糸屋「えん」

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 翌日、学校に現れた篤久は、ある意味クラスの話題をかっさらっていた。 「おはよう」  にこやかに挨拶をしているが、両手の指、全十本に包帯が巻かれていて、とてもじゃないが正気とは思えない。周りが心配するものの、本人は「なんでもない」と笑っている。  怪我ではないことを知っているのは、僕だけだ。あの包帯の下には、赤い糸がぐるぐると巻かれている。小指だけでは足りないくらい、好みの女子が多いということだ。 「おはよう、あっくん」  美希が彼氏の登校に気づき、スカートの裾を弄りながら近づいていく。 「美希ちゃん! おはよう!」  朗らかな彼と、心配する彼女の対比。美希は本当に篤久が怪我をしたと思っていて、心底案じている。眉根を寄せて、彼の指と顔を交互に見やる。  学年一の美少女が、自分のことだけを考えてくれていることに、気をよくした篤久は、鼻息を荒くした。  少し前なら、「キモい」と斬られていたところだが、赤い糸の魔法を使う彼に対して、女子の中には明らかに秋波を送っている子もいた。  まさか本当に、惚れ薬のような効果があるのか?  篤久の狙うハーレムは、すぐそこだった。可愛い子に頼られ、かっこいい! とおだてられる篤久は、調子に乗っていた。  学校では美希とイチャイチャして、青山&渡瀬のコンビを苛立たせる。  放課後は、ファストフード店の女子大生に「スマイルください」と言いながら、連絡先を渡す。好意的に受け取られて、友達登録してもらったと、次の日に見せつけてきた。  美希には「用事がある」と言っておいて、他のクラスの子や美人な先輩とデートを重ねた。  この間までへたれだったのに、今はいっぱしのプレイボーイ気取り。  不実な関係について、他の誰にも話せない彼は、僕にだけこっそりと進捗を語り聞かせる。  もちろん、僕は聞きたくないし、容認したくもない。現実世界に生きている相手との恋愛ではなく、篤久がやっているのは、シミュレーションゲームの攻略だった。  さらに多くの赤い糸を買い求めに行くと言ったときには、さすがに止めた。 「篤久。今、自分がどんな顔してるか、わかってるか?」  と。  暗い欲望に爛々と光る目は、濁っている。顔色はどす黒く、もともと彫りの深い顔立ちだったが、そこに険が加わるようになってきた。快活さ、素直さという彼の美点は失われ、僕は篤久の親友をやっているのが、嫌になる。  僕の心からの忠告を、篤久は聞かなかった。それどころか、 「自分がモテないからって、ひがんでんじゃねぇよ。お前も赤い糸を買えばいいだけだろうが」  などと、完全に馬鹿にしてくる。  僕はもう、糸屋には付き合わなかった。いいや、もう、篤久のことなんて知るもんか。  ひとりでまっすぐ帰宅する。相変わらず、我が家の空気は暗くて重い。今は、篤久のことも胸の中でぐるぐるとわだかまっていて、余計に。  ああ、誰かに相談したい。篤久の愚痴を聞いてもらいたい。  両親にも友達にも言えない、この苦しみを救ってくれる人は、ひとりしかいない。  自室でひとりになった瞬間、僕の心を見透かしたかのように、電話が鳴る。名前の通知を見なくたってわかる。 「もしもし……姉さん」  ジジ、というノイズが少しだけ入る。それでも、姉のアルトボイスは損なわれない。  姉さんだけが、僕のことを気にしてくれている。  第一声が沈んでいることにすぐに気がついて、なにかあったの? と尋ねてくれる。  それだけで、少し心が軽くなった。  僕はいつもの調子を取り戻し、姉さんに最近の出来事をすべて語った。 「あいつ、本気でハーレムつくる気みたいなんだ」  馬鹿だよな、と笑う。チートでハーレムなんて、フィクションの世界にしか存在しない。  青山や渡瀬みたいに、顔がよくてプラスアルファ優れた部分がある、「モテそうだなあ」という連中だって、「好きだ」と言ってくれる女の子はたくさんいるとしても、付き合うことができるのは、その中のひとりだけ。  複数の女子と秘密裏に付き合うことは、露見したら終わりだ。自身の評判は、地に落ちる。  ばれていないうちは楽しいかもしれないが、その後のことを考えたら、賢い男は二股なんてしないものだ。  のちのちのことを考えず、目先の欲望ばかりを優先させるから、篤久は馬鹿なのだ。  姉さんは、僕の話を黙って聞いていた。相づちすら打っていなかったように思う。一方的すぎたことを反省して、口を噤んだ瞬間、姉が、ねぇ、と語りかけてくる。  注意されるのかな、と思った。けれど、姉の言葉は違った。  ハーレムの主には、力が必要よ。権力なり武力なり、知力なり。そんな力がなくてもハーレムをつくりたいのなら、方法はひとつだけ……。  人の心を惑わすような姉の物言いに、脳内にもやがかかる。姉さんの言葉だけがすべてで、他の誰の話も聞きたくない。そんな気分だ。 「その方法って……?」  先を促す僕に、姉さんは笑った。最初は極小に絞った大きさだったが、やがて高く、大きな笑い声に変化していく。ドップラー効果で接近してくる救急車のサイレンを彷彿とさせる、そんな声。  姉さんは、続けた。  刺したり刺されたりする覚悟。凡人のハーレムに必要なのは、それよ。  それだけ言って、電話はいきなりブツリと切られてしまった。
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