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その店は、国道から少しわき道に入ったところにあった。
「ふう、助かった」
夜空を背景に耀く明るい黄色の看板を見上げ、僕は思わずそうつぶやいていた。
家庭教師のアルバイトからの帰りである。
大学に合格し、この街にやってきてまだ10日ほどしか経っていない。
念願の一人暮らしを始めたのはいいが、なにぶん地理に不案内で、つい道に迷ってしまったのだ。
バイト先でケーキと紅茶は出たのだが、夜道を1時間もさまよっているうちに、すっかり腹が減ってしまっていたのである。
「天丼か。珍しいな」
看板には、ただ二文字、天丼、とだけあった。
ただ、天と丼の間に☆マークが入っているのがご愛嬌だ。
牛丼のチェーン店ならよく見かけるが、天丼の専門店というのは、少なくとも僕は初めてだった。
自転車を店の横に止め、中に入った。
昼間のように明るい店内に、客の姿はなかった。
コの字型に並んだカウンターに、天井の照明だけが無機質に反射している。
「へーい、いらっしゃーい!」
奥の厨房から元気のいい声が飛んできて、短髪を金色に染めた若者が顔を覗かせた。
「そこに券売機がありますんで、ご注文はそれで」
エプロンで両手を拭いながら、若者がいった。
僕と同じくらいの年頃で、少しチャラい雰囲気の青年である。
金髪には少し抵抗があったが、物腰はいかにも馴れた感じで、人懐っこい目をしていた。
いわれた通り振り向くと、タバコの自動販売機のような箱が壁際に置いてあった。
「なんだこれ?」
つい声に出してしまった。
券売機には、中央にひとつ、『天☆丼』というボタンがあるだけで、ほかには何もない。
「うちは専門店なんで」
若者が笑いながら声をかけてきた。
「でも、味は保証しますから」
なるほど。
僕はなんとなく納得した。
確かに種類が多くてまずいより、料理は一品だけでも安くてうまいほうがいい。
四角いボタンの上には、天丼の写真の代わりに女の子の写真が貼ってある。
売れないご当地アイドルだろうか。
かわいいことはかわいいが、見たことのない顔で、写真自体もプリクラで撮ったような安物だ。
値段は500円と少し高めだったが、選択の余地はない。
硬貨投入口に500円玉を入れると、下の口からJRのローカル線の切符のようなものが吐き出されてきた。
それを手に取り、適当な席に坐る。
「まいどー」
券を受け取るなり、若者がいった。
「ご飯の量はどうします? 大盛でも追加料金なしですよ」
「じゃ、大盛で」
「了解でーす」
笑顔を残して、厨房の中に戻っていった。
ジャケットのポケットからスマホを取り出し、メールチェックしていると、店の奥のほうからかすかにバタバタという音が聞こえてきた。
何か、ねずみでも暴れているような音だった。
そこに悲鳴が混じったような気がして、僕はびくりと顔を上げた。
「すみませーん、裏口から野良猫が入ってきたもんで」
若者の声がした。
たしかにきょうは暑かった。
春を通り越して、初夏の気温になっている。
だから裏口を開けたままにしていたのだろう。
食品衛生上どうかと思うが、あのノリが軽そうな若者ならやりかねない。
僕はスマホの画面に注意を戻した。
裏口のドアの閉まる音がして、次に油の爆ぜる音が続く。
揚げ物特有の香ばしい匂いが漂ってきた。
「おまちどーさま」
5分ほどすると、待ちかねた天丼が運ばれてきた。
大盛用のどんぶりに白米が山型に盛られ、その上に黄金色に光るホカホカの大きな天ぷらが乗っていた。
「すごいな」
僕は感嘆の声を上げた。
何の天ぷらだろう。
海老かアナゴのようだが、長さが20センチくらいもあり、完全にどんぶりからはみ出している。
おいしそうだった。
たまらず僕はかぶりついた。
サクッとした衣の下で、プリプリした肉が弾けた。
旨みが口の中いっぱいに広がった。
あとはもう夢中だった。
わき目も振らず、僕はそれを平らげた。
「激ウマだね」
食べ終えて、お茶で喉を潤しながら、奥で食器を洗っている店員に話しかけた。
「こんなうまい天丼、初めて食べたよ。もう一杯もらっていいかな」
半ば興奮気味に僕はいった。
だが、返ってきた返事は至って商売っ気のない、予想外のものだった、
「すみませーん、お客さん、今ので食材切れちゃったもんでー。きょうはこれで閉店でーす」
「へーえ、そうなんだ」
がっくりだった。
仕方ない。また明日来るか。
お茶を飲み干して、立ち上がる。
「でも、食材って、あれ何の天ぷらだったんだい?」
出がけにたずねると、
「一日に1匹捕れるかどうかのレアものなんですよ。お客さん、ほんと運がよかったす」
店員がニカっと笑い、屈託のない笑顔で、
「ありがとうございましたー。またよろしくー」
と元気よく手を振った。
きつねにつままれたような気分で店を出た。
自転車の鍵をはずしていたときである。
だしぬけにすさまじい呻り声が沸き起こって、僕の背筋は凍りついた。
裏のほうだった。
獣と獣が争うような激しい声だった。
何事だ?
