糸屋「えん」

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 刺したり刺されたり、殺したり殺されたりする覚悟があれば、ハーレムはつくることができるらしい。  本当だろうか?  考えてみれば、ハーレムや後宮は、権力者のための施設だ。イスラーム帝国のスルタンしかり、日本や中国の帝しかり。  美しい女性が集められ、権力闘争の舞台となる。ときには、身分が低い女性すら、その美貌ゆえに誘拐同然で連れてこられることすらある。妃と奴隷は紙一重だ。  主が無能だと、後宮での争いは激化する。虚構の話だけど、源氏物語のことを思えば、「ああ」と納得できるだろう。光源氏の母親は、帝の愛を手に入れたけれど、他の妃たちからひどいいじめを受ける。  何人もの女を囲う男は、平等に彼女たちを愛さなければならない。また、無能であればあるほど、傀儡にしようと妃たちの実家も出張ってきて、問題は複雑化する。  現代社会では、さすがにそこまでの規模ではない。でも、二股をかける男は、確かに刺されてもおかしくはない。  というか、痴情のもつれは、金銭問題と並ぶ衝動的な殺人、傷害事件の動機だ。  けれどまさか、それが自分の身近なところで起こりうるとは考えていなかった。  女の子をとっかえひっかえしている篤久は、無能だ。事情を知っている僕以外、誰にもばれていないと思っている。  学校という狭いコミュニティ、そして田舎で遊ぶ場所も限られている。  なのにどうして、絶対に大丈夫だと確信できるんだろう。  赤い糸の効力は、女の子を惹きつけるところまで。その後の彼女たちの管理は、本人の力量次第。  僕は糸屋の店主のことを思い出す。真っ黒な髪、白い肌、赤い唇。美しさとおぞましさは、実は紙一重なのではと思うほど、絶妙なバランスで成立している、彼女という存在。  あの人は、そこまで親切心を持ち合わせていないだろう。微笑には、優しさや親しみはない。どこか達観している、そんな感じ。  僕は篤久から、少しずつ距離を置いた。  親友がいなくても、お気に入りの女の子たちがいる彼は、僕のことを意識の外に追いやってしまっている。もはやいなくてもいい存在になった僕は、それでも篤久の観察だけは、やめられなかった。  彼は日に日に、大胆になっていた。今も教室の中央で、美希が頬を膨らませている。 「ねぇ、あっくん。昨日のデートの約束、どうしてすっぽかしたのっ?」  ふくれっ面でも美少女は美少女だった。ここぞとばかりに、青山たちが美希の援護に回り、気に入らない篤久のことをこてんぱんにやっつけてやろうと息巻いている。 「お前、美希の優しさに甘えてるんじゃないだろうな。やっぱりお前みたいな無能に、美希はふさわしくない」 「俺も同意。やっぱ美希には、美希のことを一番に考えるやつじゃないとな。俺みたいな?」  そこまで言うと、篤久に骨抜きにされている美希が、青山たちに、ぎゅん、という目を向ける。怒ってはいても、彼氏を他の人間に悪く言われるのは嫌なのだろう。 「甲斐も大夢も、あっくんにひどいこと言わないでよ!」 「……ごめん」  女王様の一声は、効果てきめんだった。二人のナイト、いや、下僕はすごすごと引き下がり、篤久は調子に乗る。このままうやむやにしてしまおうという魂胆が、その表情から見てとれた。 「ごめんね、美希ちゃん。俺が大事なのは、美希ちゃんだけだよ。他の子のことなんて、ぜーんぜん」  そう言っている彼のズボンのポケットの中では、スマホが今も何度か断続的に震え、メッセージの受信を知らせている。あとでこっそり、返信をするのだろう。おそらく、美希を悪者にする形で。  同じクラスの女子がさぁ、俺に気があるみたいでぇ、教室でスマホいじってると、怒るんだよなぁ。  そんな風に。  僕は美希に忠告をすべきか迷っている。  前の篤久ならいざ知らず、今の篤久には、誠実さのかけらもない、と。  付き合っているのは君だけじゃないし、全員にいい顔をしていて、はっきり言ってクズ野郎なんだ、目を覚ました方がいい、と。  だが、僕が何を言っても、彼女は聞き入れないだろう。現時点で、青山たちが何を言っても、つん、とそっぽを向く。遠藤が、ためらいがちに最近の篤久にまつわる噂話を耳に入れようとしても、信用しようとしない。  まして、篤久の親友(元、かもしれない)とはいえ、単なるクラスメイトの僕が急に話しかけたところで、拒絶されるに違いない。  それに。  僕は篤久にベタベタとくっついている美希を見つめる。  彼女の目は、常人のものとは思えない。篤久が他にちょっかいを出している子たちも、そうだ。まるで熱に浮かされた、催眠術にかかっているような目で、篤久を見つめている。  君の恋心は、本心ではないのだ。  そう説得するためには、赤い糸について、糸屋について話をしなければならない。  きっと、頭のおかしいやつだと思われる。  平凡な陰キャ生活におおむね満足している僕は、下手な注目を集めることをしたくなかった。  結局、僕は逃げたのだ。篤久と美希の、いびつな関係から。  そしてそれを、すぐに後悔することになる。
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