糸屋「えん」

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 五月の最終日。もうほとんど夏ではないか、という気温の中、僕は遅刻していた。  寝坊ではなく、腹痛でしばらくトイレから出られなかったという正当な理由だから、のんびりと歩いている。すでに担任には連絡済みだった。  朝のショートホームルームが始まる前には、教室に到着できそうだ。  人気のない玄関で靴を履き替え、時計を見ながら思った。  遅刻の理由は、あんまり突っ込まれたくない。高校生にもなって、からかってくる連中はいないと思うけれど、話題に出すこと自体、気分のいいことではない。  朝礼前に着けば、なんとかなる。  僕は三階の教室へと向かう。  一年生は伝統的に、三階に教室を与えられる。三年生は受験のため、一分一秒も無駄にしてはならない……という理由で一階に教室を構えているが、たいした進学実績もないのに、進学校ぶろうとするのが滑稽だと、常々思っている。  あまり急ぐと、痛みがぶり返してきそうだ。手すりで身体を支えながら、歩みを進める。普段から体力不足で、階段なんてできる限り上り下りしたくないうえ、体調不良時にはだいぶ堪える。  所属している一年A組の教室は、階段から一番近いところにある。僕の席は前から二番目だが、一応遅刻者としての対面を保つため、後ろの扉に手をかけようとした。  そのときだった。  死角から、ドン、と強くぶつかられて、油断していた僕は、よろめいて扉の前を譲った。かろうじて転ばずに、無様な姿を見せることはなかったけれど、かなり驚いたし、痛い。  誰だよ、と、ぶつかってきた相手の顔を見ようとしたが、それよりも先に、彼女――女であることはわかった。髪、長かったし――は教室へと入っていく。  一瞬、静まりかえった教室。そして爆発。女子が悲鳴を上げ、机や椅子が倒される音がする。  僕がいるのと反対側、前方の扉が開いて、何人かの生徒が出てきた。あまりにも慌てていたために、折り重なって倒れている。  僕は呆然と、開け放たれた扉の前で立ち尽くした。  突き飛ばしてきた女は、制服を着ていなかった。体育のジャージでもない。完全なる私服姿から、学校の関係者ではないことは、一目瞭然だった。  けれど、僕は彼女に見覚えがあった。下ろしたままになっている髪の毛を、アップスタイルにしてユニフォームを着せれば、あのファストフード店のアルバイトの女子大生だと見当がついた。他の生徒にはわからなくても、篤久にはよくわかっているはずだ。  彼女の手には、きらりと光る刃がある。包丁かナイフか、それとも手に入りやすい、大きめのハサミか。そんなことはたいした問題じゃない。大事なのは、彼女が凶器を持ち、学校に乗り込んできたということ。  目的?  そんなのひとつしか、考えられない。  生徒たちが逃げ出す拍子に、あるいは邪魔だと引き倒したのかもしれない、机と椅子が乱雑に転がっている。 その中心には、篤久。美希を背中にかばい、顔を引きつらせている。彼もまた、犯人の狙いはわかっている。 「さ、聡子(さとこ)さん……」  初めて彼女の名前を知った。聡子の名前を呼んだ瞬間、後ろにいた美希が、聡子および彼女の持つ包丁(ようやく僕の目にも、はっきりと凶器が映り込んだ)ではなく、篤久のことをちらりと見上げた。  どうしてこの女の名前を知っているのか。しかも、下の名前を。  事態は深刻なのに、美希の頭の中は、「誰よこの女」ということでいっぱいになってしまっている。今にも聡子に食ってかかりそうな彼女を、しかし篤久は、気にかける余裕がない。  二股――どころじゃないわけだが――が、ばれた。どうにかごまかそうとしているのが、僕にははっきりとわかった。伊達に親友をしていたわけじゃない。  今すべきは、まず、美希の安全を確保。それから、聡子を宥めすかして、どうにか凶行を諦めさせなければならない。  中に入ることは、女を刺激することになる。僕は首と目を動かして、どうにかならないか探る。美希のピンチだというのに、青山や渡瀬は、ちっとも役に立たなさそうだ。ぶるぶると震え、息を殺しているだけ。  逃げ出した連中が、先生たちを呼びに行っているはずだ。だから、もう少しだけ辛抱すれば、大丈夫。助かる。誰も傷つかずに、事態は収束する。  言い聞かせ、僕はハラハラと、現場を見守っていた。  僕が中に入って、颯爽とこの場を治める? そんな真似、できるはずがない。僕は僕、か弱い人間でしかないことを、自分が一番よく、わかっている。  聡子がゆらりと身体を揺らした。地の底から響く低い声で、彼女は篤久を呼んだ。 