自転車から離れ、店の横の路地に入る。
L字型に曲がった裏手の通路を覗くと、ひっくり返ったポリバケツを挟んで2匹の猫が睨み合っていた。
「なんだ、脅かすなよ」
店員がいっていた野良猫に違いない。
僕をひと目見るなり、2匹の猫はびっくりするほどの身軽さでブロック塀の上に飛び上がり、脱兎のごとく逃げていった。
踵を返そうとしたときである。
「ん?」
僕は地面に何か白いものが落ちているのに気づき、目を凝らした。
今さっき、猫たちが咥えて引っ張り合っていたものだった。
小さな白い翼である。
よく見ると、周囲に羽毛が散らばっている。
翼は血にまみれていた。
どうやらポリバケツから猫が引っ張り出したらしい。
あの天ぷら、鶏肉だったのか?
少し興味を思えて、僕はひっくり返っているポリバケツを立て直し、何の気なしに中を覗き込んだ。
「う」
次の瞬間、あまりのおぞましさに僕は呻いた。
人体標本のような、あばら骨と骨盤が入っていた。
血と肉片がこびりついている。
肌色の紙切れみたいなものは、皮だろうか。
切断された青白い手足が、その間から、壊れた人形のようにバラバラに突き出している。
頭部もあった。
薄い金色の、ふわふわとカールした髪の毛。
その下に、可愛らしい少女の顔がついている。
この顔は、たしか・・・。
青いつぶらな目を見開き、恨めしげに僕を睨んでいた。
どれも小さかった。
人間の子どもにしても、小さすぎた。
どのパーツも血にまみれ、今解体されたばかりのように、ほんのりと湯気を立てている。
「お、俺は、何を食ったんだ・・・?」
吐き気がこみ上げてきた。
口許を手で押さえ、よろめきながら後ろに下がったときだった。
ふいに店の明かりが消え、カチャリと乾いた音がして、裏口のドアが開いた。
「あーあ、見ちゃったんだ」
呆れたような口調で、誰かがいった。
あの青年の声だった。
が、なぜだかエコーがかかったような奇妙な声色に変わっている。
暗闇でふたつの眼が光っていた。
血のように赤い、2つの眼・・・。
「こ、これは・・・」
ポリバケツの中身を指さして、僕はいった。
「これはいったい、何なんだ?」
「わかるでしょ?」
青年が笑い、闇の中に進み出てきた。
暗いのでよくはわからない。
だが、なんとなく体つきがおかしい。
一回り以上、大きくなっているように見える。
それに、あれは何?
首筋から生えている、あの触手のようなものは?
「お客さんがさっき食べたのはね」
化け物が答えた。
くっくと気味悪く含み笑いしている。
「俺がさっき捕まえたばかりの、天使ですよ」
「天、使・・・?」
そんな、あり得ない。
つまりあれは、天丼じゃなくて・・・。
天使丼・・・・?
趣味の悪い洒落だった。
「おいしかったでしょ? でもね、天使を食べると、どうなると思います?」
相変わらずくつくつ笑いながらそいつがいった。
「ど、どうなるって・・・?」
僕はよろよろとあとじだった。
「地獄に堕ちるんですよ。俺みたいにね」
化け物が翼を広げた。
一瞬、紅蓮の炎が渦巻いた。
そして。
真の闇が迫ってきた。
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