁切りのどちらかを願っているということだ。美希との関係を順調に育んでいる今、必要はない。
その辺を突っ込んでみると、篤久は鼻で笑った。迫力のある彼にそういう嫌な態度を取られると、余計に腹が立つ。瞬間的に沸騰しそうになったが、とにかく言い分を聞いてやろうと抑えた。
「一巻きだけでこんなに効果があるんだぞ? たくさん買ったら、他の女の子とも仲良くなれるかもしんねぇじゃん?」
僕が、篤久相手に暴力を振るえるくらいの肉体派なら、最後まで聞いた瞬間に、グーパンチだ。僕が穏健派でひょろひょろモヤシであることに、篤久は感謝した方がいい。
中学時代、読書感想文を書く以前の問題として、本が読めない! と泣きついてきた彼に、当時流行っていたネット発のライトノベルを勧めたことを、後悔した。
異世界転生でチートな能力を授かった主人公が、たいした理由もなく可愛い女の子たちに惚れられ、誰かひとりを選ぶことなく全員と関係を結んでしまうハーレムものだった。
ちなみに僕自身は、冒頭部で挫折している。
女の子がたくさん出てくる漫画が好きだから、僕好みじゃないけど、篤久には向いていると思ったのだ。
字も大きかったし、難しい言葉は使われていないが、難読漢字にカタカナで格好いい(?)ふりがながついた技が多用されるライトノベルで、篤久はその性癖を開眼させてしまったのかもしれない。
赤い糸はチート。能力を手に入れたら次は、女。
美希ひとりとも、話すのに苦労していた彼は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
そして、頼むよ、と何度も言われて、結局糸屋に行ってしまう自分も甘いし、大馬鹿野郎だ。
放課後、商店街の一角へ。早く早くと背中を叩く篤久をなんとか宥めながら、扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
先日の初来店時と変わらず、この世のものとは思えない儚さで、女店主は立っていた。僕の顔を見て、わずかに目を見開いたかと思うと、彼女はすぐに顔を伏せてしまう。
なんだろう。嫌な感じ。
客ではなく付き添いなのは、先日の来店時にわかっているはず。だから、彼女が気にするべきは、糸を買ってくれる篤久の方。
なのに店主は、僕を見る。じっと、どこを見ているのかわからない、遠い目で。
「店長さん、これください」
迷うことなく赤い糸を手にした篤久に、彼女は顔色ひとつ変えずに値段を言う。
そして、ちらりと僕の方を見たかと思うと、唇に酷薄な笑みだけを浮かべて、釣り銭の入ったトレイを押し出した。
「ごえんのお返しでございます……」
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