「ひっ」  情けなくも、短く悲鳴を上げる篤久。返事もまともにできない年下の男に対して、聡子は顔を上げ、目を剥いた。 「篤久くぅん。なーんで最近、返事してくんないのかなぁ?」 「そ、それは」  僕は篤久からの一方的な報告で、知っていた。女子大生ということで、篤久は過剰な期待をしていた。自分よりも経験豊富で、リードしてくれて、甘やかしてくれる。  だが、聡子も大学一年生。高校を卒業して間もない彼女に、「大人の余裕」なんてものはほとんどない。だから、連絡先を交換して、バイト先からまっすぐデートをしたとしても、何にもなかった。  女子高生とは違う付き合いを望んでいた篤久は、それが面白くなくて、一方的に連絡を絶ったのだという。 「あたし、知ってるんだよ? 女子大生なんて、やっぱ面倒だし、えらそうにするのがむかつく。やっぱり付き合うなら、JKだよなあ、って。そう言ってたんでしょ?」 「な、なんでそれを……!」  人の口に戸は立てられない。  そんな慣用句は、篤久の知識にはないかもしれないが、今、彼は身をもって覚えただろう。  聡子のバイト先のファストフード店は、うちの学校から近く、放課後に来店する生徒も多い。アルバイトをしている生徒だって、いるだろう。  篤久は僕に内緒話をしているつもりだったが、同じ教室に、まだまだ生徒は残っていた。  その中の誰かが聡子と知り合いで、だまされている彼女を見るに見かねて……ということは、じゅうぶん考えられた。 「でもあたし、今から女子高生には戻れないから……考えたんだよね」 「な、なにを?」  引きつりながらも会話を長引かせようとする篤久に、そんな場合じゃないというのに、多少の知恵があったものだと感心すらしてしまう。  聡子は包丁に舌を這わせる仕草をする。うっとりと、それがまるで大切な何かであるかのように見つめ、うふふ、と笑った。 「篤久くんのぉ、周りにいる子たち、みんな殺しちゃえばいいや、って」 「っ!」  固まっていた美希の身体が跳ねた。一番の標的は、美希になる。彼女は篤久の後ろで、「あっくん……」と、心細げな声をあげた。  ここで、篤久が身を挺して美希のことを守るのならば、格好良かった。教師が警備員を伴ってやってくる。もう少しの辛抱なのだ。  けれど、篤久は……僕の親友は、本当に、最低最悪の存在に成り下がっていた。  背後に隠れていた美希を前に押し出すと、自分の楯にして、今度は自分が彼女の後ろに隠れた。もちろん、体格が全然違うので隠れ切れていない。美希の肩をがっつりと掴んで拘束し、逃げられないようにしている。 「ちょっと、あっくん!」  焦燥と怒りでひっくり返った美希の声を、篤久は無視して聡子に語りかける。 「お、俺を殺したいんじゃないんだな? だったら、この子。この子刺したら、聡子さんは満足なんだよな?」  出て行くタイミングを失い、固唾を飲んで修羅場を見つめていたクラスメイトたちの空気が変わる。理不尽な暴力を働こうとした聡子ではなく、篤久へと思惑が移動していく。  憤怒、軽蔑、絶望。ありとあらゆる負の感情が、篤久に向かっていく。でも、命乞いに必死な彼は、まったく気づかない。  聡子の凶行からうまく逃れたとしても、もう二度と、これまでどおりの学校生活は望めなくなるというのに。 「ふふ、そうね、そうよ……あなたが戻ってくるために、この子を殺せばいいのね? わかったわ……」  じりじりと近づいていく聡子。助けなければいけないのに、誰も動けない。逃げ出したいだろう美希は、しかし、篤久に押さえつけられていて、身体をひねることさえできない。  いよいよ振り上げられる包丁。絶体絶命になると、誰も声が出せなくなる。僕はぎゅっと目をつぶり、血が流れる瞬間から逃げ出した。  はずだった。  再び目を開けた僕の視界に入ってきたのは、白。特に聡子は真っ白になって、咳き込んでいる。目も開けられない様子だった。  フシュルルル、という噴射音がする。恐る恐る確認すると、そこには消化器を手にした遠藤がいた。泣きそうな顔で、必死になって友人に害をなそうとする女を倒すため、ひとり奮戦している。  僕は我に返った。やめろやめろ、ともがいている聡子のところに駆け寄り、包丁を取り上げた。床に落として、足で踏み、二度と手に取れないようにする。  教室中が真っ白になったところで、ようやく教師が警備員を伴ってやってきた。  これでもう、大丈夫だ。ほっとしたところで、惨状に尻餅をついたのは、僕ではなく、篤久だった。
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